「はぁ…しんどい……」
会社の屋上から眺める空は夕日に染まっていて、どこかで烏の鳴き声が聞こえた。
社員の談笑の場として開放されているこの屋上は、周りを高層ビルやマンションに囲まれているせいで景観がよくない。眼下に映る道路はいつも車でごった返し、クラクションの音が止まない有り様なので、わざわざここを利用しようという社員はほとんどいなかった。
それを逆に利用し、社内で唯一一人きりになれる場所として訪れる者も少なからずはいた。花咲もそのうちの一人だった。
社は今まさに今後の明暗を分ける繁忙期に突入し、三週間が過ぎようとしている。それでもまだ自分の山積みになった業務が減っていく気配のないことに花咲は重い溜め息をついた。
さすがにいくら残業をしても、いくら休日出勤しても終わりのみえない作業を続けるというのは精神的に参ってしまう。
これが自分の上司である月島さんのような優秀な人ならもっとはやくに片付けられるのだろうが、花咲は自分が要領の悪い、どちらかといえば落ちこぼれの社員だということを理解している。
あの人は自分の憧れで、ああいう人のようになりたいと願ってはいるが、今のところその願いが叶う日は来ないように思われた。
立ち並ぶビルの隙間から覗く夕日を眺める。燃えるような赤い日は目に染みて、痛かった。
激務に追われ過ぎて人気のないこんなところまで来てしまった。早々に戻って業務の続きに手をつけなければならないことは花咲自身が最も理解していることだが、どうにも気が進まず、気が付けば屋上への階段を上っていた。
「戻らないとな……」
言葉とは裏腹に足は縁を囲うように立てられた柵のほうへ寄っていく。社長の節約主義かなにかの理由で、ここの柵は人を守るためというよりとりあえずなにかしらしておけばいいといういい加減なものなので、少し頑張れば股げてしまう程度のものだ。それが体を預けるのにちょうどいいので、花咲はこうして疲弊しきってしまった時だけこの屋上を利用していた。
腕を柵に乗せ、その上に顎を置いた。対面のビルが夕日を全身に反射させ、花咲のことも橙色に染め上げる。その窓の奥ではきっと誰かしらが忙しそうに業務に追われているのだろう。
花咲はふとビルの下に目をやる。
いつも渋滞をつくり、どうしようもできない苛立ちを排気ガスやクラクションの音で紛らわす車たちが赤信号を前に停車している。
その横を行きかう人々が早足で通り抜けていく様をただぼーっと眺めてみる。オフィス街であるこの場所にはほとんどサラリーマンかOLの姿しか見当たらず、全員なにかに背を押されるように、脇目もふらずに駆けていっていた。電話をしながら、書類を見ながら、スーツケースを引きながら、それぞれの目的地まで無我夢中で走る波をどこか他人事のように眺めては、自分もあんな感じなんだろうかと思ってまた心の中が暗くなる。
やめだ。こんなことをしていても仕方ない。
意を決して屋上を後にしようと身を起こした花咲の胸ポケットからするりとペンが落ちた。
運悪く柵の向こう側に落ちていってしまったペンを慌ててしゃがみこんで取り戻そうと手を伸ばすが、ぎりぎりのところで届かない。くそ、と舌打ちする。
自分が普段使うような、百円で何本かセットになって売っているようなペンなら執着せずこのまま見捨ててしまうが、あれだけは駄目だ。あれは大切なもので、絶対に捨てるなんてことはできない。必ず取り戻さなくては。
花咲が初めて仕事につき、まだまだ慣れていない社会人としての生活を送り始めた頃から面倒を見てくれているのが月島という男で、彼に支えられなかったら自分はかなり早い段階で社会からドロップアウトされていただろうと花咲は常々思っている。
花咲はたぶん社内での評価も良くないし、仕事のスピードは同僚たちの中で最も遅いだろう。臨機応変な柔軟な対応にも弱かった。
花咲は社会に出て初めて自分が周りより劣っていることに気付かされた。それまでなんとなく勉強し、なんとなく卒業できた学校での生活がいかに生ぬるく、自分のようなものにとって優しい場所であったか、そこでようやく理解できた。
仕事のできない落ちこぼれ。そう思うと自分はまるで職場の足枷になったような気分だった。
そんなどうしようもなく後ろ向きになり始めていた花咲を支えてくれたのが月島だ。
彼は誰よりもはやく的確な仕事をこなすので周りからの信頼は厚く、自分なんかが彼の部下でいいのだろうかと気にしてしまうほどに優秀だった。そしてその姿が花咲には眩しくて、憧憬の念を抱くのに時間はかからなかった。
「お前の仕事はいつだって丁寧だし、ミスが少ない。誇っていいことだと思うぞ」
周りよりも遅れて業務を終わらせた花咲が申し訳なく思いながらも報告に行くと、月島は必ずそう言って彼の仕事ぶりを褒めた。
実際、遅くなるらせめて間違いのないようにと細心の注意を払っていたが、改めて彼に褒められると背中に羽が生えたような、体が軽くなったような気持になる。
彼に救われている。でもそれだけでは駄目だ。
与えられてばかりいないで、自分も彼のためになることしなくては。自分なりに精いっぱいの恩返しを。
花咲はその気持ちだけを原動力に今までなんとか仕事を続けることができた。
「インクが切れたのか」
そうしてどうにか業務をこなしていたある日、書類に文字を書きこもうとしてペンのインクがかすれていることに気が付いた。何度か振ってみたが結果は変わらず、近くのコンビニに買いに行かなくてはとそれをゴミ箱に放ると同時に月島に声をかけられた。
驚いて振り返ると、彼は自分の胸ポケットにさしてあるペンを取り出して花咲に渡した。
それは自分が普段使うものと違って、どこかの専門店で買ったと思われる重厚な造りのものだったので花咲は慌てて「受け取れない」と彼の手へ返そうとしたが、月島は頑として受け取らず、「構わないから」と押し付けられてしまった。
「ですが、あの…これって高級なものなんじゃ……」
「そうでもない。文具店ならどこでも売っているようなものだ。気にしなくていいから使え」
「けど…月島さんはどうするんですか?」
「同じものを持ってるから心配するな。書き味がいいから、きっとお前も気に入ると思うぞ」
それだけ言って月島はデスクに戻っていってしまう。
花咲の手の中には彼のお気に入りだというペンがしっかりと握られている。しっとりとした漆黒の総身に銀の装飾が施されたそれは自分の手の中にあるとまるで似合わず、確かに持ちやすく書きやすいという理想的なものではあったが、ペンケースからそれが覗くたびに彼の姿が思い出されて困ってしまった。
しかも彼の胸ポケットにも同じものが見えるのだから、喜べばいいのか、恥ずかしがればいいのか余計わからなくなる。
けれど憧れの彼にもらったものだ。嬉しくないはずもなく、花咲は今日までそのペンを愛用している。インクを継ぎ足す作業にも慣れてきた頃だった。
どうしてこんなことをしているんだろう。
柵を乗り越えてペンを拾う。それだけでも疲弊しきった体には多少の負担になるし、そもそも自分の不注意で彼からもらったものを落としてしまったという事実がまた花咲の心中に暗い影を作る。
同じペンを持っていても自分と月島では雲泥の差があり、彼はどんなに忙しい時でもこんな風に時間を無駄に使ったりしないのだろうと思うと、自分のどうしようもなさに呆れてしまう。
いつになったら恩返しができるんだろう。こんな自分では一生かかっても無理かもしれない。
夕日の明るい陽を受けてペンは赤く輝いている。その輝きでさえ眩しくてぎゅっと目を瞑った。
「俺ってダメなやつだな」
瞬間、ワイシャツを物凄い力で引っ張られる。声をあげる暇もなく、柵に足が引っかかり、そのまま内側へ倒れ込む。
視界がぐらっと揺れたと思った次の瞬間にはコンクリートと同じ目線になっていた。ペンが手から離れていって、カツンと音を立てて床を滑っていくのがスローモーションのように見えた。
なにが起きたのか分からない。柵の外側、屋上と外を繋ぐその狭い道へどうにか入ってペンを拾った。そう思ったのにペンはまた床に落ちているし、自分は柵の内側へ戻されて倒れている。
突然のことに目の前に光が飛んでいるようだった。ちかちかと白く輝くそこへ聞きなじみのある声が飛んでくる。
「なにをやってるんだ、お前は!」
張り詰めたような怒声だった。反射的に肩が跳ね上がり、慌てて上体を起こそうとするとシャツの胸倉を思いきり掴まれて息が詰まった。
馬乗りのような形で自分の上で切羽詰まった顔をしているのは間違いなく、月島だ。ここまで走ったのか、息が上がって汗をかいている。
「つ…つき、し」
「今なにをしようとしていたんだ、花咲。お前…どうしてお前が……ッ!」
目の前にいるのは月島で間違いのないはずだ。自分の憧れの人のはずだ。
それなのに今の彼は花咲が知るどの彼ともかけ離れていた。部下を叱るときのような厳しい表情をしているのに今にも潤んだ瞳からは涙が零れそうだった。矢継ぎ早に出てくる言葉には怒気を感じるのに、シャツを掴む手はわずかに震え、口角が歪んでいた。
どうしてそんな顔をするのか、どうしてそんなに焦っているのかが花咲にはわからなかった。
ただ打ち付けた腰が痛み、捩じ上げられたワイシャツのせいで呼吸が浅くなっていくのを感じながら目の前の彼を見上げる。夕日が二人を包むように照らし出していた。
「どうしてなんだ。どうしてあんな危険な真似をした。答えろ!」
「あの…自分はただ……」
ペンを拾いたかった。そう言いたいのに、月島の鬼気迫る表情を前にうまく舌が回らない。なんと言えば穏便にこの場をやり過ごせるかわからず口ごもる花咲を月島は鋭い眼光で見下ろしている。
「俺が来たからいいものを、あと少し遅れていたら死んでいたかもしれないんだぞ!」
そこでようやく花咲は彼が勘違いをしていることに気が付いた。
柵の外に出ていたせいでもしかしてそこから飛び降りでもするのではないかと、彼はそう考えて花咲のシャツを乱雑に引っ張ったのだ。
そして今、そんな風に軽々しく自分の命を捨てようとした自分に対して怒りなのか、恐怖なのか、それらが綯交ぜになった感情を向けられているのだと花咲は彼の尋常ではない雰囲気から察した。
「死んでしまってもいいと、そう思ったのか。だからあの柵を越えたのか」
「ちが、月島さん、違います、おれは」
「お前が辛い思いをしていると気付けなかったのは俺の落ち度だ。だが一言でも相談してくれたらよかったじゃないか。そうしたらきっと力になれたはずだ」
普段は業務と関係のないことを喋りたがる人じゃない。そのはずだが感情の高ぶりからなのか、そうしていないと落ち着かないのか、月島は次々に花咲へ言葉をかけては、あの行動の真意を聞き出そうとしている。
それに押されて本当のことを話せないでいる花咲のシャツから手を離し、月島は彼の頬を包んだ。慈しみさえ感じるような、優しい手だった。
「お前はどうしていつもそうやって自分ばかり責めるんだ。お前にはお前なりにいいところがあって、それは他の奴らにも引けをとらないと言っているのに……」
「違うんです。俺は別に死にたかったわけじゃ」
「強がらなくていい。今だけでも素直に話してくれれば、俺は」
「だから、違います!」
今度は花咲が声を張り上げなくてはいけなかった。
ここまで動揺している彼を見るのは初めてで、花咲はその原因が自分であることを恥じた。
いつもいつも迷惑をかけているのに、これ以上負担を負わせたくない。それに彼が自分をどれだけ思ってくれていたかは今のでもう十分伝わった。
「本当に違うんです。俺はただペンを拾っただけで……」
「……ペン?」
怪訝そうに聞き返されて花咲は視界の端で転がるペンのことを思った。大切に使ってきたお気に入りだ。壊れていないといいけれど、と今更ながらに思う。
ようやく険しい表情を少しだけ緩めた月島の肩を押して上体を起こす。そうして彼にも気付いてもらえるようにと横たわるペンのほうを指さした。
ぱちり、と目の前の現実を受け止めるように丸くなった瞳がそれを映して固まる。数秒の間があってから大きな、長い溜め息が聞こえた。
「…………俺は勘違いをしたのか?」
頭を抱えてそう呟く月島に花咲は恐る恐る頷く。眉間にぐっと皺を寄せて月島は肩を落とした。
「……悪かったな、花咲」
「いえ、あの…俺もすみません。すぐに違うと言えればよかったんですが」
「いや、俺が早とちりしただけだ。お前は悪くない」
少なくとも自分に落ち度がないとは言い切れないが、月島がそう言って立ち上がったので花咲はその後に続いた。
勘違いしたことを恥じているのか、月島の顔がわずかに赤くなっている。それがなんだか妙に可愛らしかった。
「あー…けどな、柵の向こうには仕切りはないんだ。危ないから今度からは無理に越えたりしないようにしろ」
「はい、すみません」
咳払いを一つしてから月島は照れ隠しのように頭を掻きながら落ちていたペンを拾った。それを花咲に渡そうとしてはっと動きを止める。
「これは……俺がお前に渡したやつか」
「はい、覚えていてくれたんですね」
「当然だろう。俺はあの頃からお前を……」
なにかを続けようとして月島は咄嗟に口を噤んだ。どうかしたのかと思っているとペンを手渡される。少し砂がついていたが、それ以外は幸いなことに無傷なようで花咲はほっと胸を撫で下ろした。
気付けば陽が沈んできている。随分長いことここにいたようだ。共に戻ろうと月島を誘おうとして息を飲んだ。
月島は地平線の果てに消えていく夕日を眺めていた。夕方と夜の境の空が彼をまだらに染めている。その表情は物憂げで、なにかを深く考え込んでいるのか瞳が不規則な揺れをみせていた。
声をかけることも謀られる数秒の時間が永遠に感じる。花咲は目を離せなくなって、ただじっとその横顔を見ていた。
▽▲▽
ようやく嵐のようだった繁忙期が過ぎた。
花咲もなんとかそれまでに任されていた分の仕事を終え、今は課のみんなでプチ打ち上げ会をしている。毎年この時期を無事に抜けだしたら好きな料理と酒を持ちあってささやかなお祝いをするのが習わしだった。居酒屋で騒ぐのが苦手な花咲にはこのぐらい小規模なほうが好ましいので、いつもこの打ち上げ会には参加していた。
「乾杯」
注文で取ったオードブルと各々が持参した料理を中央のテーブルに並べて全員が缶ビールを持つ手を掲げて一斉にプルタブを開け放つ。同時に辛かったこの数週間が美しい記憶へと昇華していく。この瞬間が好きだった。
あれから月島との関係はあまり大きな変化をみせていない。一応花咲のほうから背負い過ぎないよう相談に行くことは増えたが、その程度で良好な関係は緩やかに続いているように思う。
だが、花咲には少しばかり気がかりなことがあった。
自分が自殺するかもしれないと勘違いして助けてくれたあの時の月島のことを時折思い出す。
普段の落ち着いていて、いつでも周りに気配りができる完璧な彼からは想像もつかない変貌ぶり。あれはなんだったのだろう。
そのまま捉えれば、部下が目の前で死のうとしているのを引き留めた、善良な上司。けれどあの時のあの必死さはもっと別のなにかを孕んでいるような気がしてならなかった。
一通りみんなと打ち上げを楽しんでから花咲は酔い覚ましに屋上へ向かった。
アルコールで上がった体温に外の冷気が当たると心地いい。癖のように柵に腕を乗せて月明りとビルの光が煌めく夜空を見上げていた。
「花咲」
背後から扉の開く音と共に名前を呼ばれる。振り返れば月島が缶ビール片手にこちらに歩み寄ってきていた。
「月島さん、おつかれ様です」
「おつかれ。もう食事はとったか」
「はい」
月島は持ってきたビールの片方を花咲に渡して彼の隣で同じように柵に寄りかかった。
プルタブを開ける。静かな夜にその音はよく響いた。
「今年も忙しかったな」
「そうですね。でもなんとかやり遂げられてよかったです」
「ああ、お前もよくやったよ」
酒が回っているせいだろうか、普段は表情を硬くしている月島も今日ばかりは穏やかな笑みを讃えて花咲の肩をぽんぽんと叩いた。それだけで今までの苦労の全てが労われた気になる。
ぐっと缶ビールを呷る。こんな風に仕事に追われていない夜を二人で過ごすのは久しぶりで緊張する。ごくりとビールを飲みこんだが、またすぐに喉が渇いてしまった。
月島は雑踏の中で明滅する光を眺めていた。その横顔を盗み見る。
あの時と同じように確固たる意志を持っているはずの瞳が揺らいでいるように思うのは酔いのせいだろうか。
「あの時の」
不意に月島が口を開く。
「お前がペンを拾っていたのを俺が勘違いした日があっただろう。覚えてるか?」
「はい、もちろん」
「あの時のことを蒸し返して悪いんだが、聞きたいことがあるんだ」
「なんですか?」
あの出来事のことを彼の方から言及されるのは、これが初めてだった。
彼の普段とは全く違う一面をみた衝撃を今でも忘れられない。その理由が自分にあるのだから尚更だった。
月島はまっすぐにこちらを見つめていた。その実直な瞳に射抜かれると背筋が伸びる。気付けば花咲も彼を見つめ返していた。
「お前にとってあれはそんなに大切なものだったのか。落ちたら怪我では済まないような所へ取りに行くほど、大切だったのか」
胸ポケットから滑り落ちてしまったペンを拾おうと柵を越えた。その先にはなんの仕切りもなく、ただ広大な空と埋もれるほど高いビルたちが並んでいるだけだ。道幅は十分にあったが、それでも普通なら足が竦む思いをするはずだ。
だがあの時の自分は。花咲は少し前のことを思い返してみる。
彼からもらった大切なものだ。それを失うことに比べれば恐怖なんて微塵も感じなかった。
「俺にとってすごく大切なものです。ずっと支えられてきた。俺にはこれが必要なんです」
頷いて、自身の胸ポケットの上にそっと手を重ねる。
最初は使うことさえ憚られたこのペンが見合うような、そんな人になれたら。そうしたらきっと自分が月島の部下なのだと堂々としていられる。憧れの彼の傍にいることが恥ずかしくなくなる気がする。そう信じて今まで必死にやってきた。
全ては自分を支え続けてくれている彼の力になりたかったからだ。
どう思われているのか、少し不安になって花咲は月島を見た。彼も同じ位置に同じデザインのペンを持っている。月島は倣うように自身の胸に手を当てた。
「もしかしたら、花咲。お前は俺のことをなんでもこなせる完璧な奴だと思っているかもしれない」
心を読まれたようで息を飲む。月島はそれを肯定と受け取ったようだった。
「だが、俺は…本当はもっと情けない奴なんだ。お前が慕ってくれるような、素晴らしい人間じゃない」
「どうして……」
どうして急にそんなことを言うのか。
月島はいつだって憧れだった。その背を追っていることが自分にとって努力する意味になった。
その気持ちに応えてほしいと思ったことなどないのに、月島はなぜか否定的なことばかり述べてくる。いつもの彼らしくなかった。
「花咲、俺は……俺についてきてくれるお前のことを、最初は犬のように思ってた」
「えっ」
「俺の背に必死に駆け寄ってきて、どこへ行ってもついてきていただろう。その様子がなんだか、犬みたいだと思ったんだ」
顔が一気に熱を持つ。そんな風に思われているとは知らなかった。
月島はふと笑みを殺し、なにかを押し潰したような、辛そうな表情で視線を下げた。
「あの時、お前にペンを渡したときにお前は最初受け取れないと言っただろう。俺はそれを無視してお前に無理やり押しつけた。どうしてだか、わかるか」
確かにあの時の月島は多少強引だった。どうしてだろう。あの頃を思い返してみても理由がわからず首を振ると、彼は自嘲気味に微笑んだ。
「俺はあの頃からお前のことを犬だと思えなくなった。部下としても見れなくなった。理由ははっきりわからないが、とにかくお前に俺の物を渡したくて仕方なかった。独占欲だったのかもしれない。他の誰かの背を追わないようにしてしまいたかった」
月島の言葉は少し前までアルコールでぽやぽやしていた花咲の頭をどんどんクリアにさせていく。本能的に彼の言葉を少しでも聞き逃してはならないような気がして、花咲は緊張で喉が渇き切っていることも忘れてじっと目の前の彼を見つめた。
「この間、お前が死ぬかもしれないと思った時に、一気に気持ちの箍が外れたような気がした。このまま失うぐらいならいっそ全てを奪ってしまいたかった。だが……結局なにもできなかった」
胸ポケットの上にあった手を月島は硬く握りしめた。震えを抑えるためかもしれない、と花咲は感じていた。あの時だって彼は同じように複雑な顔をして、それでもどうにか理性を失わないようにしていたのかもしれない。ふとそんなことを考えた。
「俺はお前が思っているよりもずっと臆病で、情けない男だ。わかっただろう。お前に嫌われて、もう追いかけてくれなくなるのかと思ったらなにも言えなかった。お前の中の憧れの自分を壊したくなかったんだ」
諦めにも似た薄い笑みでそう告げた彼のワイシャツが冷たい夜風に翻った。
月島ははっとして顔を上げる。すぐにまた視線を逸らされてしまった。
「……悪い、忘れてくれ。酔っぱらいの戯言だ」
ばつの悪そうに頭をかいて屋上を去ろうとする彼の手を咄嗟に掴んだ。
このままこの機会を逃したら、多分もう二度と彼はこの話題を持ち出さない。気持ちに蓋をして、今まで通りの上司と部下に戻ってしまう。そんな気がして手を離せなかった。
「月島さんはひどいと思います」
月島は振り返ってはくれない。花咲は見慣れた彼の背がひどく小さく見えて、思わず触れそうになった。
「そうやって一方的に話されて、俺はどうしたらいいんですか。前みたいにあなたのことを憧れの上司として見ることなんてできません」
どう意味を捉えたのか、月島は小さな溜め息と共に「そうだよな」と投げやりに呟いた。
思いが伝わっていないとわかって、花咲は今度こそ本当に彼の背に抱きついた。このまま気持ちが届けばいいのに、と思う。
「月島さんが言ったんじゃないですか。自分ばかり責めてはいけない、なんでも相談してほしいって。俺を助けてくれた時に、そう言ったじゃないですか。それなのにどうして月島さんは俺に話してくれないんです。どうして自分のことばかり責めるんですか」
自分のことを思って泣きそうな顔で叱ってくれたあの日のことを思い出す。
あの時から自分の中で完璧でなんでもこなせる憧れの人だった月島へのイメージは少しずつ変わり始めてきていた。
同じものをどうにかして持たせようと渡してきたペン、物憂げに夕日を見つめていた横顔、揺らいでいく瞳の陰り。
月島は自分が思っているよりずっと人間くさくて、嫉妬深いのに臆病な面もあって、でもどこか可愛らしくもあって。
なんて、愛おしい人なんだろう。そう思った。
「俺は……俺はあなたのことがこんなに好きなのに。その答えも聞かずに逃げるんですか」
ぎゅっと強く彼の背に抱きつく。まさかこの人を抱きしめる日が来るなんて思いもしなかった。
こういう方面に明るくない花咲にとってそれだけで顔から火を噴きそうだった。心臓が飛び出して街中に落ちていってもおかしくないぐらいにどくどくと脈打っている。
今更恥ずかしくなって目を瞑っていると、彼の消え入りそうな声が聞こえた。
「今…好きと言ったのか……? 俺のことを好きだと…?」
「そうです、言いました。俺はあなたが完璧な人じゃなくても憧れてるし、完璧じゃないからこそ惹かれるんです」
花咲はもう耐えられなくなって彼の背に顔を埋めた。きっと真っ赤になっている。それでも溢れ出た気持ちが止まりそうもなかった。
「月島さんが好きなんです」
少しの間、沈黙する。いつもはうるさいぐらいの車や人の行き交う音が消えている。街も雑居ビルも人々の足並みも全てがなくなって、この世界に二人きりでいるような錯覚に陥る。
このまま永遠にこの人の体温を感じていたい。呼吸で小さく上下する胸板を。高くなった体温のせいで赤くなった耳を。ずっと感じていられたらどれだけ幸せだろう。
「花咲」
名を呼ばれて、そっと彼の背から顔を上げる。肩を軽く押されて離れると、月島はようやくこちらに振り向いた。月明りを反射する明るい翡翠の瞳が期待の色で濡れている。
「花咲」
そっと彼の手が頬を包む。あの時と同じ、優しい手だ。花咲はその手に自身の手を重ねた。
緊張と、それを上回る期待のこもった瞳が花咲を一瞥してから伏せられる。花咲も同じように瞼を閉じた。
互いの気持ちを確かめ合うように唇が重なる。
そうしてしばらく触れ合った後に離れた。
そっと目を開けると、夜空の星のように光を映した彼の翡翠色の瞳が間近で見えた。ふとその目元が柔らかく落ちる。
月島が笑っている。今まで見たことのないような、優しい笑みだった。
「花咲、俺はどうしようもない奴だから、きっとまたお前にこうやって甘えるかもしれない」
「いいですよ。けどその分、俺にも甘えさせてください」
「ああ、もちろん」
だからもう一度だけ甘えさせてくれ。
呟いて月島の唇が再び近付いてくる。受け入れそうになって花咲は慌てて彼の口を手で押さえた。驚いて目を丸くさせている月島に花咲は照れくさくなりながらどうにか告げる。
「ダメです。だって俺はまだ月島さんの気持ちを聞いてません。ずるいです」
ぱちぱち、と何度か瞬きをした後に月島は笑った。先ほどまでの憂いが全て消えて、ただ幸せな気持ちだけが残ったような、そんな笑顔だった。
「お前が好きだ、花咲。俺と恋人になってくれ」
花咲は返事の代わりに憧れで、大好きな彼へ口付けた。
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