■ かえるのゆうぎ

カーテンを閉めきられた工藤邸に客人が訪れた。
幅広の上品な帽子に隠れた顔は、高校生の息子がいるとは思えぬほど若く美しい。玄関の扉を閉めると帽子を外し、明るい色の艶やかな髪を揺らして白い面に微笑を浮かべた。世の中の悪意も邪気も知らないという、まるで少女のような可憐な微笑みである。

「今日は素敵なお土産を沢山持ってきたのよ。気に入ってくれるかしら?」



かえるのゆうぎ



広い大広間に案内するまでもなく、彼女は先を歩いて扉を開く。沖矢昴はこの屋敷に居候している身に過ぎない。本来の主は彼女と彼女の夫、そして今は江戸川コナンと名乗る息子の家族だ。
普段アメリカに住んでいるとはいえ、やはりこの家の主としての風格に満ちている女性は工藤有希子。元は藤峰の姓を持っていた日本を代表する女優だったらしい。生憎、男は工藤新一の母の情報として仕入れた知識しかなかった。しかし未だ衰えぬ美貌や立ち振舞いに、過去の栄光ではなく、現役の女優という空気を感じ取れる。
伊達にあの子どもの母ではないということだ。

目的や立場から、工藤邸のセキュリティには常に神経を尖らせているが、今日は特に厳しいチェックを入れている。この世に居てはならない人間、赤井秀一が姿を現しているからだ。
彼女は赤井を沖矢昴に変える為にハリウッド仕込みの変装術を施しに来たのだ。元々、彼女の協力なくして沖矢昴は存在できない。彼女の協力があって初めて成り立つ存在なのだ。赤井秀一の秘密を知る重要な人間。
定期的に訪れる彼女を丁重に迎えるのはそれだけが理由ではない。赤井秀一、ではなく沖矢昴と協力関係にあると同時に、深い関係である江戸川コナンの母親だからというのが大きい。恋人の両親に気に入られたいと思うのは古今東西変わらないのだ。

(───しかし、これは一体どういうことだろうか?)
重厚な応接テーブルに乗せられた白い山。分厚い特殊紙は艶やかな表面で繊細な透かし彫りが施されている。金の英字箔が押されたそれを、赤井はドラマや映画でしか見たことがなかった。主に日本でのことであり、赤井が籍を持っているアメリカでは主流ではない。
(……明らかに見合い写真。まさか土産とは俺に見合い相手を紹介することなのか?)
面と向かって口にしたことはないが、二人の付き合いは両親に感づかれているとコナンが云っていたことがある。母親の女の勘が働いたらしい。
だとするとこれは付き合いに対する反対の姿勢なのか。赤井は慎重に表情を作り、相手の出方を見ることにした。

「いつも遠いところまで有難うございます。お口に合うか分かりませんが、息子さんも気に入っているお菓子を用意しました。宜しければ紅茶と一緒に召し上がって下さい」
「有難う。新ちゃんと私は優作と以上に好みが合うのよ。前に紹介してもらったお店もとても良かったわ」
有希子は上品に微笑んでカップを持ち上げた。やはり悪意も敵意も感じられない。これが元女優の実力なのか。
「ねぇ、赤井さん。その山の一番上のモノを開いてみて」
(────来た)
緊張を隠しながら云われた通り白い表紙を開く。
「………」
(…なんだこれは)
それは確かに見合い写真だった。ただし予想と違い、写っているのは妙齢の女性ではなく、若い男。金髪碧眼の端正な顔が斜め横の角度からシニカルな笑みを見せていた。見合い写真というより、ファッション雑誌に載っている芸能人だ。
「…この男性はどなたですか?」
「どう?イケメンでしょ!」
呆気にとられた赤井が純粋に浮かんだ疑問を口にすると、有希子が勢い良くテーブルに乗り出してきた。
「今ハリウッドで一押しの若手俳優なの!赤井さんは興味なくて知らなそうだけど、小さい役からコツコツ実績を積んできた実力派よ。来年辺り、映画の主役をとれるんじゃないかと俳優仲間の間でも噂なの」
確かに有希子は女優を引退した今でもハリウッドに顔がきく人物だが、問題はそこではない。
「何故この写真を私に?」
息子と付き合っているからゲイだと決めつけて、他を宛がおうとしているのか。態々自分の人脈を生かして探しだして来たとでも。それは流石に黙っていられない、と口を開きかけた赤井を有希子が止める。
「やあね、誤解しないで。これは新ちゃんへのお土産なの」
「あの子に……?」
有希子は赤井の想像を軽く凌駕することをのほほんと述べた。
「そう。親の私が云うのもなんだけど、あの子は魅力的でしょう?今はちょっと子どもの姿になっちゃってるけど、そんなのは時間の問題だし。新一は推理力には自信があるけど、それ以外の自分の魅力には無頓着なのよ。その気になればどんな相手も虜に出来ると思うんだけど…」
「それは…同意しますが、何故男性を?」
まさに虜になった当事者として否定出来ずに頷いたが、意図が読めない。息子と深い関係にあるとおぼしき赤井に、赤井より顔の良い男を見せつけて、お前は息子とは釣り合わないと云いたいのか。
反応を注意深く窺う赤井に有希子は綺麗に微笑み、しかし鋭い眼差しを向けてきた。
「だって赤井さんに敵う女性なんて中々居ないわ。男に勝てるのは男に決まってるのよ」
少女のように見えても有希子は大人の女性だった。女優として、母としての経験は決して一朝一夕で身に付いたものではない。慈愛に溢れつつ強固な意思は、赤井やコナンが持たぬものだ。

有希子が持ってきた見合い写真は様々な人種、ばらつきのある年齢で、共通するところは何らかの有能さを持つ男であるくらいだ。ハリウッド俳優に始まり、アメリカの実業家、ヨーロッパ貴族、果てはアラブの油田をいくつも所持する大富豪。これらすべて有希子の人脈かと思うと恐ろしい。
FBI捜査官としての腕はそこそこ自信がある。しかし彼らと立ち向かえるかと聞かれたら、そう簡単に頷くことは出来ない。例え、あの子どもが否定してくれたとしても。
「…私では貴女のお眼鏡に敵わないとおっしゃる?」
「いいえ。赤井さんは文句のない良い男だわ。見た目も、中身もね」
「私の財力や力では息子さんを守れないと?」
「いいえ、十分よ。新一の才能と命を守るにはね」
有希子が嘘を云っている様子はない。
「…失礼、煙草を吸っても?」
「…まぁ、新一が見初めただけあって本当に素敵ね。お好きなだけ吸って構わないわ。私の主人はヘビースモーカーなの、勿論ご存知でしょうけど」
女優の演技ではない、息子の見る目を自慢するような慈愛に満ちた微笑だった。

煙草を一本、綺麗に吸い終えてから彼女に向き直る。
有希子はいつもの賑やかしさを忘れたように静かだった。
「貴女に認められるには、私は何を必要とするのでしょう?」
「何も必要ないわ。だって新一はそのままの赤井さんが好きなんだもの」
「しかしそれでは…」
母親の有希子は認めてくれないのではないか。それは困る。愛されることに慣れて育った彼は親の本気の反対に抵抗出来まい。赤井としても、そんなことをさせたくはなかった。
赤井が云い淀んでいる間に、有希子が荷物の紙袋を探ってテーブルに取り出した。ワインボトルだ。
今度は何だと眼を見開く赤井の前に、次々ビンが並んでいく。スコッチウイスキー、ジンにバーボン。最後に珈琲豆の入った缶。
「…これは?」
「お土産よ。新ちゃんに赤井さんはお酒も珈琲も好きだって聞いたから」
うふふ、と先程迄の空気を一変して無邪気に笑う有希子に赤井は固まる。
「…さっきの写真は?」
「あれは新ちゃんによ。云ったでしょう?まあ、無駄になっちゃったから持って帰ることになったんだけど」
「彼に会ったんですか?」
「ええ、ここに来る前にね。酷いのよ、重い荷物を運んできた母親に向かって「そんなもの持ってくるならアメリカのミステリー新刊を持ってきてくれ!」なんて云うのよ。息子なんて可愛くないものよねぇ」
有希子は頬に手を当てて大きくため息を吐いた。
(───やられた!)
完全に赤井の敗けだ。この母あって、あの息子なのだ。どっと力が抜け落ちる。
「優作がね、云うのよ」
「旦那さんが…?」
「新一は知識は人並み以上だがまだまだ世間知らずだって。世の中にはもっと富も権力も持った優秀でかつ、イケメンの男が居るということを知るべきだって。その上で赤井さんを選ぶか判断したらいいって。自分の人脈をフルに使って探しだしたのよ」
どうやら赤井の敵は母親ではなく父親だったらしい。コナンの『父親、赤井をフルボッコ』説は正しかったのだ。
「父親の癖に息子の見る目が信じられないのか、って腹が立ってあの人が大事にしてたお酒、全部持って来ちゃった!」
「……えっ!?」
テーブルの上と有希子の顔を交互に見る赤井に「あ、珈琲は私のオススメよ」なんて云われても礼の言葉も出ない。
手を出すわけにはいかない酒瓶たちを前に無言なる赤井に、有希子は独り言のように呟いた。
「新ちゃんたら、『文句があるなら、赤井さんよりかっこよくて優しくて強くて頭の切れる奴を連れてこい』なんて云って、しかも『そんなの地球上探したっていないだろうけどな!』ですって。ここまでベタ惚れだと反対出来ないわよねぇ」
照れ屋で素直じゃないあの子どもが、親に向かってそんなにもはっきり云ってのけたことに驚く。恐らく、赤井に直接告げられることはないのだろうけど。
子どもの予想外に嬉しい言葉を教えてもらったことを感謝しつつ、どうしても確認しておきたい疑問を有希子に訊ねる。
「貴女は私と彼のことに反対ですか?賛成ですか?」
息子が云うから仕方なく、でないはっきりした意見がこの際聞いておきたい。今後の為に。
「あら、まだ分からないの?賛成に決まってるじゃない。愛に勝てるものなんてないわ」
有希子は舞台上に立つ主演女優が如く、観客を魅了する笑みで答えた。

「───だって私、母親と妻である前に女ですもの」

これ以上ない、最高の証言を得た。





「君のお母さんは恐ろしい人ですね。ちょっと隙を見せると簡単に足元を掬われてしまいそうだ」
学校帰りのコナンを捕まえて、工藤邸に持ち帰ってきた。誘拐良くない!などと可愛くない反抗をしたので、彼好みの珈琲(先日の有希子からのお土産)と新しい推理小説の本で誘うとあっさり食いついた。この子どもの好きなものに対する情熱は、危うげで心配になる。謎という誘惑に勝つことができない。せめてこれだけの情熱を持って、昴を想ってくれてるなら良いのだが。
「昴さんが怖がるなんて…母さんに何か云われたの?」
ソファーに俯せに寝転がり、行儀悪く足をぶらつかせるコナンが昴を上目遣いに見上げた。顎の下にはお気に入りのクッション。手にはミステリーの新刊。傍らのテーブルには豆からひいた珈琲と、お茶請けのマーマレード。細い足が揺れる様に彼の機嫌が良いことが分かる。
「少し惑わされて驚いただけです。彼女は女優ですね。流石君のお母さんだと、今更ながら思いました」
「あの人にはね、父さんも勝てないから仕方ないよ」
「…そのようですね」
サイドボードに並べた酒瓶を見て同意する。見合い写真なんかより遥かに重い荷物だっただろう。つまり有希子の本命はこちらだったのだ。見合い写真はただの冗談、或いは暇潰し。
(…工藤氏にとっては冗談ではないかもしれないが)
有希子は結局全て置いていった。夫の酒も、見合い写真も邪魔だから適当に処分してくれと託けて。
酒はともかく、見合い写真も人に見られると困ると思い、まだ処分していなかった。部屋の隅で所在なく山となっているそれに子ども視線が向く。
「あれ、何でここに…?」
「……君のお母さんが荷物になるということで置いていったんですよ」
昴に見せに来た、とは云えない。目的を省いた結果を正直に告げると、コナンが身を起こして写真の置き場に動いた。
「コナン君?」
「昴さん、これ見た?」
「……えぇ、まあ。パラパラと」
昴は濁して答えたが、コナンは見られて困るという様子はなく、良いもの見せて上げると云って白い山から一枚取り出す。
中身は他の写真と変わらない。見目の良い、裕福な男の写真。
(……たしかイギリス貴族だったか?)
この写真にコナンの興味が惹かれる謎でも隠れているのかと、真剣に眺めるが不可思議なところはない。
「このイギリス紳士が何か?」
「この人知らない?昴さんなら知ってるかもって思ったのに」
昴の反応が期待外れだったのかコナンは不満気だ。
「……国際指名手配者ですか?」
「もう、そんなはずないでしょう?ホームズ好きに悪い人は居ないんだから」
昴とコナンの数少ない共通項。ホームズファンということ。しかし、実際はコナンの方が重度のファンだと思う。
「では彼はホームズのファン?」
それをこの写真一枚で読み取れというのか。特徴のないスーツ姿からは厳しすぎる。
「ファンの中で有名な人なんだよ。資産家で、重度のホームズファン。そしてコレクター。この人の屋敷にはドイルの初版本や生原稿が沢山あるんだって!」
幼い顔一杯に眼を輝かせるコナンの表情に、昴は厭な予感が浮かんだ。
コナンは母親によく似ている。顔も演技力も面食いなところも、そして目的の為に突拍子のない行動をとるところも。
「ドイルの初版本が見れるならちょっとお見合いしても良かった…。どうやったら友達になってくれるかな?」
見合い写真と銘打っている以上、工藤優作は相手の承諾をとっているはずだ。息子が、(コナンの姿は隠しても)まだ高校生の息子であるということを。友人になれるはずがない。
頭の良いはずの子どもは本当に誘惑に弱いらしい。
「…工藤氏の仰る通り、君の心を掴み続けるにはある程度の金と力が必要ということですね」
ドイルの初版本を手に入れるくらいに。
憧れの初版本に胸をときめかせているコナンは昴の決心に気づくことはなく、罪のない笑顔で云い放った。
「もし手に取ることが許されたら一緒に読もうね!」
「そうですね。…出来たら、数年待ってくださると助かります」
入手方法と資金に頭を悩ませる昴を見て、コナンは不思議そうに首を傾げた。




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