■ デンファレの如く


安室のまわりを彷徨いていた不審人物は研究熱心なパン屋の店員、と期待外れなような、微笑ましい結末を迎えた。
あんなにあっさりレシピ教えちゃうなんて、安室さんは懐が大きいんだねと子どもは呆れ気味に笑った。

「大したことじゃないからね。それにプロの職人に僕なんかの腕が認められたんだと思ったら嬉しいじゃないか」
たかがサンドイッチの作り方といっても美味しくなるよう安室なりに勉強した成果だ。昔からやり始めたことは何でも極めたくなる性質だった。まさかパン職人に惚れ込まれるとは予想外だが。
「だけどこれからはあのパン屋さんでも美味しいサンドイッチが買えるようになるから、ポアロのお客さんが減っちゃうかもしれないよ?」
カウンターに付いた片腕の上で唇を尖らせるコナンに安室は片眼を閉じてみせた。
「大丈夫だよ。店長には許可を取ったし、そもそもポアロとあのパン屋さんでは客層が求めているものが違う。コナン君の大好きなこの店は地元の皆さんにとても愛されているからね」
ポアロには安室が来る前から心強い常連客が大勢いるのだ。特別お洒落でもなく、時代に流されない店なのに不思議と若い客も多い。勿論その中には毛利探偵や娘の蘭、そしてコナンがいるのだが。
安室の云う通りだと他の子どもたちが笑う中、コナンの表情だけが何処か納得いかぬと物語っていた。



カラン、と軽い鐘の音と共に扉が閉じる。この店に残った客は目の前の小さなお客様ただ一人になった。
「──ねぇ、安室さん。さっきの電話誰からだったの?」
唇を尖らせていた幼い表情が消え失せ、静かな視線が向けられた。
「知人からだよ。仕事の人間じゃない」
「…本当に?」
大きな蒼い眸は年相応に未だ世の中の清濁を知らないという澄み具合なのに、この子どもはそれを裏切る。安室の表情や言葉、仕草から読み取ろうとしているのだろう、真っ直ぐ注がれる探偵の深い眼差しには何処まで隠せているのか分からない。

──まぁ、程々にしておくことね。貴方眼を付けられてるみたいだから。

ベルモットの声を思い出した。
彼女は何故かコナンを気にかけている。気に入っているといってもいい。
一方、組む事が多いとはいえ安室に親切を働く程情を持っているわけでもない。わざわざ安室にもたらした警告は、もしかして近くに居るコナンへの警告だったのではないか。危険に自ら首を突っ込むコナンの身を守らせる為か、はたまた探偵の頭脳を試しているのか。
根拠もなく、何故か一瞬そう思った。

「安室さん?」
呼び掛ける声にはっとすると目前にコナンの顔が迫っていた。思考に嵌まり込んだ安室を不審に思ったのか、カウンターに行儀悪く身を乗り出してこちらを見ていた。その顔は何かを探り当てようというものではなく、ただただ安室の身を按じるものだ。
「こら、駄目だよ。カウンターもテーブルも飲食店の喫茶店では神聖な場所なんだから、登ったりしたら罰が当たるよ」
「わわっ、ご、ごめんなさい…!」
にっこり笑って注意すると慌てて椅子に戻り、今度は行儀良く畏まって座る。
その様子を微笑ましく見ながら、あっさり離れてしまった距離に僅かな寂しさを覚えた。安室の腰にも届かない身長の子どもと顔を近づける機会はなかなか無い。少し勿体なかったと思う。こちらの隠し事を暴くかもしれない恐ろしい探偵の眸だと分かっていながらも、もっと近くで蒼い眸を見てみたい。
(──あの男は何処までこの子に近づいているのだろうか)
うっすらとした繋がりしか見えないが、赤井秀一は確実にコナンの傍に居る。
恐らく信頼の意味合いでは赤井の方がコナンと繋がっているのだ。腹立たしいことに。

「ところで僕も質問したいことがあるんだけど、コナン君は答えてくれるかな?」
「…な、何?」
急に逆転した立場に身構えるコナンに乾いた笑いが喉元まで込み上げてきた。
安室が組織に潜入している公安だと知っている彼だが、安室の立場を信用していても個の人間としての信頼はそれほど高くない。だからコナンは自身の隠し事を打ち明けてはくれないのだ。敵ではないはずなのに普段は決して必要以上に近寄っては来ない。まるで人馴れない猫のように。
それが不甲斐なくて、哀しい。
「そんなに怖がらないで。大したことじゃないからさ」
「…何が訊きたいの?」
「パン職人さんの正体をわざわざ突き止めてくれたのは君の探偵としての血が騒いだから?ああ、君や君の周囲に危険が及ぶ心配だったのかな。…それとも一応僕の身を心配してくれたのかな?」
意地の悪い質問だと承知の上で訊いてみたかった。
安室なら公安の仕事に重きを置き、その為なら手段を選ばない。FBIである赤井秀一もその点は同類だろう。しかしコナンは探偵を名乗ってはいるが仕事ではない。頭が働くが故の好奇心や興味を超えた行動の動機は何なのか。
安室の問いにコナンはぱちりと大きく眼を瞬かせた。思いもよらない質問だったと云いたげな、きょとんとしたあどけない顔だ。
「…そんな質問、意味ないよ」
「どうしてだい?」
「どうしてって云われても…」
指で頬を掻いて困惑した声を上げるコナンを見て小さく苦笑した。
もし安室の身を按じることに重きを置いてくれるならば、何の遠慮もせずにこの細い腕を引き寄せる事が出来たのに。そう思ってから漸く自分の望みに気づいたのだ。

(──僕はこの子を欲しているのか)

同時に直感が働く。その望みは赤井も抱いているに違いない。
赤井を憎んでいるのは過去の忌まわしい恨みもあるが、潜入もこなすプロの捜査官である安室が感情的になってしまう根底には強い同族嫌悪があるのだ。
安室が惹かれた小さな名探偵にあの男も抗えたとは思えない。案外安室よりあっさり落ちている可能性さえある。孤独な人間は眩しい人間に弱い。

「だって、それは安室さんも一緒でしょ。打算もあるけど…僕の事心配して助けてくれたりする…よね?」
若干語尾に自信のなさが現れていた。これが現在の安室と赤井の差だと思うと溜め息をつきたくなった。
「僕はこの国を守るのが仕事なんだよ。君を助ける事に打算だとか心配などとかいう問題じゃない」
「………」
「それにどんなに頭が良くて運動神経が良くても、実際君は守るべき幼い子どもだからね」
「………」
江戸川コナンという愛らしい見た目を裏切る途方もない中身の人間だと気づいた時から、大人の過度な助けは必要無い子どもだとは分かっている。それでもだ。
「…安室さんは理由がなきゃ助けてくれないってこと?」
例えばコナンが外国人だったり、幼い子どもではなかったとしたら。
「そんな例えこそ無意味だよ、コナン君」
「そうかな。…でも、そうだね。それが安室の大切な仕事だもんね」
ちょっと寂しいけど、正しい事だと思う、と子どもに不似合いな微笑を浮かべる。酷いと責めても良かったのに。この年頃ならば、世界が善悪で出来ていると信じていても赦されるものだ。寧ろ大人は子どもにそうであることを望む。
それなのに当たり障りのない優しい言葉を云ってやれないのはコナンを信じているからではなかった。安室の考えを理解してほしいと思う願いと、甘えだ。
「でもね、安室さん。もしも目の前で僕を助けてくれなくて、僕に何かあったりしても怒ったり、恨んだりしないよ。安室さんがする選択が正しいって信用してるから」
そう云って笑う子どもの眸があまりにも綺麗に澄みきっていて、安室は直ぐに返す言葉が出て来なかった。
「コナン君、きみ…」
「じゃあ僕そろそろ帰るね!今日はサンドイッチごちそうさま。僕、出来立てが食べたいからちゃんとお店繁盛させてね」
云い淀んだ安室の声を遮ってコナンが勢い良く椅子から飛び降りた。
「コナン君!」
「──あ、云い忘れた。安室さんは正しいと思うけど、僕は勝手にするから。助けたいと思ったら安室さんも赤井さんも助けるよ。だって僕、公安でもFBIでもないただの子どもだもんね!」
あざといくらいに無邪気な顔で笑って告げられた言葉に、安室は間抜けにもぽかんと口を開けて固まってしまった。
なんても子どもらしい我が儘と傲慢。
「コナン君!」
背を向けたコナンになんとかもう一度呼び掛けるとその足がピタリと立ち止まった。しかしこちらを振り返らない。
「安室さんが思ってる以上に僕、自分勝手で我が儘なんだ。今日みたいに大きなお世話なこと、これからもしちゃうよ、多分。それが厭なら……安室さんもあんまり無茶しないで」
大きなお世話などではなかった。今日も無害とはいえ予想外の結末にコナンに助けられたのだから。
「…勝手なんかじゃないよ、僕も君の事を信用してるんだからね。いつだって信じてる」
振り返ったコナンの顔は店内を射す西日が逆光となってよく見えない。
「ありがとう。あのね、安室さんは知らないみたいだけど、心が広くてすっごく優しい人だってこと、僕は知ってるから」
一度引っ込めた間抜け面を安室に再び曝けさせた子どもは、もう立ち止まることはなく扉ね向こうに消えた。



「……子どもの癖に」
大人をたぶらかすなんて危なっかしい子どもだ。これだから彼の周囲はいつも危険な大人で溢れているのだ。
その筆頭はあの男であり、自分であり、他にも沢山いるのだろう。抜きん出るにはどれくらい難しいのか。そうは思っても。
「…諦めるのはもっと難しそうだ」
誰も居ない店内に溜め息が一つ落ちた。







阿笠邸では子どもたちが宿題を理由にもう帰るように諭され、最初はまだ遊んでいたいと抵抗していたが暫くして良い子の返事をして帰宅した。その後は小さな物音しか聴こえてこないヘッドフォンを外したところで玄関チャイムが鳴り響いた。
「おや、グッドタイミング。…否、あの子にとってはバッドタイミングかな」



今日は前々から夕食を共にする事の約束をしていたのだ。
名目上コナンの保護者は娘の蘭が友人の家に外泊予定が判明した時点で徹夜麻雀の約束を飲み友達と交わしていたからだ。コナンからその情報をリークされた時点で昴もその場で今夜の約束を迫った。最初からYESの返事以外は聞く気はなかったが、コナンは「美味しいカレーを食べさせてくれるなら」と交換条件を出して承諾してくれた。
約束通り昨夜から準備していたカレーは、既にキッチンの鍋の中で出番を待っている。
「…出番はもう暫く後になりそうですけど」
キッチンに向けて呟かれた声は小さかったせいか子どもの耳には微かにしか届かなかったようで首を傾げていた。
「何か云った?昴さん」
「お腹が空き具合はどうかなと思いまして。直ぐに食べられますけど、どうしますか?」
「…えっと、僕まだお腹空いてなくて…」
予想通りの答えに昴は唇の端を上げた。
「そうでしょうね。中途半端な時間に美味しいサンドイッチをご馳走になったようなので。少食傾向のある君ならまだ空腹にならないでしょう」
「何でサンドイッチ…まさかあいつら」
眼を見開いた後に直ぐ様見えない隣家へ視線をやったコナンに笑って頷いた。
「先ほどまで子どもたちが来てました。宿題を理由に来てたみたいですが、主に話題は君の活躍とポアロの安室さんのサンドイッチの美味しさについてで、結局終わらなかったみたいですね。元太君は必ず宿題を家でやる約束をして博士におやつをもらってました。流石の健啖家です」
盗聴器で知った情報を教えるとコナンが呆れた表情で肩を落としていた。
「元太のやつ…」
「私としては多少元太君を見習ってほしいところですよ」
「そんなこと云われても…。ごめんね昴さん、元太みたいに健啖家じゃないからまだ食べられないんだ」
約束をしていた手前、お腹を空かして来なかった事に罪悪感を抱いているらしい。気まずそうに上目遣いで見上げてくる子どもに許しの言葉を与えず、慣れた笑みを浮かべ黙って抱き上げる。そこで昴の不機嫌を感じ取った小さな身体に緊張が走ったようだが、賢い子どもは囲う腕から逃げようとはしなかった。
「良い子だ、ボウヤ」



リビングではなく昴の寝室に連れて来られたコナンの顔色は真っ青だ。
「あの、昴さん、一体どうして…?」
ご飯の事くらいで何故怒るのかと訊きたいのだろう。しかし昴はそれで不機嫌な訳ではない。
「歩美ちゃんたちの話だとボウヤは随分あの公安の彼に感心していたようだな」
まだ小学生の彼らは商売の厳しさを理解してないので単純に安室を優しいと評していたが、この子どもは別だ。ライバル店とも云えるパン屋に調理法を教えた安室の心の広さを褒めていたらしいが、本意は疑わしい。
「やー、だって僕絶対教えないと思ってたから。それに安室さん、ポアロのバイトも形だけじゃなく本気で取り組んでるみたいだから」
忙しいのに凄いなぁ、などと状況を忘れてぽろりと呟いたりするから益々昴の口角が上がるのだ。昴が喉元のチョーカーに付いた機械に手をやった事にも気付いてない迂闊さはどうしてくれよう。
「ボウヤは心の広い人間が好きなんだな」
「そりゃあ狭いより…って、あ、赤井さん!?」
ぎょっと驚くコナンを軽く押し倒して上から多い被さる。
大きな蒼い眸に映った仮初めの顔の凶悪さに、これは犯罪者の顔だなと、他人事のような感想を持った。
「ここで残念なお知らせだ、ボウヤ」
「…聞きたくないなぁ、ボク」
「残念なお知らせ一つ目。俺はあの男程心が広くない」
「FBIの人たちに聞いた噂じゃそうでもなかったような…」
「ボウヤにしては珍しく凡ミスをしたな。その情報は古い。今の俺は自他共に認める狭量な男だ」
実際、理由を知っている訳でもない上司のジェイムズは赤井の変化を感じ取っていた。曰く『変化も喜ばしいが、君がそれを受け入れていることがより喜ばしい』そうだ。

「残念なお知らせ二つ目。ボウヤの好みから外れるみたいたが、俺は一度手に入れたものを手離す事はしない。もう二度とだ。理解したか?」
失う痛みを知った赤井は同じ痛みを繰り返すような愚かな男ではなかった。
柔和な顔立ちに似合うゆったりとした優しい声音で話したが、内容は全く優しくない。
しかし男の傲慢な宣言にコナンは困ったように苦笑して両手を男の首に回してきた。
「僕も我が儘だから、きっと似た者カップルなんだね」
仕方ないよと笑う声諸とも奪うようにいたいけな唇に噛み付いてやる。

キッチンにあるカレーの出番がまだまだ先になるのは確実だった。



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