■ こちら前線異常なし

鏡に写った最早見慣れた子どもの顔に流し損ねた泡が残ってないか、髪が跳ねてないかを確認して頷く。
そして両手で頬をぱちんと軽く叩いて気合いを入れた。
(──今日こそは!)
昨日、神社に立ち寄って普段やらない神頼みまでしたのだから大丈夫な筈。御神籤で引きの悪い自分に大吉が当たった事を今度ばかりは信じる。

今日こそは何事もなく、無事にデートが出来ますように。ささやかな、しかし子どもにとっては心からの望み。



こちら前線異常なし



コナンにはお付き合いしていると云える相手がいる。男同士だろうが、見た目大人と子どもだろうが、お付き合いはお付き合いだ。例え手を繋いだり、頬や額、稀に唇への可愛らしい口づけくらいしか進展がなくてもだ。
ご飯を作ってもらったり、おやつをご馳走になったり、風呂に入れられて上から下まで洗われて、その後髪を乾かしてもらった挙げ句爪を整えてもらったりする事があったりしてもだ。
二人は間違いなく恋人同士なのである。

そのお付き合いをしている沖矢昴とのデートが悉く上手くいかない。
元々、コナンから家で過ごす方が良いと云ったのだが、昴との仲に慣れてくると段々欲が出てきたのだ。人生初めての恋人が出来たのだからあれもこれもしてみたい。好奇心旺盛な名探偵は欲望に忠実だった。
昴に二人で出掛けたいと云う訴えは思った通りあっさり受け入れられたのに、実行しようとすると度々邪魔が入るのだ。
毛利探偵事務所に事件が舞い込めば勿論そちらが優先になる。無事に外出しても、大きな荷物を抱えたお婆さんに出会ったり、迷子に出会ったり、迷い猫に出あったり、果ては殺人事件に出会ったり。そんなこんなで約束の時間に大幅に遅れた上、最終的に「今日はちょっと…」と連絡をするはめになる。コナンから誘っておきながらドタキャンしてしまうのは大いに後ろめたい。男が何時間遅刻しても笑顔で待っていることも、厭な顔一つせず車で事件現場に迎えに来てくれることも益々コナンの肩身を狭くしていた。
結局、お付き合いを始めるきっかけになった日のお出かけしか、まともなデートをしたことがない事になる。
(──否、あれはお付き合いする前だからノーカウントだろ)
何事も完璧主義なキライがあるコナンにとっては、デート一つまともに出来ていないのでは付き合ってると云えない、と思えてきた。何しろ他にやっている事はご飯をご馳走になったり、可愛らしい口づけだったり、以下略。
まるで子どもの世話好きなイクメンパパと手間のかかる子ども。これではいかん。
斯くして、コナンは今回こそデートを成功させてみせると決心していたのだった。



キャメル色の暖かいコートを羽織って玄関に向かうと、取っ手を掴む前に扉が開いた。
「あらコナン君、おでかけ?」
「う、うん。昴さんと」
「最近仲が良いのね。あの人もホームズオタクなんだっけ?」
「そう。だから一緒に話してると楽しくて」
必要のない嘘はつきたくない。幸い、数少ないホームズファン仲間だと知られているので、正直に昴に会いに行くと云っても不審がられなかった。
「…おじさん、今日は沖野ヨーコライブ放送があるから仕事は受けないよね?」
固く決心したと云っても探偵としての好奇心はどうしても押さえきれない。これがドタキャンの原因であると痛い程理解していても。
「その予定だったんだけどね。さっき飛び込みのお客さんがいらして、料金を弾むからどうしても今日からお願いしたいって…」
「えぇっ!?依頼人!…おじさん、引き受けたの?」
「うん。今月依頼少なかったから、ヨーコちゃんは録画で我慢するみたい」
何ということか。これでは今回も失敗になるではないか。──コナンに事件を後回しにするという発想はなかった。
「じゃあぼくも…」
「駄目よ、コナン君。昴さんと約束があるでしょ?それに依頼は浮気調査だから、流石にお父さんも連れてってくれないわよ」
蘭の口から聞かされた依頼内容にガクリ、と力が抜けた。浮気調査ならコナンの出番はない。
蘭に見送られ、意気揚々と出掛ける事が出来た。御神籤の大吉効果を信じても良い気がする。
実は約束の時間まではかなり余裕がある。万が一大荷物を背負ったお婆さんや迷子、迷い猫に出会っても助けて遅刻しない為の対策だ。後は殺人事件にさえ出会わなければ遅刻はないだろう。

(…大吉って凄い)
困っている人どころか、赤信号にさえ引っ掛からずに待ち合わせ場所近くまで来たコナンは感動する思いだった。これからは占いや御神籤で一喜一憂する蘭や園子を笑えないかもしれない。
時計を確認すると約束の時間までまだ三十分以上あった。
(…初めて昴さんより先に着けるかも)
コナンが遅刻の常習犯だと分かっている昴は、きっと時間ぎりぎりに来るのではないだろうか。それでも遅れはしないはず。
デートで待ち合わせ場所にやって来る昴、という初めての姿が見れるかもしれないと思うとコナンの歩みも自然と早くなる。いつも余裕のある表情で待ち受けている姿ばかり見ているのでかなり楽しみだった。

「ウソ……」
まだ距離があったが、遠目からでも待ち合わせ場所の人魚の噴水前に居る長身の男は間違いなく昴。噴水の縁に腰掛け、文庫本を片手に読書中のようだ。
自分の時計が遅れてたのかと慌てて携帯を取り出して確認したが、アナログ腕時計に狂いはなかった。つまり昴の到着が早いのだ。コナンの密かな楽しみは打ち砕かれることになったけれど、ショックを受けている場合ではない。
(…昴さん、何時から待ってるんだろう?)
今日は青空が広がっているが、気温はかなり低い。コートを着込んでいるコナンの呼吸も一瞬で冷たくなってしまうのに。昴は長身に黒いミドルコートを羽織っている。コナンの脳裏に男の本当の顔が過ったが、直ぐに打ち消す。ここにいるのは大学院生の沖矢昴だ。
(…つっても、大学院生してるところ見たことないんだけど)
コナンと会っている時以外の昴は謎に包まれている。実際に大学に籍を置いているのかも不明だ。訊ねたことはない。聞けば答えてくれそうな気がしても、何故か躊躇う。
(俺も『工藤新一』の事は話してないしなぁ。とっくにバレてる感じなのに何も云ってこないし…)
こんなに秘密だらけで恋人と云えるのだろうか。
(母さんも昔、秘密は女を美しくする…ってこれはベルモットだ)
本当に子どもだった頃、母に訊ねた事がある。子ども心に恥ずかしくなるくらいラブラブな両親に「何で未だにそんなに好きなのか」と。自分としては他の家の落ち着いた親が羨ましく思えての発言だったのに、十代の少女のように美しい母は無邪気に笑った。
『それはね、新ちゃん。ママはパパの事まだまだ知らない事だらけだから、新しい顔を見つける度に恋に落ちるのよ』
──我が子に云うことだろうか。母親のノロケを思い出して呆れるが、今はあの言葉にすがりたい。恋人の知らない顔があっても良いのだ。だがしかし、───。
「………」
探偵の性、或いはコナンの好奇心が疼き出す。秘密を暴きたくなる悪い癖が。
(…ちょっとぐらいなら、良いかな?)
コナンの知らない沖矢昴の顔を見てみたくなったのだ。折角約束の時間前に到着したのに神頼みも無駄にする行為。それをしてしまうのが、コナンが、コナンとしてここに今居る理由かもしれなかった。
(約束の時間まで少し観察してみよう)






自分の姿を見つけられていないのをこれ幸いと、昴の死角になる位置のファストフード店に入る。昴は恐ろしく勘が働くので、観察するには距離を十二分取らなければいけない。
珈琲を買って二階席の硝子壁の場所を陣取った。死角の為、表情が見えないが、噴水にただ腰掛けている姿を眺められるだけで満足だ。
(何読んでいるんだろう?ミステリーの新刊?)
推理小説の好みが合うコナンの記憶に発売予定の本はない。ならばミステリー以外か。まさかファンタジー小説──駄目とは云わないけど、イメージに合わない。
(…大穴で大学の専門書もあるかもしれない)
大学に通っているなら有り得る事だ。だがその前に大学通っている昴が想像出来ない。学生仲間と飲み会に参加している様子は想像もしたくない。
(そんなのあったら絶対隣に女の人が座ってる…!)
勝手な妄想に勝手に落ち込むコナンに近寄る人影がいた。
「おや、コナン君じゃありませんか?」
「──あ、安室さん!?」
寄り道したコナンに罰が当たったのか、現れたのは非常に顔を会わせづらい人物。片手に飲み物の乗ったトレイを持った男が、驚いた様子で立っていた。
「何でここに…?」
「ポアロのバイトに行く前に時間があったので。毛利探偵も今日は僕を呼ぶような事件はないと仰ってましたから」
浮気調査では天下の名探偵の見せ場がないから助手は不必要──と小五郎は判断したらしい。
「コナン君は何故ここへ?お一人ですか?」
「えと…」
神頼みを叶えてもらったのに自ら無駄にした罰は重かった。
安室が敵側ではない人間だと判明したが味方でもない。昴の正体を知られずに済んだのは良かったが、安室は昴に好意を持っていない。それは昴の方も同じだ。本能的に相性が悪いのだろう。
(昴さんと待ち合わせ…って云うのはマズイな。そもそも昴さんの姿を認識してたら、何で俺がここに居るんだって話になるし…)
答えに詰まるコナンに、安室はにっこり笑って向かいに座った。ここに座らないでくれとは云えない。
「よくここに来るのかな?」
「…たまたまだよ。通りかかって咽が渇いたから」
「ああ、散歩かな?今日は寒いけど良い天気だからね。コナン君のそのコートも良く似合ってますよ」
昴に買って貰った物だとは知らないハズなのに、安室の言葉一つに裏を考えてしまう。何か探っているのではないだろうか。
「ありがとう、安室の兄ちゃん。僕、そろそろ…」
「お時間があるなら僕とデートしませんか?」
席を立とうとしたコナンに思いがけない言葉が投げ掛けられた。
「え?」
「バイトは夕方からなんです。コナン君と一緒に何処かへ出かけるのも良いなぁと思いまして」
「…デートって」
そんな簡単に聞く単語だったろうか。目を見開いて驚くコナンに安室が頬を掻いて苦笑した。
「そんなに驚かなくても。ただ、二人で買い物でも映画でも行きませんか?と、いう話です」
「はぁ」
コナンが考えていたより、デートという言葉は案外広範囲で使われるようだ。同じ男相手に、しかも子どもを誘う為に使われるとは。自分はデートというものを意識し過ぎてたのか。昴が最初にコナンを誘った方法を強く意識していたからか。
しかし了承するわけにはいかない。直ぐ近くに待ち合わせ相手が居るのだ、──と俯き加減に時計を見てコナンは顔を青ざめさせた。いつの間にか約束の時間だ。いくら近くても二、三分はかかるというのに。
「あっ、安室さん、僕帰らなきゃ!ごめんなさい!」
「コナン君?…急ぐなら車で送りましょうか?」
「ダメっ!…えと、安室さんの邪魔になっちゃいけないから!」
トレイと紙コップを持ち上げ、急いで椅子を降りようとしたコナンの身体がふわりと宙に浮いた。
「………?」
何だ、と思う暇もなく自分の両脇に差し入れられた大きな手が視界に入る。
「──えぇ、駄目に決まってます。コナン君はこれから私とデートですから」
「…貴方は!」
「……………」
最悪の事態に言葉もない。勿論、悪いのは全て好奇心から寄り道したコナンだ。
(…あぁ。ごめんなさい、神様、大吉様)
大吉様とは何ぞや?などと突っ込んでくれる人は居ない。
「二分の遅刻ですね、コナン君。いつもよりは大分早いですが…私より優先されるものが事件でも困っている人でもないのは、ちょっと傷つきますね」
「ご、ごめんなさいっ!」
背後から持ち上げられ、そのまま片腕に乗せられる。間近に迫る細い眼光は優しい声とは正反対。昴の直接の怒気を向けられたことがなかったコナンは、泣きそうな気持ちで目の前の首にしがみついた。こんな事で嫌われたくはない。
「…コナン君が怖がっているのでは?離してあげてはどうです?」
「ご親切にどうも。大丈夫です、彼は私が離す事の方が怖いようなので」
昴の云う通り、コナンのしがみつく力は益々強くなった。その背中に大きな掌が優しく当てられて、ほっと息を抜く。嫌われてはいないようだ。
「それではこれで失礼します。時間が惜しいので」
昴と安室がどんな表情をしているのか分からないが、肌に感じる冷気のような空気が全てだろう。店を出るまで顔を上げない方が良いかもしれない。そう思って昴の首筋に顔を埋めるコナンに冷気が削がれた声がかけられた。
「またね、コナン君。今度は僕とデートしましょう」
見えてはいないが、きっと笑顔だろう。何て答えようかと迷ったコナンの頭を昴が掌で押さえつけた。動くな、答えるな──という意味だろう。
「今度は有りません。彼の予定は事件と私で埋まってますから」
柔らかい声でそう告げると、昴は返事をまたず踵を返した。我慢出来ずに小さな声で抗議する。
「…僕には遊ぶ予定も読書する予定も許されないの?」
「それは私より優先度が高いものですか?」
「…時と場合によっては。だって元太たちとも遊びたいし、ミステリーの新刊が出たら直ぐに読みたいから昴さんは後…」
ここで素直に否定出来ない自分が可愛くないと思いつつも、そう云ってしまう。天の邪鬼は簡単には治らないのだ。
怒られる立場なのに余計怒らせそうな発言をするコナンの耳に低い笑い声が届いた。
「昴さん?」
「…そんな事は承知しています、えぇ。だけど私が望んだ時だけは優先してくれませんか?それで十分です」
「…昴さんて欲が少なすぎない?」
「そんなことはありません。私の望みに君が応えてくれることは、結構な贅沢だと思ってますから」
やはり欲がなさすぎる。期待されていないようで腹立たしいので、この後は厭になるくらい優先してやろうか。





カントリーチックな店構えのカフェで温かさを堪能する。
店のチョイスは無論、昴だ。この手の情報は最早蘭よりも詳しい気がする。店のお薦めメニューを昴から教えてもらい、小さな両手で余るカフェボウルを抱える。中身は名前の通りカフェオレだ。紅茶のシフォンケーキも柔らかくてほっこりする。
「どうして僕の居場所分かったの?」
「愛の力です」
「………博士の力の間違いじゃない?」
昴が現れたことに驚いたが、冷静に考えれば方法は予想がつく。コナンの眼鏡には発信器が付いているのだ。受信することが出来るのは博士か灰原か。
「いいえ、愛の力ですよ。一回お願いする度に何かしらのお礼をしてますから。主にブランドモノですね」
犯人は灰原か。
「毎回それは高すぎるんじゃ…、昴さん破産しちゃうよ」
「安いと思いますけどね。君の情報ですよ?お金は心配ありません。昔から株で貯蓄があるので。安心して嫁いで来て下さいね」
長男なので嫁ぐのは遠慮したい。婿養子に来てくれるなら考えるのに。そんな馬鹿な思いは口にはしてやらない。
「いつから位置特定してたの?」
「約束の時間からですよ」
それはつまり、時間になって灰原に連絡して、数分後にはファストフード店に来たという素早さ。種が分かっても少々恐ろしいかもしれない。
「君は惰性で遅刻する人ではありませんから、遅れるなら理由があるわけでしょう?危険性がないならそのまま待つことにしています。事件なら何があるか分かりませんから迎えに行きます」
「…それ、どうやって判断してるの?」
発信器では分からない筈だ。
「ですから、愛の力ですよ」
笑みを深くする昴にこれは聞いてはいけないことだと判断した。大丈夫、恋人でも秘密があってもいい。コナンは母親を信じている。神様、大吉様よりも。

「そんなことより不思議なことがあります。何故コナン君はファストフード店に居たのでしょうか?」
「…昴さんより先に着いて、」
「レシートには私の到着より大分後の時間が印字されてました」
こんな時、観察の鋭い人間は面倒臭い。自分を棚に上げてコナンは胸中で愚痴た。
「昴さんこそ、何であんなに早く来てるのさ。僕、自慢じゃないけど遅刻の常習犯だよ」
上目遣いに昴を伺う。そうだ、それが今日の大きな原因だというように。
男は細い目を一層細めてコナンを見下ろした。
「待っている時間が楽しいので。今までも色んな状況で何時間も待つという事がありましたが、こんなに楽しい待ち時間があるのだと最近知ったのです」
コナンはぽかんと口を開いた。思い至るのに数秒かかってしまう。
獲物を待ち伏せ、何時間も姿を隠しながらスコープを覗く男の姿を。その間男は何を考えているのか、コナンには分かりようがない。
「…待ってるのが楽しいなんて信じられない。って云いたいけど、今日、僕もちょっと楽しかった。約束の時間まで、昴さんが待ってる姿を観察したくなるくらい」
「それは良かった。私ならコナン君を観察する方が楽しいと思いますが」
「ストーカー、ダメ、絶対」
「うーん、美味しいケーキで許してくれませんかねぇ?」
許しを請うのにケーキ一つとは、灰原へのブランドモノに比べてえらく安くないか。だけどそれが恋人に対する甘えなら許してやってもいい。コナンも観察がばれても昴は許してくれるだろうと高を括っていたのだ。予想外の人物の登場で酷い目にあったが。
天の邪鬼な子どもはそんな思いはおくびにも出さず、絶対の信頼を持ってねだる。
「待ち時間より楽しいデートにしてくれたら許してあげる」
恋人に甘い男は喜んで引き受けるに決まっているのだ。


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