■ 我が儘なダーリン

長年追っていた組織を殲滅し、赤井秀一は再び世の中に姿を現す事が出来るようになった。しかし仮初めの人格である沖矢昴という人間を捨てることもしなかった。

理由としては二つ。日本で行動する場合はFBIでも何でもない、只の大学院生という身分が都合が良いということ。そしてもう一つ、こちらの方が実際重要かもしれない。恋人である青年が赤井秀一と沖矢昴、どちらも比べられないほどに好きだと云ったからだ。
普通、本来の人格である赤井に重きを置くべきなのではと思いもしたが、二人が付き合いだした切っ掛けは少々特殊だ。赤井は性格の正反対な沖矢昴、新一は十年も遡った小学生の姿の時に二人は急接近し、年齢も性別も飛び越えて恋人になったのだから人生とは分からない。
告白もお付き合いに伴う行為も、恋愛初心者だった新一とっては全て昴が初めての相手。赤井を愛してはいるが昴も忘れられないのだというのも理解できる。新一のどちらも好きという我が儘を、頷くだけで受け入れてしまった男は、周りが想像しているよりずっと恋人に甘かった。



我が儘なダーリン



忙しい仕事のスケジュールを調整し、同僚の喧しい詰問を受け流して休暇を取って日本を訪れた。工藤邸に向かう際には既に沖矢昴となっている。
新一との逢瀬において暗黙の了解となっていることがもう一つ。事前に細かな予定を計画してはいけない。事件に愛し愛されの新一と一緒に過ごすには、予想外の出来事も覚悟の上で臨まなければいけないのだ。とはいっても昴にとっては大したことではない。事件と推理は新一から切り離せない、彼を形どる大切なものだと分かっているので、苦笑一つで済む。

晴天に恵まれたドライブ日和のある日。
「どちらへ行きましょうか?新一君の希望はありますか?」
遠出先のレストラン。駐車場に停めた車の中で新一に尋ねたのは食事の場所のつもりだった。何故ならそこで食事がもう出来なくなったからだ。
しかし、真っ直ぐ前を見たままの新一の口から出てきた場所は、どう考えても食事が出来そうなところではなかった。
「じゃあ、死体博物館に行きたいです。今すぐに」



少し遠出して食事をしようと行った先で事件は起きた。慌てることなく、新一は現場を落ち着かせて状況を把握し、警察が駆け付けたときには犯人が諦めて床に項垂れていた。二時間ミステリードラマ顔負けの手捌きだったなと、手助けすることもなく終わった事態に昴は感心した。
駆け付けた刑事が新一の顔見知りだったこともあってその後の動きは早かった。簡単な事情聴取だけで二人は開放され、自由の身となることが出来た。恐らく新一の方は後日警視庁に足を運ぶことになるのだろう。
思いの外早くデートは再開されたが、ここで食事をすることは出来ない。雑誌に載ったこともあるらしい有名シェフはパトカーに乗せられて行ってしまった。
(さてどうするか、この辺りに他にレストランがあっただろうか…)
昴が日本に来るたびに競争都市の飲食店は様変わりしている。ここは新一の意見を聞いた方が早いと思い、助手席に声をかけたのだが返ってきた答えがあれだ。
「……それはタイ料理を食べたいという意味ですか?」
「死体博物館でタイ料理が食べらるんですか?それならそれでいいですけど」
「……」
前を向いたままこちらに視線を合わせようとしない。綺麗なラインを際立たせる横顔から不穏な空気が流れている。
どうやら恋人の機嫌がすこぶる悪いことに昴は漸く気がついた。
「施設内に食事所があるかは知りませんが、タイのバンコクへは飛行機で六、七時間かかりますよ」
死体博物館とは通称で、正確にはタイにあるシリラート病院内に立つ博物館のことだ。名前の不気味さが目立つが、病院内の施設であるように、主に医学的な観点の標本が揃っているらしい。新一が探偵として興味を持つのはおかしくないが、昴との逢瀬の最中に行きたがる場所ではない。彼は重度の推理おたくであると同時に、ムードを求めるロマンチストでもあるのだ。
「厭ならドイツの犯罪博物館でもいいです」
「…更に遠くなってますが」
限られた時間で長時間の移動は痛い。
一体どうしたのだろうか。昴は新一の不機嫌の原因を考えようと記憶を辿るが、直ぐに見つけることが出来ない。

今朝の機嫌は良かった。
久しぶりに逢えた喜びのまま、濃密な夜を過ごして朝を迎えた。多少、無理をさせてしまって腰が痛いだの喉が痛いだの訴えられたが、それも恋人同士の戯れの内。抱き上げて風呂場に連れて行った時も慣れたもので抵抗などなかった。僅かに残っている男としての矜持から、恥じらっている顔を見せないよう昴の首に抱きつかれた程度で。
その後の朝食はどうだったろうか。隣の科学者の少女から貴重な蜂蜜を別けて貰ったと聞いて、昴がパンケーキを焼いたのだ。綺麗に焼き上がったパンケーキにかかる黄金色の蜂蜜。その見た目と味に新一は満足気に笑みを溢し、まるでコナンに戻ったようだと微笑ましく思った記憶がある。
天気が良かったので昼食を兼ねたドライブへ行くことが決まった時も笑顔だった。道中、昨夜の疲れからか、殆ど寝ていた新一が目覚めたのは目的地に着いてからだった。そして、店員に中に案内されて間も無く事件は起きた。
(……どう考えても機嫌を損ねる暇がないな。だとしたら事件の最中に何かあったのか?)

今回昴はずっと新一の傍に居たわけではなかった。テーブル席で人が苦しみ倒れた際(被害者である)に、同じ席に着いていた内の一人が動転して足を捻る怪我をしていた。店員も容疑者ということで、警察が到着するまで昴が応急措置をすることになったのだ。同じテーブルに着いていたのだからこの人物も容疑者になる。手当てをしながら然り気無く被害者との関係を探っていたのだが、事件は急転直下、新一の手によって解明された。詳しい事情も動機も全く聞く暇もなく、犯人はシェフだったという事実だけが昴の知るところである。
この短時間に新一の機嫌を損ねる事態があったようだ。
(…もう少しヒントを貰えないのだろうか)

「新一君、犯人から何か暴言でも云われましたか?」
可能性が高いのはこれである。全国的に有名とはいえ、警察でもない一般人に薄暗いところを指摘された犯人は、身勝手な憤りを持つ傾向がある。しかし新一は常に論理的で、犯人に激昂させる隙を与えないコツを得ている筈だ。
「別に。大人しいものでしたよ。まぁ、期待していたオムライスがもう食べられないのは腹立たしいですね…」
「………」
雑誌に載っていた記事を憶えていたのは新一だ。残念ではあるが、実際言葉で云っているほど腹を立てているわけではないだろう。
しかしそうなると全く理由が分からない。──それとも、まさかとは思うが。
「…コンビニでも寄りますか?有名シェフには敵わないでしょうけど、日本のコンビニは品揃えも味も中々ですよ」
理由が見当たらない以上、残る可能性は空腹か。
「昴さん」
それまでチラリとも昴を見ることの無かった顔が此方を向き、壮絶なまでの美しい微笑を浮かべた。
男にしては細く、白い手が昴の顔に延びて来る。
「………ボウヤ」
「何ですか?」
新一の笑みは崩れないが。
「流石にそんなに強くつねられると顔が崩れる危険性があるんだが。…それに痛い」
「顔が崩れる?痛い?面白い話ですね。だったら今すぐその顔を崩してきてくださいよ」
「………この顔が気に入らないんですか?」
あれほど好きだと云っていた癖に。
「今は見たくないんです!早く赤井さんに戻って下さい!」







幸い近くに公園があり、公衆トイレで素早く変装をといた。顔だけではなく、万が一に用意している服も一式着替えている。名人の手を借りなくても既に慣れた作業だ。
さて、問題はこれからだ。癇癪を起こしたお姫様は昴の何が気に入らなかったのか。
新一は車に寄りかかる形で立っていた。戻って来た赤井を上から下まで一瞥し、何に納得したのか頷いて車から身体を離す。
「これで満足か、ボウヤ?」
「まだ駄目です。赤井さんのライター貸してください」
何故、と思いながらポケットからライターを探り出す。受け取った新一は反対の手で白い紙切れを赤井の目の前にかざした。見覚えのない電話番号が書かれている。
「それは?」
「一応、伝えるって云っちゃったんで見せます。だけど覚えないで下さいね。かけたりしたら本当に怒りますよ」
小さな紙切れはあっという間に灰と化す。
「…ボウヤ、もう降参だ。何のことか説明してくれないか?」
「FBI捜査官なんて思ってたより有能じゃないんですね」
辛辣な感想を口にする新一は、先ほどまでの不機嫌さはなく、何処か拗ねた表情だ。怒りが美貌を際立たせて、拗ねると一気に幼げに見せる変化に赤井の変装よりギャップが激しいのではと思えてくる。

車内に戻った新一の口からぽつぽつ語られた内容に大きくため息が出た。
番号の正体は何のことはない、怪我を介抱した人物のものだった。是非、礼がしたいので連絡が欲しいと新一に頼んだらしい。
「何かと思えば。ただの社交辞令じゃないか」
「違いますよ、絶対ナンパです。俺に声をかけてきた時の表情で分かります」
きっぱり決めつける新一はまた怒りが甦ってきたのか、窓の外を向いてふてくされた様子だ。
「確かに若い女だったが…殺人現場だぞ?しかも被害者の知り合いだろう?」
「ナンパに時も場所も状況も関係ないって人もいるでしょ。見た目のか弱さと中身の図太さは比例しませんよ」
赤井には良くも悪くも特徴のない若い女性としか記憶にない。精々、事件に巻き込まれて多少弱っていた印象があるくらいか。
新一の考え過ぎではないか、とは膨れた横顔を見ると口にできない。
「…それと沖矢昴に何の関係があるんだ?」
「昴さんだと駄目なんです」
此方を向いた新一が小さく呟く。
「昴さんは誰にでもニコニコして優しいじゃないですか。俺は見てなかったけど、あんな短時間で気を持たせちゃうなんて一体何したんだか」
何したと云われても、手当てして少しの会話(事件に関わりがあるかの探り)をしただけである。警戒されないよう昴の人格を存分に利用したのも事実だが。
しかし新一がこんなにはっきり嫉妬心を表すのも珍しい。赤井は段々面白くなってきた。
「沖矢昴は駄目で俺は良いのか?」
「…赤井さんは良いんです。カッコいいけど見た目怖いから。女の人もそう簡単に声かけられないと思う…日本なら、だけど」
「なるほど。それなら沖矢昴という人間ももういらないな」
新一が厭がるなら彼の役目ももう終わりだろうと告げると、目を見開いて此方をみる顔があった。
「え、それは……それも駄目です。昴さんも必要です!」
「……前々から聞きたかったんだが、ボウヤは沖矢昴の方が好きなんじゃないか?」
「違います!俺はどっちも好きなんです。…今さら選ぶなんて、ムリ」
赤井さん酷い、と泣きそうな顔で訴える新一の方が酷いだろう。ある意味堂々とした二股宣言だ。その癖、自分に罪悪感はないらしい。
「全く、我が儘なボウヤだな…」
「それはあなたのせいですよ」
額に手を当てて唸った赤井に、さっきまで泣きそうな顔をしていた新一がけろっと様変わりして笑う。
赤井とは違い、もう戻ることはないコナン時代の演技力を忘れていた。彼にとって大人一人手玉にとるくらい朝飯前なのだ。
「随分悪い子に育ったな、ボウヤ」
「だから赤井さんのせいだよ。赤井さんが俺を散々甘やかすからこうなっちゃったの」
助手席から両手を伸ばして赤井の首に腕が巻き付く。悪戯っ子と悪女が同居した笑みを浮かべる新一は、顔の美しさも相まってどうしようもないほどに魅力的だ。
コナンの頃、味方にすら甘えようとしない子どもを歯痒く思っていた。心を開かせる為に少しずつ甘えることに慣れさせたのは赤井であり、沖矢昴だ。つまりこれは新一のいう通り赤井のせいなのだろう。
「…子育て失敗の典型だな」
「失敗なんですか?」
「本当の子どもだったらな。ボウヤは俺の恋人だから問題はないさ。他の人間にやらない限りは」
これだけ甘えることを覚えた新一はもう他の人間では満足出来ないだろう。それを幸ととるか不幸ととるかは人それぞれだが。
「じゃあ、何も問題ないですね。俺が我が儘なくらい、赤井さんにはどうってことないでしょう?」
小首を傾げて赤井の唇を舐めた新一の頭を捕まえ、呼吸を奪うキスを交わす。完全に手玉に取られる気はない。
溢れた唾液を舐めとって涙目になっている新一に囁いた。
「だったら精々可愛くねだってみろ」




その後。
オムライスから一転、蕎麦が食べたいと云い出した恋人の為に車を走らせる男に更なる関門が立ちはだかる。
「ねぇ、赤井さん。結局死体博物館と犯罪博物館にはいつ連れてってくれるんですか?」
「……あれも本気だったのか」

子どもの育て方は難しい、と呟いて同僚たちを驚かせることになった。


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テーマ「人外ファンタジー」
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