■ MTO2

アパート火災に巻き込まれた後、赤井を工藤邸に住まわす事になって屋敷内部から庭まで可能な限りのセキュリティシステムを取り付けた。これも変声機同様、阿笠博士の協力に依るものだ。
本来なら猫の仔一匹でも屋敷に侵入する事は不可能。センサーやカメラを掻い潜っても、住人の男が侵入者の気配に気づかない筈がないからだ。しかしそんな不可能な筈の要塞に侵入を果たしてしまった強者が存在した。

工藤邸に沖矢昴という居候が越して来て暫く経ったある日の事。
阿笠博士にスケートボードの修理を頼んでコナンは優雅に最新刊の推理小説を読んでいた。ふと、読んでいる本のトリックが以前読んだ事がある内容と似ているような気がした。勿論違う話なのだが昔の本なので詳細が思い出せない。確か父親の本棚にあった。最近、新しい住人が引っ越して来てからはあまり行かないようにしていたが、たまには良いだろう。まだ夕方だし、スケートボードの修理も終わっていない。
取りに行こうと玄関を出たら生憎の雨模様、それも豪雨並みのどしゃぶりである。そこでコナンは仕方なしに秘密の通路を使う事にした。なんの事はない、阿笠邸の裏口に続く地下通路には、父親が締め切りから逃れる為に作った秘密の(これは母親に対しての秘密だ)通路が繋がっているのだ。狭くて暗い上、直ぐに蜘蛛が巣を作ってしまうので積極的に使いたくはない。この通路の事をまだ赤井に話してはいなかったが、見つかったら云えばいいかと軽く考えていた。
工藤邸は玄関や窓は二十四時間カメラが作動しているが、室内は基本スイッチを切っている。赤井は万が一の為スイッチを入れるよう主張したがコナンが首を縦に振らなかったからだ。只でさえ縛りの多い生活をさせる事になるのに更なるストレスを増やして欲しくなかった。

結果的にカメラにもセンサーにも引っ掛かる事なく中に入ったコナンは、そこで予想外の光景を見る事となった。リビングのテーブルにコップが倒れ、零れたままの水が絨毯に滴を落としている。ソファーに寄り掛かるように座っている男は眼を閉じていて部屋に入って来たコナンに全く反応しなかった。例え眠っていたとしても気配に聡い男らしくない。
慌てて駆け寄り俯いている沖矢昴の顔を覗き込む。薄い特殊マスクと化粧で作られた顔の血色は良いが眉がきつく顰められ、浅い呼吸を繰り返している。首の動脈に触れると酷く熱かった。何度赤井の名を呼び掛けても低い呻きが漏れ聴こえるだけだ。
スマホを取り出し、一瞬迷って阿笠に掛ける。救急を呼ぶ事を出来なかった。男は死んだ筈の人間なのだ。自分が殺した。もしもう一度殺すような事になったら──そう思うと、手が震えて画面を何度も押し間違えてしまった。電話に出た阿笠はコナンの動揺した声に驚いていたが、話を聞くと落ち着いた声で『恐らくただの風邪じゃろう。昨日会った時少し咳をしておった。慣れない環境に疲労も溜まっていたんじゃないか?流石の彼も人間という事じゃ』と笑った。
薬を用意しておくから取りにおいでと云われ、漸く冷静を取り戻す。
子どもには重すぎる大人の身体を何とかソファーに横たえ、首もとのスカーフとシャツのボタン、変声機のチョーカーを外す。焦る手が小さく震えてしまい、ここまでかなり時間が掛かっていた。それでも男は眼を覚まさない。更にベルトを弛めてから顔のマスクと甘い茶髪のウィッグを剥がし取れば、昴とは正反対の男臭い端正な顔にうっすら汗を浮き上がり、明らかな疲労が見てとれた。元々根付いていた隈が濃さを増している。
台所から持って来たアイスノンをタオルで包み首の下に入れ、客室から運んだブランケットを掛けた。すると少しは楽になったのか顰められていた男の眉が弛み、コナンはほっと息を吐く。
「良かった…」
心も身体も屈強な赤井が倒れるなど考えもしなかった。そんな自分の愚かさに悪態をつきたくなる。赤井に潜入捜査の経験はあっても、顔も人格も別人になりきるというのは想像以上に負担が掛かったのだろう。身体が小さくなる経験をしておきながら、役に立ててない。
コナンは赤井秀一が完全無欠のヒーローだと思い込んでいたのだ。阿笠が云った通り、彼も人間なのだから無理をすれば壊れてしまう。当たり前の事を忘れていた。
「ごめんね、赤井さん」

薬を取りに阿笠邸に戻ったコナンはついでに何か食べ物を持っていこうと考え、灰原に何か作ってくれないかと頼んだ。この頃、赤井はまだ自炊の経験が殆どなく、出来合いのモノばかり買ってきて食事をしていると本人からちらっと聞いていた為、工藤邸にろくな食料がないのは承知していた。だからこそ、弱っている時くらい手作りの料理を食べさせてやりたいと思ったのだ。
だが返ってきた灰原の反応は冷たい。
「なんで私が怪しげな隣人の為に手料理を作らなきゃいけないのよ。風邪なら栄養劑でも飲ませておきなさい」
コナンと同じシャーロキアンという馬鹿馬鹿しい理由だけで信用して実家に住まわせるなんて、と不信感を露にし、沖矢昴という男を全く信用していない。まさかのアパート火災で上手い云い訳を用意出来なかった事を悔やんだ。これは時間を掛けて信用を得るしかない。
「どうしても手料理が良いなら自分で作りなさいよ。隣家で餓死なんてされたら寝覚めが悪いからキッチンと材料なら貸してあげるわ」
それしかないか、とキッチンに立ったは良いがコナンは全く料理が出来ない。何しろ海外渡航前の母に厳しく扱かれても上達せず、最終的にお金があれば(それに隣人と幼馴染みの助け)死にはしないだろうと云わしめたくらいだ。
どうしていいか判らずキッチンに立ち尽くすコナンに、溜め息を吐いた灰原が「お礼は服とか靴に込めて返してね」と恐ろしい事を云いながら教官役を名乗り出てくれた。口だけ出して手伝ってはくれないという母以上の鬼教官の協力で、小さなおにぎり三個(具はおかか、梅、昆布)とやや焦げた卵焼き、それにキュウリの浅漬けを少々入れた弁当を完成させた。正直見た目はかなり悪い。小さな手で必死に握ったおにぎりは三角でも丸でもなく、どれも不揃いだ。卵焼きは卵を焼いたものである、と一応判る代物で。キュウリの浅漬けは何故か薄い輪切りが二枚か三枚くっついて切られている。
「…病人にこんなもの食べさせてだいじょうぶか?やっぱりお粥の方が簡単そうだし食べやすいんじゃ…」
「二回も鍋を焦がしといてよくそんな事云えるわね。ご飯は炊飯器で炊いたものだし、他もほぼ食材そのままなんだから死にはしないわよ」
などと何処かで聞いたような教官のお墨付きを貰ったが不安が拭えない。無言で弁当箱を見つめているコナンに灰原が少しだけ優しい声で大丈夫だと云った。
「推理ごっこ以外に不精な貴方が苦手な料理までするなんてあの怪しい大学院生は果報者よ。毒でも無理矢理食べてくれるわ」
なんなら私が寝ている男の口に突っ込んで来てあげる、とやはり辛辣な事を付け加えたりされたのでさっさと渡しに行く事にする。







弁当箱とペットボトルのお茶、そして薬を抱えて再び地下通路を潜って工藤邸に戻る。既に二時間以上経過してたので赤井の様子が心配で堪らなかった。
リビングをそっと覗くと出た時のまま間接照明が灯った室内に変化はなく、赤井はまだ眠っているようだ。足音を立てないよう注意して近づく。
顔を見れば先程よりマシになった血色と、落ち着いた呼吸が見てとれた。額の温度も下がっている。やはり疲れが溜まっていただけなのだろう。
安堵したその時、額から離そうとした手を捕まれてぎょっとする。
「…赤井さん、起こしちゃった?」
見ると固く閉じられていた男の両目が驚愕した様子で見開いていた。鍵が掛かっている筈の家にコナンが居て困惑しているのかもしれない。
「ごめんね、驚かせて…実は、」
「…ホームズの……まさか」
「え?」
汗を掻いて水分が足りないのか、赤井の言葉が掠れて聞き取れなかった。お茶を取ろうにも強い力で腕を捕まれていて動く事も出来ない。
「…すみじゃあるまいし、本当に魔法使いだったとでも云うのか…箒でアメリカまで飛んで来てくれた、なんて訳がないな。ならこれは夢なのか…」
まだ微熱が残っている影響か、それとも寝惚けているのか。深いグリーンの眸はコナンを見ているようで何処か遠くを見ていた。魔法使い云々の発言は意味が判らないが、どうやら赤井の意識はアメリカに居た頃を彷徨っているらしい。想定外の事態にコナンは困った。
「うーん、と…ここは日本なんだけど。それに僕は魔法使いじゃなくて探偵だよ?」
「日本?…あぁ、やはり夢か…。厭な仕事を頑張ったご褒美なのかな」
苦笑気味に話す赤井に何も返す事が出来なかった。FBI捜査官の赤井が経験してきた厭な仕事など想像がつかない。
「赤井さん、まだ眠った方がいいよ。疲れてるんでしょう?」
「寝てるのに寝るのか?…勿体ない、せっかく逢えたのに」
「また、すぐにあえるよ」
「…じゃあ、子守唄でも歌ってくれ。夢なんだからそのくらいサービスがあってもいいだろう?」
眠気はあるのか、赤井はそんな我が儘を云った。寝惚けているとはいえまるで子どもの様だ。いつもと立場が逆で面白い。
「うん、いいよ」
歌は苦手だが嫌いじゃない。料理よりましな筈だと、うろ覚えの子守唄を口ずさみ始めた。厭な夢を見ないで眠れるように願って。やがて赤井はコナンの手を握ったまま眠りに入った。
そっと外した手を赤井の胸元に置いて、ぽん、ぽん、と軽く叩く。
「いっぱい休んで、早く良くなってね」

弁当箱とお茶と、もう必要ないかもしれないが薬を念のためテーブルに置いて部屋を出る。自分に出来る事はもうない。
赤井に助けて貰った事は沢山あるのに、返せるものがあまりないのが悲しかった。それでもこれから少しでも返していけるように頑張ろうと決意する。
「その前に灰原に服と靴か…あと鍋も」







翌日、まだ少し心配だったコナンは学校帰りに工藤邸に立ち寄る事にした。今度は玄関からだ。
「いらっしゃい、コナン君」
出迎えてくれたのは昴で、不調な様子は微塵もなく、寝惚けてもいない。元気になったのかと訊ねたコナンに、昴は何の事やら判らないと云ったふうに「私はいつでも元気ですよ」と笑った。直接会った事は忘れているかもしてないと考えていたが、弁当箱や薬でコナンが来た事に気づかなかった筈がない。だが昴はそれを口にしなかった。
もしかしたら弱っているところを見られたくなかったのかもしれないし、夢現に魔法使い云々などと似合わないメルヘンな事を話した記憶があって恥ずかしいのかもしれない。自分だったら少し恥ずかしい。
そう思ったコナンは無理に蒸し返すのを止めた。念の為に屈んでもらい、首に腕を回して抱きつく。おでこを合わせてもやはり特殊マスク越しに体温は伝わり難く、首に触れた腕が体温計代わりだ。平熱を確認して離れようとしたコナンの身体を今度は昴に抱き上げられてしまった。
「わっ」
「突然抱き付いてくるなんて、今日は随分甘えん坊ですね」
クスクス笑う昴に、そんなんじゃない、内緒の診察です、と云う訳にもいかない。
「えっと、今日だけ…」
「そんな事云わずに毎日だって抱き付いてくれて良いんですよ。前は人懐っこい素振りを見せてた癖に、越して来てからはつれない態度で中々近づいて来てくれない。君がもっと会いに来てくれたら嬉しいのですが」
確かにコナンは必要以上に男に近づくのを避けていた。共犯者になってからは特に。
二人にはお互いまだ隠し事があるし、この先も自分の立場が優先だろう。それ以上に男に負担をかけたくなかった。コナンから近づける距離には限界があるのだ。だから足りない分はそちらから歩み寄って欲しい。
「…昴さんも僕に甘えていいよ」
具合が悪い事ぐらい教えて欲しい。二人は共犯者なんだから困った時くらい頼って欲しいと、同じ目線にある顔をじっと見る。
「では、コナン君に一つお願いがあります」
「な、何?」
早速の事に緊張するコナンの耳に、内緒話をするように潜めた声で昴が告げた。
「この家に内緒に出入りしてくれた恥ずかしがり屋の侵入者に、とても美味しかったと伝えてください。またお弁当を作って遊びに来てくれたら嬉しいです、と」
「……え?」
「手紙一つなかったので、どなたか判らないんですけど。コナン君、知り合いですよね?」
「……あ」
そういえば置き手紙をしなかった。どうせ家に入ったのがコナンだと判ると思っての事だったが、地下通路の事をまだ教えていない。男から見れば怪しいにも程がある行動だった。だから昨日の事を口にしないのだろか。
「昴さん、あの、それ…」
「カメラにも映ってないので幽霊かと思いました。この家、歴史がありますから出ても可笑しくないですよね」
「いやいや、それは」
「それとも可愛らしい妖精とか妖怪とか。私は小さな座敷わらしだと想像してるんですけど…正解ですか?」
「あ、はははは!まぁね!」
小さいは余計だ。魔法使いといい、座敷わらしといい、男は案外メルヘンチックな思考らしい。
「お願いできますか?」
「えっと、でも弁当はもう…」
「引き受けてくれたら有希子さんにあの地下通路を黙っておきます」
にっこり微笑む男には全てお見通しのようだ。逃亡用の地下通路が母にばれたら両親は喧嘩になるかもしれない。否応なしに今まで黙っていたコナンも巻き込まれるだろう。それはとてもとても面倒臭い。
「…うん、わかった。また作って欲しいって伝えるね!」







「どうしてまだ不法侵入みたいな真似してるのよ?」
「あー、なんとなく話の流れで俺が作ったって云い難くなっちまって…」
初めて弁当を作ってから数ヶ月、コナンは今も時々阿笠邸のキッチンを借りて弁当作りに勤しんでいる。灰原の口は出すが手伝ってはくれない鬼教官ぶりは相変わらずだが、沖矢昴への認識は大分柔らかくなった。厭みも三回に一回ぐらいに減った。子ども逹もすっかり彼に懐いて遠慮なくご馳走になったりしている。
「貴方が作ってるって知ってるんでしょ?」
「あぁ、もちろん」
「最近じゃあ、あの人の方がレパートリーも広がって上達してるわね。煮物以外にもお菓子まで作り過ぎたってお裾分けに来るし」
「いつまでも上達しない生徒で悪かったな」
どうやっても三角にならない手元のおにぎりを見下ろして溜め息を吐く。
赤井の食生活が心配になったコナンは母、有希子に相談し、メイクのついでに料理も教えるようになった。コナンと違って優秀な生徒はあっという間に料理上手男子だ。カレーもクッキーもコナン好みの味なのが、また憎らしい。その事もあって下手くそな弁当を持って行く時は顔を会わせたくなかった。男の子の微妙なプライドである。
「なんでこんな美味しくない弁当を食べたがるんだろ?」
指に付いた米粒を食べつつ首を傾げた。広い家に一人住んで、しかも行動を制限されている男が人恋しくなるのは判る。だからあれからコナンは色々理由をつけて工藤邸へ遊びに行くようにしていた。その度に歓待され、甘やかされ、帰ろうとすると寂しそうな顔をするので困る。完璧だと思っていた大人の男はメルヘンチックな上に寂しがりだった。それがちょっと可愛くて、困る。ついつい苦手な料理も頑張ってしまう。
「貴方って、結構馬鹿よね」
「なんだよ急に?」
「駄目な男のふりした悪い男に騙されるなんて、ホント馬鹿」
「…ドラマの話か?」
「馬鹿っ!」

鬼教官の怒りから逃げるように、今日もコナンは弁当箱を抱えて隣家に不法侵入をする。いい加減痺れを切らした男が、手作りのレモンパイを片手に出入り口に待ち構えているとも知らずに。



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