■ 捻くれ者は言祝がない


ぱたん、と音を立ててハードカバーの本を閉じた。
二年前に発売されたそれは五年前から出る出ると噂だけが先走り、世のミステリファンの感情を上へ下へと揺さぶり、もう出ないのではないかと諦めの境地に追いやってからの唐突な出版決定、即ちミステリファンを狂喜乱舞させた本である。もちろん新一もその感情を乱高下させては一喜一憂するなどして弄ばされた一人だ。発売当日に開店直後の時間に本屋に走って入手した本は五年待った甲斐のある重厚な本格ミステリ小説だった。無駄のない文章、計算され尽くした不線容赦のないラストの展開、凪の海の様な読後感は忘れられない。
常ならばそんな面白い本は何度も再読する新一だったが、一読後から落ち着いて読める時間を捻出させる事が出来ずに今日まで先延ばしになってしまったのだ。今日は前もって分かっていた休日であり、今のところ新一が興味を惹きそうな事件も起きていない。実に平和な休日の昼下がりである。今日こそは、と意気込んでリビングのソファーにクッションを敷き詰め、喉が渇いた時用にアイスコーヒーを大量に作って氷も抜かりなく用意した。更には邪魔が入らないようにスマホの電源まで落として至福の読書タイムにしけ込もうと気分良く本を開いたのだ。なのに数ページ読み進めたところで辞めてしまった。どうにも読む気が起きないのだ。
これは新一にとって異常事態である。
さて、原因はなんだろうかと首を傾げても分からない。実の所最近はこんなことがよくあった。大好きなミステリ映画のDVDも本も手を伸ばす気になれない。撮り溜めたサッカーの試合録画も増えるばかりで消費されない。集中力が途切れやすい以外にも美味しいと分かっているお菓子も何処か平凡な味にしか感じない事がある。そして説明の出来ない不安感が常に身体に付き纏っている感覚に襲われる。疲れが原因かと考えもしたが、事件に追われるのは探偵にとって日常の事柄で今更どうという事はない筈だ。
ならば原因はなんだろうと唇に人差し指を当てて考え始めたその時、レトロなインターホンが鳴り響いて思考を中断させられた。





「なんでそれでうちに来る事になるんだよ?」
面倒臭さを隠しもしない探偵事務所の主はセットされた頭を掻きむしりながら煙草を灰皿に力強く押し付けた。そろそろ吸い殻を一度捨てなければ溢れてしまいそうな灰皿を眺めて「良かった。今日はおっちゃん暇だったんだな」と失礼な感想を抱きつつ新一は自分の正当性を訴える事にした。
「何故ってここは探偵事務所ですよね?依頼人の不安や愚痴を聴くのも仕事の内だっておじさん前に言ってたじゃないですか。僕、依頼人ですよ。ちゃんと探偵料払います」
「ガキから金なんか取れるわけねーだろ」
「もう大人です。蘭と同い年なんですから知ってますよね」
「つまりガキって事だろうが」
新一は数年前に成人を迎えている。子どもになっていた期間の遅れはあったが、地頭の良さと事件が起きても学校をサボらないという至極普通の努力で出席日数をクリアし、国内最高峰の大学にまぁまぁ真面目に通いながらも無事卒業したのだ。その間に幼馴染との淡い初恋からも卒業したのだが、それに関しては互いに変わらぬ親愛と家族の様な絆を確認して甘酸っぱい過去の事となっている。だからこそ堂々と毛利探偵事務所に遊びに来る事も出来るのだ。いや、今回は依頼と見せかけた愚痴を溢しに来たのだが。
「大阪の探偵坊主はどうした?親友でライバルなんだろうが?そんなふわふわした悩みあいつに相談しろよ」
「服部は大阪ですから。ここなら近いし」
「お前ぇ事件の時はフットワーク軽く何処でも行く癖になんだよそれは?うちはガキの遊び場じゃねーぞ」
「実は今、探偵業自粛中なんです。あんまり出歩くと事件と鉢合わせする気がして…ほら、ぼく一部で死神呼ばわりされるくらい事件体質じゃないですか」
新一は冗談混じりで軽く発言したつもりだったが、毛利探偵の反応は思いの外大きかった。目を見開き、新たに火を着けようとして咥えていた煙草がぽとりと応接テーブルに落ちた。その後頭を掻きむしって言葉にならない何かを唸っている様子を横目に新一は満杯の灰皿を取り上げて専用のゴミ箱に廃棄し、ついでに勝手にインスタントのコーヒーを二人分用意して戻って来た。更についでに戸棚から貰い物と思われるお菓子も拝借した。昔からこの探偵事務所にはよく謝礼金以外にも感謝の印として菓子折りが届けられる。至って普通のよく見るお菓子だが東京に住んでいるのに東京銘菓が届くのは何故だろうかと疑問も昔からだが今のところ解決される見込みはない。新一も同じ探偵として謝礼を貰うが物をプレゼントされる時は靴やネクタイ、スーツに時計などが多い。大概好みではないし、恋人が無言で眉間に皺を寄せるので丁重にお断りするのだが中々なくならない。そんな処理に手間がかかるプレゼントよりはマシだし、間違いなく美味しいので新一は遠慮なく焼き色の美しい雛鳥饅頭に手を伸ばした。
「…おい、探偵坊主。もしかして馬鹿な事考えてるんじゃないだろうな?」
「え、全部食べちゃ駄目ですか?」
「駄目に決まってるだろうが!それは俺のだぞっ……じゃなくてだなぁ。…お前食欲落ちてるとか言ってなかったか?」
「家で一人だと食べる気なくすんですよね。自分の為だけに料理もする気力も湧かなくて」
決して料理が苦手で言い訳しているのではない。前はきゅうり一本まともに切れなかったが、地味な練習と画期的な料理器具によって新一の腕は上がった。ピーラーやスライサーを発明した人は天才に違いない。カレーやハンバーグは勿論、ネット上で簡単に拾える便利なレシピさえあればどうにかなる。料理は科学であり理論なのだから探偵を名乗る新一に出来ない訳がない。三回に一回は経験のない不可思議な味付けになるし、五回に一回は黒光りする炭になったりもするが、それはそれでデリバリーのお世話になる理由が出来るので悪くない。人より裕福で料理上手な母の手料理で育った割にジャンクな味付けが好きなのである。
「おじさん今夜の晩飯どうするんですか?蘭は恋人と泊まりがけで舞浜のネズミーランドに行ってるって聞いてますよ。ポアロは定休日だし…あ、久しぶりにラーメンでも食べに行きますか?奢りますよ」
饅頭を一つ食べたら急に食欲が湧いて来た。夕飯にはまだ早い時間だがその方が店も空いているだろう。 
「だからガキに金出させるつもりはねぇって言ってんだろ!……そうじゃなくてなんで探偵業自粛なんてしてんだ?いや、この前だって警視庁に協力して二十年前の未解決殺人事件の犯人を突き止めたって目暮警部に聞いたぞ。自粛してねーだろ、おい」
「…あぁ、自粛というより出来るだけ依頼を受けない様にしてるんです。半休業中ですね。ほら、僕、来月からアメリカ行きますし…」
もう一つと手を伸ばすと箱が引き下げれてしまった。酷い。
「だったら最初からそう言いやがれ、間紛らわしい」
推理馬鹿のお前が探偵業自粛だなんて大袈裟な事言うから頭でも打ったのかと思ったじゃねーかと更に追い討ちをかけられて小さく溜め息を吐いた。
「だっておじさんもその事知ってるじゃないですか。パーティーにも居たし」
新一が渡米するという話は既に周知の事実だ。既にその為の面倒な手続きも済んでおり、向こうでの新居の準備、引っ越しの期日も決まっている。つい先日などポアロを貸し切って中学生になった探偵団メンバーたちや博士、世話になった警察関係者などが細やかなパーティーを開いてくれた。新一をコナンの親戚だと信じて初対面から信頼と好意を寄せてくれた子ども達には申し訳なさも感じたが、彼らが居なければ江戸川コナンは成り立たなかっただろうと今更ながら伝え切れないくらいの感謝を抱いている。
「ああ、あのお別れパーティーな。三度目だっていうのになんであのガキ共は号泣出来るんだ?高木刑事達もよく付き合ってくれたな。刑事課は暇なのか?」
可愛らしい雛鳥饅頭を頭からガブっと豪快に齧りながら睨みつけられ、思わず目を逸らす。
「……ははっ、いや、まあ……今回は本当ですよ。これが最後ですから!」
「本当かよ…」





小五郎が疑うのも無理はない。
実は新一が渡米する、という話はこれで三回目なのだ。
一回目は高校卒業して数ヶ月後。アメリカの大学に進化する予定で試験も合格していた新一は九月入学の為数ヶ月の準備期間に身を置いていた。しかし渡米直前に爆弾テロ事件に巻き込まれ、事件は解決に導いたものの新一は結構な怪我をした。死に直結はしないが右足と左腕の骨折と肋骨二本の複雑骨折で動けなくなったのだ。これでは入学に間に合わないと判断した新一はあっさりアメリカの大学を取り消し、浪人して日本の大学入試を受け直して合格した。高校で無理して出席日数を稼いだ分が無駄になったようにも言われたが、新一本人は当時考え直す良い機会になったと思っている。コナン時代、子どもというのは無力でありながら無敵でもあった。大人を前に無茶な行動をしても怒られるだけで済むし、博士の作った強力な機械の助けもあって思った事を即実行出来た。元の新一の姿を手に入れてからは思っていたより出来る事より出来ない事が多かったのだ。小学生には許されても高校生に許されない。自分はもう分別のつく大人なのだからと、別に誰に言われた訳でもないのにそう思っていた。世話になっている刑事たちの手前、あまりに無茶な行動は憚られる。博士の作ったキック力増強シューズはもう足が入らない。新一から印象を遠ざける為に使い始めた眼鏡は今ではコナンの印象が強すぎて使うのに抵抗があった。持ち歩いてはいるが普段からかけていないといざという時に使えない。当時の新一は変身アイテムを失った正義のヒーローのようなものだったのだ。結果、生身の身体で爆弾テロに首を突っ込み大怪我を負ってしまった。当然、周知に怒られたり、泣かれたり大変だったが、一番堪えたのは年上の恋人からの「これを続けるようなら俺は君のワトソンで居られなくなる」という静かな言葉だった。
考える時間だけは沢山あった(何しろ身体が動かなかったので)新一は考えに考えた。今の自分に相応しい探偵方法はなんだろうか。服部や蘭の様に武道を得意とはしていない。怪盗の様に空を飛ぶ事も出来ないし、小さな身体で狭い抜け道を使う事も身を隠す事ももう出来ないのだ。
最終的に自分には推理力しかないと当たり前の結論に辿り着いた。上半身を起こせるようになってから病院のベッドの上で捜査資料を読み信頼出来る協力者に調べて貰う。博士と灰原に無理かと思いつつ頼んだら追跡眼鏡ならぬ、追跡コンタクトを作ってくれた。天才か。ついでにやはりあった方が楽だろうと年齢に合うノンフレームの追跡眼鏡も作ってくれた。サービスが行き届きすぎる。最高か。目暮警部たちにもこれまでより積極的に協力体制を求めるようになった。それらは一見コナンの時と変わらないが、大人の身体(未成年ではあったが)に戻った途端に周囲を頼ってはいけないと思い込んでいた新一の大きな変化だった。
「まだ、僕のワトソンで居てくれますか?」
不安気に訊ねた新一に僅かな苦笑を浮かべた赤井は残念だと溢した。
「これでボウヤの恋人だという肩書きだけが残るのも悪くないと思っていたんだが……当分はワトソンも兼任だな」
やれやれだと、本気ともつかない声音で言うものだから今度は新一が怒る番になった。
「ワトソン解消っていうから別れ話かと思いましたよ!」
「おや迷探偵、まだまだ推察眼が甘いな。俺から別れ話を振るなんて一生ない。例え君がこのベッドから一生動けなくなったとしてもだ」
「…………赤井さんが怖い」
若干、恋人の本気度に引く新一に赤井は「やはり君はまだ可愛いボウヤだ」と甘い笑みを浮かべた。



二回目の渡米予定は大学卒業直前だった。
この時も諸々の手続きや新居の用意、引っ越し予定日まで決まっていた。しかしある事件がキッカケになり新一の気持ちに迷いが出来てしまったのだ。

新一は過去に世界に股をかける巨大組織を壊滅させた事がある。正確には日本の警察やFBI、CIA、他にも沢山の協力者たちと共に組織の壊滅を成功せた。その際、組織のトップは死亡、幹部の数人の逃亡を許してしまったが、もう二度と彼らは組織再生を目指したりはしないだろう。そのくらい完膚なきまで叩き潰したし、野望を先導するトップはこの世に居ないのだから。しかし組織の末端、あるいは間接的に旨みを得ていた者の中には一般には極秘扱いだった新一の存在を認識して恨みを募らせている連中が存在した。
その残党とも言える一人に新一は襲われたのだ。
行きつけのラーメン屋から出た直後にナイフを持った男に心臓を狙われた新一は咄嗟に避け、偶々一緒に来ていた毛利探偵が犯人に気づいて巴投げを仕掛けたは良いが酒が入っていたので足を踏ん張れずに両者揃って道路に転げ、そして最後に店から出て来た幼馴染の素晴らしい判断力と決断力と蹴り技によって犯人に制裁を喰らわせた事件だった。幸いな事に犯人の武器は果物ナイフのみで、此方の被害は地面に転がった毛利探偵の左手小指の突き指だけで済んだ。これは本当に幸運な事だった。手口の杜撰さと武器の簡易さから最初は通り魔も疑われたが、調べが進むと犯人と組織の繋がりが判明し、新一はかなりの衝撃を受けた。
もし犯人がもっと狡猾で、もし武器が拳銃だったら。
結局、降谷と赤井に更に組織関係者を洗うように直接頭を下げ(勿論彼等は新一に頼まれずとも事件発覚時点で動き出していたのだが)、他にも世界の何処かにいる泥棒一味に暗号を使ってSOSを送ったり、引退した怪盗にも情報が入ったら教えて欲しいと頼んだ。後者は非公式の関係なので情報の入手先に訝しんだ降谷に大分顰めっ面をされたが、そこは長年の誤魔化しスマイルで押し通した。お陰で組織の末端関係者、残党は数年でほぼ殲滅したと言っても過言ではない状態になった。因みに赤井に誤魔化しスマイルは通用せず個別でお仕置きを受けた事は言うまでもない。詳しくは言えないが、非常に非情な折檻だったと新一は思っている。遠回しに巻き込まれた泥棒一味と元怪盗からは「鬼を飼ってるなら首輪とリードはちゃんとしとけ!」などと不合理な苦情が来たが全て聞き流した。一応、謝礼金代わりに事前に話をつけていた写真を適当に自撮りして送ったのでwin-winな取引きである。何故今更こんなモノ欲しがるのかと首を傾げたが、彼らはカメラ目線の写真が欲しかったらしい。意味がわからない。
そんなこんなをしている頃、幼馴染に恋人が出来た。新一より背が高く、逞しい体格、しかし朴訥とした垢抜けなさがある好青年だ。園子と京極真の試合の応援に行った時に出会ったという空手青年で、曰く京極や蘭程の実力はないが毛利探偵よりは強いという微妙に頼り甲斐があるのかどうか判断しにくい情報と共に紹介された。話を聞くとなんと何年も前から毛利探偵の活躍ぶりに憧れており、偶然にも蘭の父親だと知って驚いたそうだ。そんな偶然あるか?と疑う新一に「蘭の見る目が信じられないって言うの?」と園子に睨まれ、暫く黙って見守る事にした。元恋人として口出す権限はないが、大事な幼馴染として口を出す権利ならある。世間一般的には無いと言われそうだが新一はあると内心で叫ぶ。疑念は外れ、好青年は正しく好青年だった。地方の農家出身で次男。空手の実力はあるが喧嘩や争い事を厭い、純朴で心の広い人格者。玉の傷は毛利探偵に心から憧れている所くらいだろうか。今では毛利探偵事務所の助手兼弟子として日々不倫調査やペット探しに奮闘しているらしい。憧れたであろう華やかな探偵の仕事でもないのに文句一つ言わず必死に依頼を熟すその姿を見ていると新一の不満というか、どうしようもない身内の恋人への嫉妬がいつの間にか消化されてしまった。つまり認めざる得なかったという訳だ。
新一の中にあった不安要素はこれで全て無くなったのだ。だから三度目の正直で渡米を決意した。





「不安も不満のないなら来月なんて言わずにさっさとアメリカでもイギリスでも行けば良いじゃねーか。向こうに両親も居るし新居も決まってるんだろう?何をうだうだしてんだよ」
「そうなんですけど…」
新一は自分でも今の状態の心理が理解出来ないのだ。すぐにでも生まれ育った国を旅立てる準備は万端なのに何故か足元が定まらない。
「あ、お前それ3個目だぞ。マジで全部食べていく気かよ!」
「別に良いじゃないですか。おっちゃん…と、失礼しました。おじさんももう良い歳なんだから甘いもの控えた方が身体に良いですよ」
「おっちゃんでもおじさんでも好きに呼べよ。だがな、お前の恋人だとかいうあの男も俺に近い歳のおっさんだからな!」
ビシッと目の前に指された人差し指をぎゅっと握って逆関節を極める。
「い、っでデデデっってー!!コラッ!何しやがる!」
「いくらおっちゃんでも赤井さんをおっさん呼ばわりしたら許さないから。赤井さんは永遠の赤井さんだから」
そして新一の永遠のワトソンだ。
「あ、そうだ。忘れてたけどこれ差し入れです。今日の昼に知人から届いたんですけど一人じゃ食べ切れないので蘭たちと一緒にどうぞ」
永遠の赤井さんてなんだよ、という言葉を無視してトートバックから菓子折りの包みを取り出して応接テーブルに乗せた箱はそれなりに重量があった。差出人は出鱈目の名前が記入されていたが、名前の横に描かれていたイラストで苦情を無視した一人の元怪盗だとすぐ分かった。もう一方からはどうやってセキュリティを掻い潜ったのか不明だが、気がついたら窓の近くに小包が放り込まれており、中身は人に見せられない黒い鉄の塊だった。帰ったら庭にでも埋めよう。
「お前ついさっき人に甘いモノ控えた方が良いとか言っといてこれかよ……。渡米前にもっと遠慮とか気遣いとか身につけた方が良いんじゃねえーのか?やっぱりまだ中身はガキだろ?」
「ガキじゃないです。あ、中身サブレの詰め合わせですね。お菓子だとは分かってたんですけど、まさかのチョイスでした」
「東京土産じゃねーか!?お前の知人とやらはなんでこんなの送ってきたんだよ?」
「あー……多分お祝い兼、嫌がらせです」
鳩を選んだのは恐らく本人のシンボルでもあったからだろう。もう一人の黒い鉄の塊の意味も多分そんなところだ。全く理解したくないが。
「お祝いはともかく…嫌がらせってなんだ?」
「以前結構迷惑かけたんで、それが理由だと思います。あっ、これ四十八枚入りだ、凄い」
「お前なぁ…」
その時、探偵事務所のドアがノックされた。
「時間切れですね。相談料は…答え出なかったのでまた今度にします。ラーメンで良いですか?」
「良くねぇよっ!」
毛利探偵が怒鳴った所で待ちきれなかったらしい客が扉を開いた。スッと音もなく現れた黒く長い脚に新一も事務所の主も凍りつく。
「突然お邪魔して申し訳ない、毛利探偵。お久しぶりです」
「………お前の客だぞ、探偵坊主」
「事務所に来たんだからおじさんのお客さんですよ。ね、赤井さん」
音もなく室内に入って来た長身の男は鋭い目付きを細めて応えた。
「そうだな。毛利探偵に挨拶がてらボウヤを迎えにに来たというのが正解だが」
それならせめて事前にメール連絡くらい欲しかったものだ。ノックがなるまで全く気配が無かったので少し警戒はしていたが、この方向の警戒はしてなかった。一体いつから来ていたのだろうか。聴かれてマズイ話をしてないか超スピードで記憶を遡るが、それが終了する前に長い脚であっという間に隣に立たれてしまった。そして当たり前の様に隣に座られた。普段なら嬉しいが、今ここで、このタイミングでは嫌な予感しかしない。
「ボウヤの様子が最近おかしいと阿笠博士の所のお嬢さんに聞いて急遽予定を早めてアメリカから来日した次第でして。自宅は留守でスマホの電源も入ってなかったので困っていたら「事件が起きたとかは聞いてないから毛利探偵事務所にでも遊びに行ったんじゃない?」と助言を受けましてね。大当たりでしたよ」
新一はスマホの電源を落としたままにした事を後悔した。ついでに自宅に無造作に隠してきてしまった小包みの事も思い出して血の気が引いていっそ逃げてしまいたかったが、赤井の腕がさり気なく、極自然に新一の腰に回っていたので諦めて貝になるしか出来なかった。
「…そんなに心配ならとっととアメリカに連れて行けば良いじゃねーか。あんたがもたもたしてるからコイツが不安になるんだ」
え、っと思ったが新一のそれは声にならなかった。代わりに赤井の静かな視線が新一に向けられる。
「そうなのか、新一?」
ボウヤ、ではなく新一。最近そう呼ばれる事が増えたが未だに慣れなくて意味なくサブレの箱に意識を集中する。ここで元怪盗が現れてサブレを本物の鳩にしてくれるマジックでも見せてくれたら本気で感謝するのに。羽ばたけ、四十八羽。
「…僕は今貝なので」
「ほぉ。確か弟に勧められた日本映画にそんなタイトルの話があったな」
赤井家次男のお陰で新一の現在の心理状況は伝わったらしい。
「なーにが貝だ。そいつはな、普段一丁前に大人ぶっちゃいるがいつまで経ってもガキなんだ。一時大人しくなってた事もあった癖に今じゃコナンの時より無鉄砲になってやがるし俺に対する遠慮も知らないし、恋愛感情なんか俺の娘とままごとみたいな恋愛ごっこした頃から全然成長してねぇ。事件の推理はともかく、色恋沙汰のややこしい企みなんて通じねーぞ!言いたい事があるなら分かりやすくはっきり伝えてやれよ」
「新一、毛利探偵はこう仰ってるが反論しなくて良いのか?」
酷い言い草だと思ったが新一には反論する理論などない。事実その通りなので黙って首を横に振った。
「企みなんてありませんよ、毛利探偵。恥ずかしながら私も良い年して愛というものを理解してないなどと同僚に叱られた事がある人間でして。ですから新一の事は最大限出来るだけ大事にして来たつもりですし、これからもその予定です。そして少し時間は掛かりましたが漸く準備が整いました。迎えに来たと言ったでしょう?」
赤井の声は一定した落ち着きで普段通りだが、何処か楽しそうな気配があった。しかしちょっと待って欲しい。一体毛利探偵に何を話そうとしているのか。家に放置して来た黒い鉄の塊の事がバレて怒っているのだろうか。いや、赤井も当たり前に持ち込んでいるのだから案外「ほぉ」で終わらせてから別の議題を持ち出しているのかもしれない。その別の議題も正直ここで出して欲しいものではないが。
「へぇ、大事にねぇ。最初の渡米予定から随分時間が掛かったようだが何が問題だったんだ?あの時の怪我は確かに酷かったがあんたなら引き取って向こうで面倒診る事も出来たんじゃないか?」
「あ、赤井さん、おっちゃん、何言って…」
「ボウヤは今話せない貝なんだろう?暫く大人しくしていてくれ」
「そうだぞ、小僧。貝なら黙って聴いてろ」
安易に貝になるものではない。
この場で新一に発言権はなくなってしまった。
「新一から聞いたのですが毛利探偵は依頼人の不安や愚痴も聞いてあげるらしいですね。では私の話も少し聞いて頂きたい」
「言っておくがそれは美女限定サービスだからな。勘違いするな。今回は暇……偶々時間
があるから特別に聞いてやるが」
「おや、それは有難い。依頼料はラーメンで良いんでしたっけ?」
新一が探偵事務所に着いたほぼ最初から立ち聞きしていたらしい。自分の恋人が優秀なFBI捜査官である事を初めて恨んだ瞬間だった。
──永遠の赤井さんとか訳分からないこと言ったのも聞かれてた。詰んだ、これ。
「そりゃうちの預かり小僧限定サービスだ」
──有難うおっちゃん。今度本当にメンマ増し増しでラーメン奢ります。だからもう会話を止めて欲しい。
「では大人の男料金を払いましょう」
「よし!好きに話せ」
──全くよし!じゃねぇよ。

「既にご存知か分かりませんが私が新一に告白というものをした時、同時にプロポーズも申し込みました。彼が高校三年生の頃ですね。詳しい言葉は毛利探偵相手と言えど申し上げられませんが」
「狂ってんな」
そうだろうか。当時大学受験を国内か親の勧めのアメリカか迷っていた新一は嬉しくて二つ返事で頷いてしまったので変だとは思わなかった。蘭とは既に円満に別れていたし、赤井への感情も気づいていたからだ。
「まぁ、そう思われますね。私は彼の正体をかなり初めに気づいていて、本来の姿…本当に子どもでしたが会った事があるので子どもに見えるだけで中身は大人だと思ってたんですよ」
「いや、ガキだろ。高校生だぞ。女の子にラブレター貰って自慢する年頃だぜ?」
小五郎の台詞が胸に刺さって痛い。
「そうなんですけどね。彼が余りに優秀で驚くべき推理力を持っていて、時折ハッとするぐらい大人びた表情を見せるので忘れてしまってたんです」
「うーん、それは一回痛い目に遭ってほんのちょっと成長したんだろう。平成の名探偵とか持て囃されていたのにガキになっちまったんだから」
最早新一は出血死直前である。
「誰でもそういう時期はありますから。毛利探偵も心当たりありませんか?」
「うっ、…い、今は俺の話じゃないだろう!さっさと続けろ!」
──ナイスアシスト、赤井さん!
新一は心の平穏を保つ為に一羽の鳩に手を伸ばした。やけ食いでもしなきゃやってられない。
「愚かだと思われるでしょうが新一がまだ高校を卒業したばかりの未成年で、自分の妹と同い年だと思い知らされたのは彼が爆弾テロに巻き込まれて大怪我を負った後でした。当時アメリカに居たんですが日本の警察にツテがありますから詳しい事情も結構早く耳に入ったんですよ。ボウヤは無謀にも誰にも協力を求めず一人で犯人と対決したらしと。驚愕しましたね。私でも懐に拳銃の一つ忍ばせますよ。無謀というより自殺行為です。怒りも湧きました」
小五郎は赤井の言葉に深く頷いている。
「そこでやっと、新一がまだ可愛らしいボウヤだと分かりました」
「そこで大人らしく告白もプロポーズも無しにして退こうとは思わなかったのか?」
新一にとってゾッとする様な話を淡々と続ける赤井にこれはもしかして赤井流の別れ話なのかと思い始めたその時、隣に座る男が口元に笑みを湛えたのを見た。
「思いませんでしたね。そんな事は全く」
「狂ってんな」
二度目の毛利探偵による赤井の評価は先程よりずっと低い声だった。
「狂ってる人間は狂ってると気づけないものですが、もし私が狂ったとしたら最初に海で新一と出逢った時からでしょうね。そうでもなければ身内でもないたった一度会った子どもの顔や声のみならず会話全てを十年も覚えてないと思います」
「今からでも通報するか?知り合いの刑事紹介するぜ?」
「通報される様な事してませんからそれは遠慮申し上げます。それにまだ話の途中ですよ、毛利探偵」
「そうだったな。で?」
「まぁ、反省しました。今連れ去るのは早いな、と。敢えて言葉を選ばずに言わせて貰いますが彼を全て自分のモノにする事は既に決定事項だったんです。だから簡単に命を捨てる様な事をしたのは本当に腹が立ちました。自分のモノを勝手に捨てられたら怒るでしょう?矛盾してますが仕事意外に初めて殺意が湧きましたね」
二度目に病院に見舞いに来たあの日、甘い笑みを浮かべた赤井に対する恐怖は正しかったのだ。

『俺から別れ話を振るなんて一生ない。例え君がこのベッドから一生動けなくなったとしてもだ』

自分のモノだから赤井としては当然の言葉だったのだろう。
「私は彼の望みを全て叶えてやりたいとも思っているので探偵としての才能も捨ててほしくなかった。今はまだ縛りもありますが、いつか世界中を連れてってやりたいと思ってます。新一が好きなだけ謎解きが出来るように。ああ、勿論彼の身は私が守りますよ。そう遠い未来じゃないでしょう。その為にあの時はまだ日本で沢山の人に愛されて過ごす方が良いと判断しました」
「間違っちゃいないな。共感は出来ねーが」
「二度目はあの組織ですね。これは完全に私の責任でもあります。叩き潰しても叩き潰しても蛆は出でくる。私の爪が甘かった。二度と奴らの残骸を毛利探偵や娘さんにもお見せしないと約束します」
「それは助かる。正直今でも俺には理解出来ない奴らだ」
「娘さんに素敵な恋人が出来た事は私も純粋に嬉しく思ってます。彼女は新一とは違いますが色々縁のあった女性ですから。何より新一が安心した事が私には大事だった。お陰で新一は心置きなく日本を離れる事が出来るようになったし、私も今度こそ全て手に入れられる。準備が整ったとはそういう事です」
「おい、今はあんたの話を仕事として聞いてるからスルーしてやるが今後俺の娘を利用したり傷一つつけてみろ、ぶっ殺すからな!」
鋭い剣幕になった小五郎にも眉一筋も動かす事なく赤井は淡々と応えた。
「あり得ませんよ、毛利探偵。新一の望み全て叶えてやりたいと言ったでしょう?つまり私には出来ない事です」
「…………探偵坊主、こんな事言いたかないがお前本当にこの男で良いのか?この男どう考えても狂ってる上にお前の事自分のモノ呼ばわりしてるんだぞ?」
二羽目の鳩に手を出していた新一は突然会話を振られてゲホゲホっと咽せた。コーヒー一杯で雛鳥饅頭三個とサブレ二枚は無理があった。
胸を叩いて何とか気道を確保する。
「大丈夫か、ボウヤ?」
「お前が言うな、ほらっ俺のコーヒー飲め!」
「…有難うおじさん、赤井さん。間抜けにも死因が鳩になる所だった」
「万が一そんな事が起きたら何処かでデカくて白い鳥が一羽死ぬな」
恐ろしい。宅配伝票は家のゴミ箱に捨てた筈だがしっかりチェックされているようだ。しかし話の後半は割と平穏な気持ちで聞けていた新一は小五郎が心配しないで済むように質問に正直に応える事にした。
「おじさん、心配しなくても赤井さんも全部俺のモノだから大丈夫ですよ」
互いに命を預けあった時から二人は対等なのだ。
「…………………心配しかねぇだろうが、クソガキ」
「え?」
「……つーか、何でそんな事俺に言う?俺はこいつの父親じゃねーぞ」
確かにそうだ。工藤新一の父親は工藤優作であって毛利小五郎ではない。赤井が両親に頭を下げた時はもっとあっさりした会話だった覚えがある。新一が知らないだけで秘密の話をしているのかもしれないが。揃って癖モノの両親の事は実の息子でも読みきれないので多分真実を知る機会はないだろう。
組織の霧を晴らしたのち、小五郎には江戸川コナンの正体を説明するべきだと判断したのは新一の両親だった。息子の所為で多くの危険に巻き込み、曝してきた事に対する謝罪と礼をする為だ。当時も怪我で入院していた新一はその詳細も知らない。両親に訊いても「毛利探偵は父さんたちが思っていた以上に素晴らしい探偵だったよ」としか教えてもらえず、恐る恐る小五郎に直接訊ねてみても「ガキが大人の話に首突っ込むんじゃねーよ。さっさと怪我治しやがれ」といって少々強めのデコピン一発を貰って終わってしまった。小五郎にとっては新一もコナンも変わらぬ生意気なクソガキという事らしい。それが妙に気恥ずかしかく、いい加減一人前として認めてもらいたいと赤井に何度か零した記憶があるが、表情の乏しい男がえらく苦々しげに聞いていた事を新一は気づいてなかった。それ故に赤井が探偵事務所に態々足を運ばざる得なかった理由を察する事が出来なかったのである。
「…まぁ、父親ではないが保護者だからな。江戸川コナンの保護者はずっとあんただった。前々から一度ゆっくり話してみたかったのもある。あんたは一番この子の過保護な守り手だったからこちらとしては感謝してるんだ。心から。だが……それ以上に娘さんだけでなく、毛利探偵、あんたも新一の心の錘となっていた。それを外して貰いに来た」
赤井は口元に湛えていた笑みを消し、獲物を狙う様な冷たい目で小五郎を見据えた。
「あ、赤井さん?」
「ふんっ、正体現しやがったなテメェ。胡散臭い畏まった喋りよりずっとマシだぜ。ご丁寧に長々と説明してくれたが要は俺の存在が気に入らないだけだろ!」
「流石は名探偵、仰る通りだ」
──仰る通りなの?
想定外の対立に新一はおろおろとするしかない。赤井が小五郎対して腹に一物抱えているなど考えもしなかった。
「錘を外せって言われてもな、そりゃ探偵坊主の心の中だろ。いくら俺が超有能な名探偵でも出来る訳ねーだろうよ。それとも何か?今後二度とこのガキと会うなと言いてぇのか?それこそこいつに言えってんだ。こいつが勝手にちょくちょく来るだけで俺は歓迎した事なんかないぞ」
仰る通り、と新一は頷いた。幼稚園で蘭と出会った時から小五郎は新一を歓迎した事などただの一度もない。だが、追い出されもしないので図々しくもついつい遊びに来てしまうのだ。
「充分歓迎しているとしか見えないが……まぁ、そこは別にどうでも良い。こちらの望みはもっと簡単な事だ」
「あんだよ?」
「あんたから祝福の言葉が欲しい。新一に」
「はぁ?」
赤井の言葉で新一ははっと気付いた。そう言えば小五郎からだけまだ言われたことがない。おめでとう、と。
新一は周囲の人間に恵まれているのか、赤井との事を悪く言われる事がなかった。実の両親は勿論、赤井の家族、幼馴染、親友や幼い友人たち、幼馴染の友人、果ては警察関係者までも知った時に驚きはしても直ぐに笑顔でおめでとうと祝ってくれる者ばかりだった。当たり前になり過ぎて気づかなかったが、実はとんでもなく幸せな事なのだろう。だからこそ反対や軽蔑こそしないが、おめでとうと言ってくれない男の事が気に掛かっていたのだ。新一にとって大切な人間だから。赤井の言う錘とはこれの事だったのか。
「……そんなもの言う必要ねぇだろ。何度も言うが俺はこいつの親父じゃねぇ」
これも仰る通り。寂しいが仕方のない事だ。
「だから坊主、ちょっと顔こっち近づけろ」
「え?何でですか?」
不思議に思いながらテーブル越しに小五郎に顔を寄せた途端、ごちんっ、と鈍く大きな音が鳴り響いた。
「あだっ!!…な、何?」
額を思いっきりデコピンされるの組織との対決が終わって入院した時以来だ。あの時は早く身体を治して元気になれという激励の意味と受け取ったが今回は何なんだ。
「うるせぇ、聞け、クソガキ!」
「…だからガキじゃないですってば!」
「次にラーメン屋行く時はお前に奢らせてやらぁ。それでチャラにしろ」
新一は目を見開いて小五郎のやる気のなさそうな顔を見つめた。
小五郎との付き合いは長い。ある意味両親より、赤井よりも近くに居た他人だ。毎朝、毎晩、一緒に食卓を囲んでいた時もあった。仕事が片付いた日は寝るまで飲んだくれるので蘭と苦労して寝室のベッドまで運んだ回数は数えきれない。最初はイビキや歯軋りが煩くて眠れず、博士からこっそり耳栓を譲ってもらって付けていたがいつの間にか平気になってしまった。朝に蘭が部活の早練の時はポアロ、遅い時にはラーメンが定番だった。パチンコで勝った時は口止め料にパフェを食べさせてもらったりもした。大概バレて一緒に怒られるまでがセットだ。客の居ない事務所は競馬ラジオがBGMだったから自然と馬の名前にも詳しくなったし、沖野ヨーコの歌なら全ての歌詞を空で言える。ただしお前は歌うなとキツく申しつけられているが。
つまり毛利小五郎の考えている事は嫌でも大体分かってしまうのだ。こんなやる気のなさそうな顔を浮かべているのもこの男の照れ臭さを隠す為の悲しき性分だという事も。その証拠に耳が異常に赤味をさしている。
これは小五郎からのどうしようもなく不器用で捻くれた精一杯の言祝ぎだった。
「……ありがとう、おっちゃん。これからはずっと俺が奢るから」
「調子に乗んじゃねーよ。お前にゃまだ早い!取り敢えず一回だけだ!」
「えー……ケチ」
「何処がだよ!奢ってやってんのにケチ呼ばわりたぁ、このクソガキ!!」
「心の広さがケチくさいって言ってるんですよ!そっちの方が大人だっていうなら大人の心の広さを見せてくださいよ!」
「お前こそ大人になったっていうなら俺をちゃんと立てろ!」
なら割り勘にして下さい!そんなのもっとケチくさいだろーが!などと半分掴み合いの言い合いになってしまったところで「ぶはっ!」と聴いた事のない笑い声が隣から発生した。先程まで獲物を狙う様な冷たい目で小五郎に突っかかっていた男がこちらに背を向けて必死に笑いを堪えている。堪えているが肩が震えているので丸わかりだ。
「…おじさん、この件の決着はまた今度にしましょう。僕は譲りませんけどね」
「…あぁ、そうだな。俺も譲らねーが」


「………で、赤井さんとやら。あんたの希望は叶えたぜ?もう文句ねーだろ?頭のどうかしているFBIの優秀な捜査官様と無鉄砲でガキの探偵小僧とお似合いだ。とっとと二人揃ってアメリカでも宇宙でも行っちまえ」
「えぇ、そのようです。大変楽しく興味深いものを見せて頂きました。これで漸く全ての保護者の許可を得たという事で受け取らせて頂います。有難うございました」
「え…良いのかな?」
ラーメンを奢る主導権は決着を先延ばしにして終了してしまったのだが。
「おい、探偵坊主。そこはその男を信じてやれよ。藪蛇になるかもしてないのに態々突きに来たんだぞ、そいつは」
まだ耳を赤くした毛利探偵が澄まし顔を作りながらも保護者としての助言を差し込んでくれたので、取り敢えずは素直に頷いておく。
「……うん。ねぇおっちゃん、来月の式に蘭たちと来てくれますよね?」
「タダでアメリカ旅行出来てタダで酒飲めるんだ。行くに決まってるだろうが」
「…飲み過ぎて蘭に怒られても知らねーから」
「式場とホテルは同じ場所だ。心配いらんさ、ボウヤ。長居してしまったからもう帰ろう。毛利探偵、生憎持ち合わせがないので料金は近日中に送ります。必ず」
赤井は毛利探偵が酔っ払ってやらかした数々の失敗は流石に知らないかもしれない。もしもの時は自分が式場や他の招待客に頭を下げようと心に決める。何しろ江戸川コナンの保護者ということは新一の保護者なので。
結局ラーメンを食べそびれたが、今後も機会はあるだろう。今日の所は諦めて赤井と一緒に帰った方が良いのは新一にも分かっていた。出来れば自宅にあるベッドの下の小包を素早く安全な場所に隠したい。まだ見つかってない可能性に僅かな希望を賭けて。
「あー、ついでに言っとくがな、探偵小僧。お前の最近の集中力のなさだとかふわふわした不安つーのはあれだろ」
「あれ?」
ドアを開けた所で小五郎から疲れた声をかけられて足を止める。
「カーッ、面倒くせえガキだな!探偵なら推理しろよ!」
「あれで分かるんなら探偵はいりませんよ!」
だから態々言わせんなよ、ただのマリッジブルーだろが!と、男しか居ない場で小っ恥ずかしい指摘をされた新一は再び貝になる事になった。二度目の貝は真っ赤な赤貝だ。


「あぁ、そうだった申し訳ない。ご挨拶に伺ったのに忘れる所でした。日本ではこういう事が大事だと弟に教えて貰ったんですよ。これ、つまらないモノですがよかったら御家族とお弟子さんでどうぞ」
何処に持っていたのか赤井がさっと取り出したのは黄色い包装紙に包まれた菓子折りだった。バナナクリームをスポンジで包んだ美味しいお菓子だ。
「そこはせめてアメリカ土産持って来いよっ!!」


後日、小五郎の元には上等なスコッチウイスキーが届いたらしい。
黒い鉄の塊がどんな波乱を巻き起こしたかは、当人たちだけが知っている。

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