Reversi小説 | ナノ



8-2

 ぴり、と小さく引っ張られるような痛みを感じて光一は再び自身の右頬に触れる。

 裂けた箇所から漏れ出た血液は既に固まりかけていた。ざらついた隆起を撫で、一度深く息を吐く。


 そもそもの始まりは一週間ほど前。光一と 賢斗 けんと は通っている中学校の終業式を終え、明日から冬休みという浮足立った気分で新作ゲームを買いに行く予定だった。

 それが何故か、賢斗はドラゴンに襲われ、光一の目の前に剣が現れ、賢斗の傷を癒やすために異世界に連れて来られるはめになったのだ。
 こうして言葉で並べてみると笑ってしまうような非現実の連続だが、光一にとって らは別によかった。ゲームのような世界でゲームのように戦う。剣と魔法のファンタジー。何度か命の危険を感じたこともあったが、それでも正直なことを言えばワクワクした気持ちの方が勝っていた。

 賢斗だって、なんだか危ない状況みたいだけどなんとかなるだろう。無事に連れて帰ることさえ出来れば、イリアなりトキヤなりよくわからないけどすごい人たちに任せれば助かるのだろう。なかば現実逃避の希望的観測ではあったがそう思っていた。そう思うようにして、なんとかここまで来た。

 光一にとって賢斗は、唯一と言っていいだろう友達だった。学校で話す人間はそれなりにいるが、もし今回助けなければいけない人物が賢斗じゃなかったなら、光一はおそらくここまで必死にはならなかった。


 その賢斗が今、光一を拒否した。


「……えー、お前、本物の賢斗やんな?」
「はは、なんだそれ。……あぁそっか、この世界にはニセモノの俺もいるんだっけ?」

 部屋に入ってきたときの猛吹雪はおさまりつつあった。視界は多少ひらけたが、賢斗の表情はよく見えない。彼を隠すように覆っていたドーム状の氷はいまだ半分以上残っており、攻撃を放ったであろう右手側から半身がのぞいている程度だ。

 彼の話し方は、光一がよく知っている賢斗のものと変わらないように思えた。

「ケントはニセモノ……ともちゃうけど、まぁええわ、話してる時間ないねん。とりあえずすぐこっから出て……」
「あのさぁ光一」

 賢斗は笑顔で光一の言葉を遮る。
 だがその語気から苛立ちが漏れ出ている気がするのは気のせいだろうか、と光一は怪訝な視線を送る。

「俺、助けてほしいなんて言ってないよな?」
「…………は?」
「言ってないよな、一言も? な?」

 笑顔のまま、たたみかけるように声を発する賢斗。
 予想していなかった反応が続き、光一の困惑が深まっていった。

「言ってないも何も、お前喋れる状況ちゃうかったやんけ」
「……あーそうだっけ。じゃあ今言うわ。俺、助けてほしくないでーす」
「何……ワケわからんこと言って……!」
「ワケわからんくねーよ。だって俺、ここ来たくて来たんだもん」

 まるで子どものような賢斗の言い分に、光一の困惑が苛立ちに変わり始める。
 いい加減にしろ、と怒鳴り声を上げそうになった瞬間、後ろから突風が吹いた。

「≪ かすみ あま ぎり ≫」

 発光する衝撃波の刃が光一の脇腹をすり抜け、目の前の賢斗を覆うドーム状の氷を崩した。ヒカルの技だ。
 砕け散った氷の破片が辺りに舞い、視界が一気に白で染まる。
 振り返ると、再び剣に魔力を込め終わった様子のヒカルが構えていた。光一は慌てて叫ぶ。

「ヒカル、ちょっと待てって……!」
「さっき言った。闇の魔力は潰すって」
「まだ大丈夫やろ!? 会話もできとるし……っ」

 そう訴える光一にヒカルは返事をせず、眉間のシワを深めた。そして一度構えを解き、無言で光一の後方を指さす。
 その指に従い首を動かすと、光一の目は信じがたい光景をとらえた。

 白銀に埋もれた景色の中で、異彩を放つ黒がゆらりと動いた。
 不気味で壮大な違和感に光一の心臓が大きく跳ねる。


 翼。
 その翼は、ここ数日で何度か目にしたことのあるものだ。
 鳥類よりはコウモリを思わせる、硬い骨格に沿うように張られた薄い皮膜が広がる。
 それはつい先日まで架空の生き物だと思っていた、《ドラゴン》の身体に備わっているものだ。


 それが今、目の前にいる親友の背から生えているように見えた。


「お、前……、それ……っ」

 光一の喉はなにか大きなものを飲み下そうとしているかのように詰まり、単純な問いかけすら吐き出すことができなかった。
 誰も動かないでいると、雪煙が落ちついて視界がクリアになっていく。

 賢斗を覆っていた氷の壁が完全に崩れ落ち、その姿が露わになった。
 一番特徴的なのは背中から生えた大きな翼で、左頭部からは羊のようなねじれた角が伸びていた。
 顔はところどころ、痣のように黒ずんでいる。
 眼球の白目部分を黒く塗りつぶしたような賢斗の左目が、驚愕した光一の表情をとらえて得意げに微笑んだ。

「ちょっと強そーだろ」
「え、それ、なん……大丈夫、なんか……?」

 目を見開きおそるおそる言葉を発する光一を、賢斗はけらけらと楽しそうに笑い飛ばした。

「あはは、めちゃビックリしてる。いやー、大丈夫かどうかは正直知らねー。なんかほっといたらこーなってたわ。すごいっしょ」

 光一はうろたえながら、視線をヒカルたちに向けた。彼が今どういう状況にあるのか、誰かに説明してほしかった。
 それに応えたのは後方で様子を見ていたセレナだった。

「えーと、内側にあった闇の魔力が、外に漏れ出てドラゴン化しています。ドラゴンというのは、とっても濃い魔力の集合体なんです」
「ドラゴン化って……このままいくとどうなるん」
「もともとの意識は消えて、完全にドラゴンになってしまいます。≪ しょう ≫の最終段階です。ここまで進行していると、切り離すのはもう無理かもですねー……」

 セレナが少し申し訳なさそうに眉を下げて、しかし容赦ない答えを光一に突きつける。

 この世界に来る前、最初にミチルが言っていた「闇にのまれる」とはこういうことだったのだろうか。
 ドラゴンになるなんて聞いていない。
 人間離れした外見になってしまった親友を前に、どうするべきなのか思い浮かばず光一は立ち尽くした。

 そんな光一の絶望に追い打ちをかけるように、ヒカルが再度賢斗に向けて攻撃を放つ。

「ヒカル……ッ! やめろって!」

 光一にもわかっている。
 ヒカルの目的は最初から闇ドラゴンの討伐であって、賢斗の状況がどうなろうと関係ない。賢斗を傷つけないでほしいというのは光一のわがままだ。

 それでもこれ以上最悪の事態へ進むのを避けたくて、焦燥のままヒカルを静止する。
 ヒカルは苦い顔を光一に向けて、手の中で魔力を練り続ける。

「もう時間ないし、助けるのも無理なんでしょ。諦めよ。このままだとみんな死ぬよ」
「わ、わかってる……けど! でもまだ、なんか方法が……っ」
「じゃあそれ思いついたら止めて。何もかも手遅れになる前に、オレはやるからね」

 そう言うと再びヒカルは賢斗に向けて数発の斬撃を飛ばす。
 しかしそれらは雪煙を舞い散らすのみで、肝心の賢斗は涼しい顔をしていた。

 何度か続けて打ち込むが、攻撃はたしかに当たっているのにまるで手ごたえを感じない。ヒカルが怪訝な顔で睨みつけると、挑発するかのように賢斗は赤い舌をぺろりと出した。

「なんかそっちの攻撃、全然効かないっぽいけど。大丈夫そ?」

 そこで口を開いたのはセレナだった。

「大変なことになっているかもですねー」
「なに、どういう状況なん」
「これまでヒカルさんが闇属性のドラゴンを倒せたのは、闇の魔力よりもヒカルさんの持つ光の魔力が大きかったからです」

 賢斗自身も今の状況がよくわかっていないのか、おとなしくセレナの説明をきいている。

「光は闇に強いですが、逆もまた然り。闇も光に強いんです。闇の魔力の方が大きければ、光の魔力も押し負けてしまいます」
「お互いに効果バツグンってことやんな」
「そして普通、これだけの魔力があればもうとっくにドラゴン化しているはずなんですが……何故か魔力側が、賢斗さんの意識から離れようとしません。賢斗さんを媒体として、どんどん闇の魔力をパワーアップさせている状態です」
「えー、つまり……?」

 後半の説明が上手く理解できず、光一はより簡潔な答えを求めた。セレナはひと呼吸おいて、胸の前でぐっと拳を握り真剣な表情で言い放つ。

「闇の魔力 むげんだい 状態です! いくら光の魔力で攻撃しても、吸収されちゃいます!」

 彼女の言葉に、その場にいた三人は同様に呆けた顔をした。

「んなアホな。そもそも攻撃が効かないとかズルやん……」

 あまりに絶望的な説明に、光一の口角がひきつる。

 ラスボスに挑むには、決定的に足りない何かがあったらしい。イベントを逃したのか、そもそも最初から勝てるルートなんてなかったのか。

 ヒカルも流石に無意味と思ったのか、攻撃の手を止めた。
 重い沈黙に思えたが、楽しげな笑い声が静寂の中に弾んだ。

「え、じゃー俺さいきょーなんじゃね?」

 賢斗が場違いな明るさでへらへらと笑う。やっと近づけたと思っていた彼が、いまはものすごく遠くにいるように光一は感じた。

 助けようと思ってここまで必死で来たのに、本人がそれを望んでいないなんて予想していなかった。賢斗は元々笑顔でいるイメージが強かったが、今の彼は本当に、心から楽しそうで、あんなにキラキラと瞳を輝かせられる奴だとは知らなかった。
 光一は真っ白になった頭でぼんやりと思う。

 オレ、賢斗のことホンマにわかっとらんかったんやな。
 だってお前、なんも言わんかったやん。

「賢斗、お前、ホンマにそれでええんか」

 ぽつりと、口からこぼれるように出た声は決して大きくはなかったが、賢斗の耳には届いたようだった。彼は上機嫌な表情のまま、光一に視線を向ける。

「それで、って何? なんでもいいよ別に。今までの世界よりこっちのが楽しいだけ。楽しくない? 自由じゃんなんか色々。光一も好きだろこういうの。逆に戻る必要ある?」
「……ばーちゃん心配しとるやろうし。オレは帰るつもりやけど」

 光一が深く考えずにそう答えると、賢斗は弾けたように激しく笑った。
 初めて光一の姿を見たときとよく似た笑い方だった。

「アハハハハハ! そっか! そだね! いーんじゃない、じゃあ早く帰んなよ!」
「だからお前を……!」
「俺は帰んねーよ」

 いつまでもふざけたような態度の賢斗に光一も苛立ち始めたが、同時に賢斗の目も鋭く細められる。「帰らない」というのは、どうやら冗談で言っているわけではないようだった。

「もういーだろ。俺のことは放っといてくれていいから、さっさと帰れよ」
「お前ホンマええ加減にせえよ。ここ来るまでどんだけ大変だったと思てんねん」
「知らねーよ。だから頼んでもねーのになんで来たんだって」
「言っとることヤバいでお前。友達が死ぬかもしれんってなったら、そりゃ来るやろ!」
「いやマジで知らねー。なんだよ友達って。さむいわ」

 会話のテンポはいつものリズムだ。だが決定的に、内容がかみ合わない。返ってくる答えが、求めているものとことごとく違う。賢斗とここまで話が通じなかったのは光一にとって初めてだった。

 その上この期に及んで一歩引いたようなすかした態度の賢斗に、光一は今度こそ心底腹が立った。言葉を交わすごとにお互いの語気が、呼応するように荒くなっていく。

「なんやねんそれ、カッコつけとるつもりか? ダルいてホンマに!」
「だるいのそっちだろ? 自己満押し付けてくんなよ!」
「せやからお前はどうしたいねんって! いきなり帰らん言われても意味わからんて!」
「だからさっきから言ってんだろが!! 俺は戻らない、ここでめんどくさいことなーんもせずに適当に死ぬよ、それでいいだろ別に!」

 賢斗が言いきったあと、光一が返したのは言葉ではなかった。
 考える前に手が出ていた。

 強く握りしめた右拳で、賢斗の頬を勢い良く殴り飛ばす。

 シンプルな物理攻撃を受けて賢斗の身体がよろめいた。殴られた左頬を押さえながら、顔を上げた賢斗は光一を睨む。

「てめ……ッ!」

 すぐにカッとなって手がでてしまうのは光一の悪い癖だ。自覚もあった。それで何度も失敗してきたし、後悔もしてきた。
 頭ではわかっているが、言葉だけで自分の気持ちを伝えることは光一にとって難しい。短所というのは、そうそう直せるものではないから短所なのだろう。

 それでも今まで光一が賢斗に対して手を出したことは一度もなかった。
 おそらくそうなる前に、賢斗は光一の言いたいことをくみ取ってくれていたからだ。すべて言わずともなんとなく雰囲気で察してくれて、おおかた光一が欲しい返答をくれていた。

 だが今回はそんな彼の気遣いに頼ることはできないようだ。
 だから光一は、自分にできる精一杯を、言葉以外で伝えることを決めた。

「オレ、お前とケンカしたことなかってんな。なんでやろって、今気付いたわ。お前がなんも言わんかったからや。せやからオレもお前に腹たたんかった」

 周りから散々「怖い」と言われてきた目つきで、光一は真正面から賢斗を睨みつける。

「いま、お前に本気でムカついとるよオレは」
「俺はお前にずっとムカついてたよ」

 賢斗が氷のような冷たい瞳で相対する。

 光一は胸の前で自分の右拳をもう一方の手のひらにぶつけた。パン、という小気味いい音が鳴る。光一の怒りに呼応するかのように小さな火種が辺りでいくつか爆ぜた。

 氷と炎を宿したそれぞれの視線がぶつかり合う。


「ほんならこっからはオレとお前の、初めてのケンカやなァ!!」

[ 50/50 ]

[*prev] [next#]
[もくじ]
[しおりを挟む]