■ シルバーライニング

1.兄と弟

静かになった車内に小さくトントン、と音が三分に一度に鳴り、一分に一度に鳴り、そして次は三十秒後に鳴った。
兄の秀一がステアリングを左手の人差し指で叩いているのだ。秀𠮷が識っている兄は常にクールで喜怒哀楽を表に出さない。先程までの犯人を追い込むような緊迫した状態の時は怒鳴る事もあるが、逆にそれ以外では本当に感情を露わにしない男だった。鋭い目つきから怖そうだという印象を与えがちだが、血の繋がった家族である秀𠮷にとっては家族想いの優しい兄だ。だからこそ、苛立ちを隠す事なく態度に表す兄が物珍しくて素直に声に出した。
「随分と機嫌悪いね」
兄の返事は運転席からの一瞬の流し目のみだった。本当は煙草を吸いたい気分なのだろう。しかし秀𠮷と同時に拾われ、後部座席で眠っている由美に配慮してくれている。
秀一が運転しているマスタングは現在東名高速道路を走っていた。行き先は何も聞いてないが恐らく東京の芝浜駅。真空超電導リニアの終着駅。こちらは車。最高時速が1000kmだというリニアに追いつける訳がないが、重々承知の上での行動に口を挟む真似はしない。
実の所、秀𠮷は現状を知らないに等しかった。完全に酔い潰れてしまった由美が職業病を発揮し、スピード違反だと叫んで兄の車の前に飛び出す所業をやらかさなかったら此処にいなかったのだから当然だ。偶然再開した兄が死亡者である赤井秀一の顔を晒している事に驚くよりも、なんて良いタイミングで助けに来てくれたんだ、流石だ兄さん!──などと喜び、マスタングの派手なボンネットに倒れ込んで寝てしまった由美を抱きかかえて車に乗せてもらった。勝手に乗り込んだ上で東京まで送ってくれないか?と図々しい頼みが言えるのも血の繋がり故だろう。幸いにも兄は東京に戻る途中だったので蹴り出されはしなかった。アルコールの力で深く眠っている由美と会話出来ないのは残念でならないが、兄とこうやって顔を合わせて話せる機会が次いつあるとも分からない。どうせなら今のうちに由美にプロポーズをOKしてもらえた事を存分に自慢しておこうと思った矢先、車載ホルダーにセットされていた兄のスマホが振動した。表示画面を秀𠮷が確認するより素早く、兄は右耳に掛けているワイヤレスヘッドセットを操作し、電話に出て──『どうした、ボウヤ』──と会話を始めたところでどうやら兄が仕事の真っ最中で緊急事態が発生したと知ったのだ。ボウヤ、とはスマホの表示から江戸川コナンの事であることも。通話後に兄から極簡素な経緯を説明され、自分のスマホを取り出して地図アプリを見ながら──これはプロポーズ自慢話はお預けだなぁ──と他所ごとを考えている隣では兄が仲間のFBIに説明していた。
『──あるいはそう見せかけて、下り線から臨海部に向かったか……』
『僕はあまり複雑に考えない方がいいと思っている』
その一言からFBI捜査官たちと共に逃亡した容疑者、井上治を追いかけて捕まえる事に協力する運びとなり、道路上の詰め将棋の為に頭を集中させる。ターゲットが乗っているリニアを追っている井上の行動を読むのはそう難しくはなかった。秀𠮷の指示に何故こんな道を走るのかとFBI捜査官たちが混乱しても、そこは兄が少々強く名前を呼ぶだけでちゃんと行動させる事ができたので問題ない。唐突に現れた謎の協力者を信じて貰えたのは兄が仲間たちに信頼されているからであり、決して怖いからではない筈だ。多分。
その結果、新港浜陸橋の下で待機させていた捜査官の一人が見事王手を決め、逃亡していた容疑者の井上を捕らえた。仲間の捜査官たちも直ぐに追いつくだろう。これで秀𠮷のやる事はなくなり、兄の運転でこのまま自宅マンションまで送って貰いたいな、と都合よく考えていたのだが、兄にとってはまだ終局を迎えてないらしい。時折り、チラッと視線を向けている車載ホルダーにセットされたスマホは井上を捕らえてからは静かさを保ったままで、誰かからの連絡を待っている兄が次第に苛立ちを表に現す珍しい事態になっているのだ。
「リニアには追いつけないよ、兄さん」
「分かってる」
「なら次のパーキングエリアに入ろう。ほら、もう看板見えてるだろ?」
反論はなかったが、小さな舌打ちと共に車は減速してパーキングエリアに侵入した。本当にご機嫌斜めだ。
駐車場に停まるなり、スマホを手に車を降りた兄を追って秀𠮷も降りる。地図アプリを閉じてニュースを確認するが、この時点ではリニアが予定を変更して無人発車した事しか報道されていない。実際には国際WSG協会の会長、アラン・マッケンジーと井上の共犯者、白鳩舞子、そして何故か江戸川コナンの三人を乗せて終着駅である芝浜駅へ向かっているらしい。共犯者の白鳩舞子は既にアラン殺害を諦めたのか、動けなくされているのか──目の前に居る兄が銀の弾丸で仕留めた事など知らず──とにかく後数分で無事に日本の警察が待ち構える芝浜駅に到着すると秀𠮷は予想していたが、違うのだろうか。
FBIの仲間に電話をしていた兄が険しい表情で直ぐに違う誰かに連絡しようとしたが繋がらず、また小さく舌打ちしている。
「何かあったのかい?」
「リニアがクエンチして暴走しているようだ」
「えぇっ!?」
「真純も乗ってるぞ」
「えっ、どっ、どうして!?何で!!」
「井上の仕業だろうが詳しい状況は分からん」
そう言えば今日はお互い名古屋に居るからと理由をつけ、義理の姉になる由美に会わせたくて真純に電話したのに切られてしまった。妹の真澄も一連の事件に関わっていて名古屋に来てたとは。リニアに乗っている理由は想像がつく。コナンと一緒に犯人を捕らえる為に乗り込んだのだろう。リニアが暴走しているという事は元のプログラムが書き換えられてブレーキが効かないようにされているのか。リニアの最高速度は時速1000キロだが真空トンネルを抜ける頃には速度は落ちているだろうとして時速400キロ以下──そこからスピードを落とせず芝浜駅に突っ込んだとしたら。
「どうにも出来ないのかい?」
「ボウヤがいる」
「それだけに賭けるには彼の負担が大き過ぎないかい?」
「真純も乗っている」
出来る事などない。いかに優秀なスナイパーである秀一でも、太閤名人と謳われる頭脳の持ち主である秀𠮷の力を持ってしても、今ここから真純とコナンの無事を祈るしか出来ないから兄と会話して落ち着こうとしているのだ。スマホ画面から目を離さずにいた兄が一瞬だけ目を伏せた。
「到着予定時刻だ」
「……そう」
自分のスマホで急ぎニュースを探すが情報が追いついていない。駅にリニアが突っ込んだとして速報が出るまで数分はかかるだろう。いや、スピードを落とさず走行したならば到着予定時刻より早く芝浜に──と冷や汗が背中を伝った時、兄のスマホが鳴り響いた。瞬時に通話ボタンを押した兄が相手の声を聴いている。
「…そうか。無事なら良い。……これを言うのは今日二回目だな、ボウヤ。じゃあ、後で」
短い通話を終えた兄が口元に笑みを浮かべて秀𠮷を振り返った。
「生きてるんだね?」
「二人ともオールグリーンだそうだ。もっとも、ボウヤの大丈夫はあまり信用がないから生きて話せるぐらいにしか受け取れないが」
そう言いながら、漸く煙草を取り出してマッチで着火した。深く吸い込まれて吐き出された煙を見て、煙草を吸わない秀𠮷は「こういう時の煙草は凄く美味そうだな」と少し羨ましく思った。代わりにマスタングの後部座席で何も知らずに幸せそうに眠っている由美の顔を眺める。
「ねぇ、兄さん。真純とコナン君、どっちの方を心配してたんだい?」
「馬鹿な事訊くな。両方に決まっているだろう」
ジロリ、と冷たい視線を向けられてしまったが、秀𠮷は馬鹿な質問だと承知の上で訊きたかったのだ。家族想いの優しい兄だが、その感情は常に強力な理性を持って抑え込まれている。そんな人間が苛立ちを隠せずにいたのは果たして可愛い妹の所為だけだろうか。なんとはなしにそう感じたのだ。
「…うーん、兄さんは昔から読み難いからなぁ」
「馬鹿な事言ってないでそろそろ出発するぞ」
「あ、そうだ!兄さんに話したい事があったんだ!由美タンの事なんだけど、なんと…」
「秀𠮷、お前後ろに乗れ」
「あっ、酷い!由美タンの隣だから勿論喜んで移動するけどそれでも話聞いてよー!」
「お前の彼女の呼び方はどうにかならないのか、全く…」
呆れた様子で煙草を携帯灰皿に押し付けた兄だが、車に乗った後も結局顔を顰めながら秀𠮷の話を聞き続けた。兄は身内に優しい、というより甘いのだ。それは血の繋がった身内の特権だと思っていた秀𠮷だが、もしかしたらあの小さな探偵にも当て嵌まるのかもしれない。電話から幼い声が届いた途端、兄が浮かべた口元の笑みと和らいだ瞳を思い出す。
妹も探偵も今頃日本の警察や救急隊に保護されているだろう。特別に大切な人間が二人も危なかったのだから兄が苛立ちを隠せなかった、と考えれば納得がいく。
真純は幾つになろうが守るべきただ一人の妹。それは秀𠮷にとっても同じだが、あの小さな探偵はなんだろうか。信頼出来る仲間?だとしたらFBI捜査官たちも含まれてしまう。兄の相棒?それにしては口調も眼差しも柔らか過ぎる。あの子は兄の───自分の隣で寝こけている女性を見詰める。彼女は秀𠮷の婚約者であり、恋しい人であり、守りたい人であり、優しくしたい人であり。秀吉にとっての────。
「…希望かな?」
つい口から溢れた一言に、運転席の兄がミラー越しに怪訝な表情を向けたが、秀𠮷は「由美タンの寝顔見てたら僕も眠くなっちゃったよ」と誤魔化した。本人に何処まで自覚があるか自信がなかったからだ。
「着くまでまだ時間がかかる。お前も寝てろ、その方が静かで良い」
「えー、まだ沢山由美タンの自慢したいのに!」
「もう腹一杯を通り越して胃がもたれているんだが」
「そんな事言わずに…!」
などと言ったが、滑らかな兄の運転技術に負けて時期に睡魔に襲われ、自宅マンションの近くで兄以上に強面な男に起こされるまで寝てしまった。


羽田さん、と聴き慣れない呼び声に飛び起きると、やはり見慣れない顔が運転席から困った顔で秀吉を見ていた。
「あのー、スミマセン。この車でマンションに直接つけるのはちょっと…少し歩いてもらえますか?」
「あ、はいっ!由美タン、起きて!着いたよー!」
揺さぶっても由美が目を覚ます様子はない。これは秀𠮷が運ぶしかなさそうだ。
「有難うございます、あの、FBIの方ですよね?兄は…?」
「赤井さんはやるべき任務に戻られました。お分かりだと思いますが、そちらの女性には……」
厳つい顔からは予想外に腰の低い態度の男に笑って頷く。
「はい。親切なFBI捜査官に拾われたって事にしておきますね」
日本にそんなFBI捜査官がごろごろ居るのも可笑しいが。
「助かります。お気をつけて」
由美を家族に合わせられなかった事は残念だが、念願のプロポーズを受けてもらい、久しぶりに兄にも会え、妹も無事だったのだから結果的に良い日だったと言える。
その幸せ気分は数十分後に吹き飛ばされてしまうのだが──この時点では確かに秀𠮷は幸せいっぱいだった。





2.母と娘

「そんな事であの少年のスマホを見せて貰うのを諦めたと言うのか。呆れた」
「だってぇー」

詳しい事情聴取は怪我と疲労に後日にしてもらい、二十時を過ぎた頃、自宅代わりに使用しているホテルに真純が帰ると既に母親が帰宅していた。母親にしては若過ぎる顔を見て、ほっと息を吐く。
イギリスの要人であるジョン・ボイドを救出の際、東海コンビナートの倉庫に置いていってしまった事が一抹の不安だったのだ。無事、他の他人に見つかる前にMI6の仲間に連絡を取り、迎えに来て貰ったのだろう。姿は中学生程度とはいえ、誘拐や変質者などの心配をする必要がない程に強い母のメアリーからすれば娘に心配される謂れはないと怒るだろうが。
そんな不安は黙っていたので怒られずに済んだのだが、事件の事の顛末を説明した真純に待っていたのは呆れた溜め息と説教のセットだ。
「何が『だって』だ。たかが笑顔一つでケムに巻かれるとは情け無い」
「たかがって簡単に言うけど、これは凄い事なんだよ、ママ!コナン君がボクに向かってあんな無邪気で可愛い笑顔見せてくれるなんて…ああーっ、写真撮っとけば良かったー!」
コナンと二人で共闘する事になったのは偶然だし、今までにも無かったわけじゃない。しかしいつもコナンの方が遥かに上手で真純は相棒というより、少しだけ手伝って抜けるゲームのお助けキャラのような立ち位置で終わる事が多かった。それが今日のリニア暴走事件では対等な相棒だったと胸を張って言えよう。二人の力でリニアの暴走を最小限に抑える事が出来たのだから。
突風でお気に入りのジャケットが吹き飛ばされ、見上げていた顔を隣りを歩く少年に向き直した直後、「戻ろうか」と言いながらコナンの笑顔は初めて見せてくれた純粋な素顔に思えたのだ。だから今日だけは互いに探り合うのも、『ボクたちの味方』に繋がるスマホの事を追求するのも止めにした。
「お前は惚れた相手に甘過ぎる。それでは向こうの思う壺だぞ」
「だってぇー」
「だから『だって』はやめろ!」
だって、くらい言わせて欲しい。絶対振り向いてくれないと分かってる相手が気を許した顔を見せてくれる贅沢さを、今日だけは噛み締めていたいと思っても良いではないか。
真純はベッドの上に大の字に寝転んだ。途端に「そんな砂埃だらけの格好でベッドに上がるなんて!」とか「シャワーを浴びて着替えなさい!」などと今度は母としての説教が始まってしまった。母は兄たちには割と放任主義なのに末娘の真純の事に関してだけはあれこれと口煩い。父が亡くなってから子どもたちの母と父、両方の役目をすると決めた母はそれが原因で娘が女の子らしさを身につけられなかったと思っているらしいのだ。真純はそれは違うと思っている。真純は小さい頃から兄たち、とりわけ長男に憧れていたので真似をして截挙道を覚え、探偵の道を選んだ。海で出会った彼が長男をキラキラ眩しい瞳で見ていたから真似をすれば同じように見てもらえるのでないか、という下心があった事も少なからずあるだろう。つまりなるべくして今の真純になったのだ。道途中ではあるが、自分は充分満足している。思っていたより胸の成長が遅い事だけが悩みだけども。
「真純、寝るならせめて布団に入りなさい。シャワーは明日の朝で良いから」
大の字になったまま目を瞑っていたから不貞寝でもしたと見えたのか、母が声を落として頑是ない子どもに諦めたように言った。
──ママだってボクに甘いじゃないか。
口煩い分、真純は甘やかされている自覚をちゃんと持っている。
「ねぇ、ママ」
「どうした?」
真純のベッドに腰を下ろした母にずっと訊いてみたかった事を口にした。らしさはなくてもは真純は女の子であり、母は女性としての大先輩だからだ。
「絶対に振り向いてくれない相手を好きでいる事って馬鹿だと思う?」
今日、あの澄んだ蒼い瞳がキラキラ眩しい眼差しで真澄を見てくれたのは今回限りのラッキーだと分かっている。今日は偶々幸運の女神が微笑んでくれたのだ。
「何かと思えば。その理論で言うなら、もう二度と会えない務武さんを今も、これからも愛し続ける私は相当な愚か者だと言う事になるな」
「ママは愚か者なんかじゃないよ!!」
思わず、ガバッと跳ね起きて母の細い肩を掴む。振り向いた若い母の顔はしてやったりという笑みを浮かべていた。
「無論、私は愚か者ではない。お前もだ、真純」
「……ママ」
「分かったら、さっさとシャワーを浴びて来なさい。そして寝ろ。お前は忘れてるだろうが、名古屋に置いて来たバイクを取りに行かなくてはいけないんだぞ」
「──あぁっ!?ボクのバイク!」
「……やはり忘れてたか。今日は褒めてやろと思ってたのに、全く、お前ときたら…仕方のない子だな」

母と娘の長い一日は、多少の不安を残しつつも、無事終わりを迎えた。





3.大学院生と小学生探偵

「君とドライブに行きたくて。一緒に行ってくれるかな、ボウヤ?」

先月のWSG東京スポンサーの連続拉致から始まり、元FBI長官、現国際WSG協会会長のアラン・マッケンジー氏を狙った真空超電導リニア暴走など一連の事件から一週間が過ぎた。一時は開催が危ぶまれたWSG東京だったが、開会式の場所の変更や名物となる筈だったリニア走行の延期など、数々の苦難を乗り越えて無事開催されている。あれだけの事件の後だというのに、いざ競技が始まると皆忘れてしまったかのように熱狂しているのだから人間とは図太い。否、無理矢理にでも前に進んでいくしかないと皆知っているのだろう。毛利家でも毎日チャンネルは何かの競技を追っている。
コナンは蘭が酷く心配するので改めて病院で精密検査を受けたり、警察の事情聴取に付き合い、ジョディたちFBI捜査官たちともこっそり報告会をしたりと忙しく過ごしていた。ひと段落ついた所で、そういえば追跡眼鏡が壊れたままだった事を思い出し、朝早く陽が高くなる前に阿笠博士の家にやって来たのだ。昨夜も夜更かしをしたのか、起こされて不機嫌そうな灰原が「どうせ暑さを避けるなら陽が落ちてから来て欲しいわね」などと、まるで吸血鬼みたいな不満を吐きながらも修理を受け付けてくれ、代わりに予備の眼鏡を借りた。
「博士は?」
「エアコンの修理。昨夜から調子が悪くて、暑くて寝られなかったのよ。まぁ、地下は大丈夫だからそっちで直してあげる。今日中には出来ると思うけど、貴方どうする?」
外から来たコナンは涼しく感じたが、なるほど、言われてみれば冷気が足りない。暑いとは言わないが、生温い空気が循環しているようだ。これでは此処で時間を潰す事はやめた方が良いかもしれない。
「うーん、なら図書館にでも行って読書感想文用の本でも借りてくるか。眼鏡は夕方取りに来るな」
「そう」
「帰りにアイスでも買って来ようか?博士に」
「博士には私が素麺でも作るから、私にはダッツ買って来て。ラムレーズンね」
「……りょーかいです」
灰原のメニュー管理でも一向に痩せる気配がない阿笠博士なのだが、一応継続されているらしいと知って苦笑が溢れる。暑い中、せっせとエアコン修理に勤しんでいる博士にはガリガリくんを買って来よう。それくらいの贅沢は許される筈だ。
そんな会話をして博士の家の門を出ると、いつかの様に隣家、つまり工藤邸の前に赤いスバル360が停まっていたのだ。
──デジャブ?…な、訳ないか。
停まっているのはスバル360だけで、背後に白のベンツはない。なら用件があるのはスバルの運転手のみか。前回の時の様に事件の予感も心当たりもなかったコナンは首を捻りながら車に近付き、「どうしたの?」と、声をかけたのだが、それに返ってきたのがこれまたデジャブを感じる台詞だったのだ。此方の返答は聞かなくても決まっている、という有無を言わせない笑顔に勝てる者などいないだろう。





「怪我は治ったようだな、ボウヤ」
「うん、元々擦り傷だけだったしね。世良の姉ちゃんも大丈夫みたいって蘭姉ちゃんが言ってたよ」
助手席に座って何処に向かっているのかも分からないまま、沖矢昴の運転でコナンはドライブに付き合っている。
「そうか。それは良い事だが、何故私に世良さんの事を態々教えてくれるのかな?」
「えっ、えっとー…僕と一緒にリニアに乗っていたから昴さんが気にしてるのかなって思って……」
世良真純はこの男の実の妹だから、というのは間違いないとコナンは確信しているが、色々な事情により男の家族の事は知らない振りをしなくてはいけない事をうっかり忘れていた。
──やべぇ、やっちまった……でも他に昴さんが知りたい事なんて心当たりないのに。
内心で焦っているコナンを他所に、低い笑い声が耳に届く。
「有難う、ボウヤ。君のお陰でリニアに乗っていた全員が無事だった」
「それは……」
ターゲットにされていたアラン・マッケンジー氏、世良真純、そして犯人の白鳩舞子の事を指しているのだろう。赤井秀一が放った銀の弾丸は正確にリニアの通路ど真ん中、白鳩の心臓の高さを貫いて来た。その精密さを熟知しているからこそコナンに誘導を任せられたのであり、熟知しているからこそ着弾点をずらす事が出来たのだ。
「有難うなんて思ってない癖に、無理にそんな事言わなくて良いんだよ」
FBIの理念とコナンの理念は根本が違う。
「いや、本心で思ってるから言ったのさ。こちらは模倣犯を見逃す訳にはいかなかったが、犯人が死ねばWSG開催はもっと難しくなっていただろう。此処はアメリカじゃなく日本だからな。誰であろうが死者が出ると世論が黙っていない」
芝浜駅も、開会式予定場所だった芝浜スタジアムも避難勧告が間に合い、奇跡的に死者が出ずに終わった。だからこそ開会式会場変更で済んだ。済んだというには大規模損害ではあるが、中止より遥かにマシと世論は捉える。運営の現場の人々は泣きながら対応しただろうが。何しろ何年もの準備と莫大な費用がかかっているのだ。
「リニアを暴走させるとまでは予想してなかったからな。一般人の死者が出れば日本政府の調査も厳しくなってFBIの力で伏せれる問題じゃなくなっていた。最悪国際問題に発展してただろう」
「あー……そうかも、だね」
裏ではきっと色々な事を見ないふりでする事が合意されているのだろう。国と国の付き合いとは綺麗なモノではない。本当にWSG東京が開催されて良かった。
「でもさ、リニアを最小限の事故…って言って良いのか分かんないけど、そう出来たのは僕の力じゃないよ。灰原やリニアの制御室の人たちの協力、世良の姉ちゃんが頑張ってくれたのと……あと、アランさんのパラシュートのアイディアがなかったら無理だったと思う」
そのパラシュートの存在を思い出させてくれた少年探偵団たちの力も。
「だから、僕がやった事って全然大した事ないんだ」
みんなに助けられた。それを実感した事件だった。
「…ボウヤならそう言うと思っていたさ」
信号で止まった車の中、昴はコナンを向いて困ったように柔らかな微笑を浮かべていた。
「ね、昴さん。なんだかいつもの都内ドライブと違う道だよね……何処に行こうとしてるの?僕、図書館に行って読書感想文を書く予定だったんだけど…」
車は簡単に使える密室だ。その為、組織の話や重要事件の時にはよく都内ドライブをするのだが、気がついたら高速入り口に向かっているはないか。
「読書感想文は今日は諦めてくれ。うちのボス命令で有給消化しなくちゃならないんだが、一人じゃ暇でね。すまないが寂しい大学院生、沖矢昴に付き合ってくれ」
「…それはいいけど、僕で良いの?昴さんならもっと他に……」
と、口に出したところで、架空の大学院生である沖矢昴には友人も恋人も居ない現実にコナンは気づいた。赤井秀一には家族も友人も、そしてFBIの仲間もいる。恋人もコナンが知っているだけで過去に二人居た。大人の事情が絡んでいるので深く突っ込みはしないが、きっと普通にモテる男だろう。そんな男が任務の為とはいえ、毎日子どもたちの相手ばかりしている。歩いているだけで女性が寄って来そうな男なのに────なんか、かわいそう。
その沖矢昴を作り上げた一人として大変心が痛む。なので。
「ぼ、僕で良ければ何処でも付き合うよ!何して遊ぶ?麻雀?競馬場?アイドルのコンサート?お酒以外なら大概大丈夫だよ!」
どん、と胸を叩いて覚悟を決めた。大人の遊びとやらがどんなものか分からないが、身近なモデルを念頭にアイディアを出す。
「頼もしいな、ボウヤ。じゃあ、本格的にドライブデートから付き合ってもらおうか」
「あはは、良いよ!」
昴の軽い冗談口調に笑いながら、コナンは暑い日差しの中、滑らかな運転の車に身を任せることにした。





「あら、遅かったわね。眼鏡ならとっくに直っているわよ。エアコンも。………それで、私のダッツは?」
「…………なんか、ドライブして水族館でイルカショー観て水浴びて中華街食べ歩きしてベイブリッジ眺めながらソフトクリーム食べてたら忘れちまった」
「へぇ、知らなかったわ。最近の図書館って水族館や中華街が入ってるのね」
「…………ごめんなさい」
「ごめんで済んだら警察は要らないのよ」
エアコンが効いた室内で絶対零度の視線で睨まれて震えていると、玄関チャイムが鳴り「こんばんは、買い過ぎたのでお裾分けに来ました」と、いつものタイミングが良過ぎる隣人のお裾分けの声が届く。中身は確実にダッツのラムレーズンだろう。
 




聞いてるの兄さん!と、電話口から今日も弟の泣き言が漏れている。プロポーズに成功したと浮かれていた弟が一転、相手の女性が泥酔してた為、何も覚えてなかったと泣き喚いているのだ。頭の良さは兄を超える筈の弟なのだが、どうにも惚れた相手には凡ミスをやらかすのだ。弟も妹も全く詰めが甘い。
「聴こえてるさ。あれだけ飲めば記憶も飛ぶだろう。酒好きの女性に予め飲ませない策をしてなかったお前が悪い」
『そんな〜、無理だよ!由美タンを策に嵌めるなんて!』
「なら諦めろ」
本気で捕まえたいならば、逃げられないようにすれば良いのだ。東名高速で見せた詰将棋のように、相手に気づかれないように逃げ場を潰して追い詰めればいい。それだけの事が何故出来ないのか。
『だって〜』
「『だって』は止めろ。諦めたくないなら何度でもプロポーズしろ」
『したいけど、由美タンは今、WSG東京の交通安全警戒で忙しいから当分デートも出来ないんだよー!もう寂しくてやだー!』
子どもか、お前は。
『デートしたい!イチャイチャしたい!好きな人と楽しい夏をエンジョイしたいの!兄さんには理解出来ないかもしれないけど、僕はそういう人間なんだよ!』
「……………切るぞ」
『えっ!ちょっと待っ──』
ピッ、と通話を切って電源も落とす。
毎日毎日、プロポーズ失敗の泣き言に見せかけた惚気を聴かされるのも疲れる。煙草の煙を吐き出しつつ、隣家の灯りを眺めた。スマホを充てていた逆サイドの耳には盗聴用のヘッドセットが掛けられているが、何日も少女と博士の声しか聴こえない。リニアの事件当日に無事だと報告した子どもも忙しいらしく、姿を見せない。他のFBI捜査官には会ったというので、此方にまで来なくていいと考えているのだろう。確かにその通りだが。赤井も偶には癒しが欲しかった。事件の後始末疲れと弟の胃もたれするような惚気疲れを癒してくれる存在を。丁度、上司のジェイムズに有給を取るようにせっつかれてもいる。
その時だ。

──あら、江戸川君、何の用?……あぁ、追跡眼鏡ね、音沙汰ないからもう要らないのかと思ってたわ。……ハイハイ、なら明日にでも持って来て。

ヘッドセットから聴こえて来た会話に口元を緩める。どうやら赤井の癒しが漸く向こうから来るようだ。さて、確実に釣るにはどうするべきか。
つけっぱなしのTVでは予報士が『明日も暑くなるでしょう。熱中症にお気を付けて下さい』と昨日と同じ忠告をしていた。
「…………エアコンか」
隣家の二人は悪いが、少しだけ弄らせてもらおう。
赤井は詰めの甘い弟とは違った。
狙った獲物を捕まえるのに手段など選ばないのだ。


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