■ 春を届けて

子どもの髪は見た目以上に細く、柔らかかった。日の下では栗色にも見えたそれは今はしっとり水分を含んで暗い色に落ち着いている。
家族以外の髪を乾かしてやるのは初めてかもしれないと気づき、手の中のタオルに込める力を弛めた時だった。大人しく無言で髪を乾かされていた子どもの口から「くしっ!」と小動物のようなくしゃみが聞こえて手を止める。
「寒いですか?やはりお風呂で温まった方が良いのでは?」
「…んー、平気」
子どもが風呂を拒否するのは遠慮しているというより面倒臭さかららしい。外では素直で聞き分けの良い様子だったが、存外探偵分野を離れると怠惰な面があることを知ったのは最近だ。つまり、それだけ心を許してくれているのだろうと思えて口許が綻ぶ。
「ではドライヤーで乾かしましょう。私が譲歩出来るのはそこまでです」
「…うん、わかった」
それも面倒だと思っているのがありありと読み取れたが、有無を云わせない男の笑顔に子どもは縦に首を振った。

ドライヤーを取りに行った洗面所で手に持ったままだったタオルからの薫りに気づく。
(───これは花の薫り?)
一体の花だったろうか。人工的には作れない自然の植物特有の青臭さを含む甘い薫りを放っていた。



春を届けて



昨日は底冷えのする寒さだったというのに、今日はうって変わって気温が高い。晴れていれば気持ちのよい気候に恵まれた一日だっただろうが、生憎少し前から霧雨が降りだして湿度を上げていた。寒さ暖かさを繰り返して本当の春へと近づいているのだろう。
そんな生憎の天気の中、突然やって来たコナンは傘を持ってなかったのか全身しっとりと濡れていた。霧雨では傘を買う気にもなれないと云って頭を振る姿に昴は苦笑した。
(まるで子猫か仔犬のようだと云ったら機嫌を損ねてしまうだろか)


自分でやると云い張るコナンをまたもや笑顔で黙らせ、昴はドライヤーで髪を乾かしてやった。親切でもなく、ただ自分が楽しむ為に人の世話するなど、同僚たちが知ればさぞ驚くに違いない。かくいう昴自身が新たな趣味の発見に驚いているのだから。
珈琲と隣人から貰ったお茶漬けを持って広間に戻ると、強制的に髪を乾かされて疲れたのか、重厚なソファーにコナンが小さな身体を横たえていた。
「眠いならベッドに運びましょうか?」
「そこまで眠くないよ。…それより昴さん、そこは『運びましょうか?』じゃなくて『ベッドに行きなさい』じゃないの?いや、なんかそれも変な気がする…。親切で云ってくれるなら『毛布持って来ましょうか?』とか。僕、この家の人間じゃないんだけど」
「全くの他所の人間である私より、工藤家の親類である君の方がベッドに寝る資格があると思いますよ。ああ、それと『運ぶ』のは私がそうしたいだけです。眠くなったら遠慮なく云って下さいね」
両手を軽く差し出してそう云うと、慌ててコナンが身体を起こす。頬を紅潮させて恥ずかしそうに睨んでも可愛いばかりだというのに。こんな様を見せてくれるからお節介と思われても世話をしてしまうのだ。
子どもという生き物がこれ程可愛らしいものだと昴に教えたのはコナンだ。お陰で他の子どもたちに接する事が多い今の生活でも苦痛がない。最も、これ程手を掛けてやりたいと思うのはコナンだけなのだが、理由を訊ねられても上手く答える自信がない。そうしたいから、としか云えないのだ。
幸い、今のところ誰にも訊かれることはなく、手を掛けられている本人は他の子どもたちとの差に気づいてない。気づいても精々秘密を共有する人間だからと考えているのかもしれなかった。


「そう云えば私に何か用があって訪ねて来たのでは?それとも読みたい本でもありましたか?」
昴が工藤邸に居候するようになって暫く経ったが、数える程しかコナンは一人で訪ねて来ない。たまに訪れる理由は前途の通りだ。しかし今日は前以て連絡もなく、突然の訪問だった。昴はいくらでも歓迎するのだが、用向きが無くコナンが来る事はなかった。
「別に特に話しも読みたい本もないんだけど…雨宿りかな?」
「おや、珍しい。お隣ではなく家を雨宿りに選んでくれたわけですね」
隣家に住む家族同然の付き合いがあるらしい博士よりも昴を選んでくれたというなら、何となくでも嬉しいものだ。小さな身体の隣に腰を下ろし、身長差故に上からコナンの顔を覗き込めばばつが悪そうに反らされてしまう。
「た、たまたまだよ。通りかかって博士の家より先にこの家があったから」
「ええ、たまたまでしょう。それでも嬉しいです」
昴がコナンの言葉を否定することなく肯定すると、僅か安堵したような、それでいて少し寂しそうな表情を浮かべるのだから堪らない。血を分けた家族でもなく、思想を共にする仲間でもなく、友人と呼ぶには年が離れ過ぎていて、慈愛だけを捧げていたかつての恋人たちとも違う。この子どもに対する感情は何と呼べば良いのだろうか。

「今日は生憎の天気になりましたが、明日は晴れると予報で云ってましたよ。この辺りの桜が咲くのもそう遠いことではないでしょう」
「え、うん、そうだね。…南の方はもう咲いてるみたいだし」
昴の話題転換に戸惑いながらもコナンが頷く。
「知ってますか、コナン君?桜はまだですがご近所に立派な沈丁花の庭木があるお家があるんですよ」
「沈丁花?…あ、あの家か。そう云えば今年ももう咲いてたっ…け…」
思い出した様子のコナンの途中で表情が固まった。それに素知らぬ振りをしながら昴が話しを続ける。
「道路側じゃなく建物の側に植えてらしてるので私は近くで花を見たことがないのですが。時々近所の子どもたちが近道として庭を通り抜けて行くようですね。お家の方は皆見知っている子どもたちだから見逃してあげてるようです。子どもは多少わんぱくで外を駆け回っている方がいいと。ご自分の家の庭が秘密の通り道になって嬉しいとご主人は仰っていました」
寛容な好好爺は当たり前のようにコナンと小さな友人たちのことを知っていた。コナンによく似た子どもが成長して今は平成の名探偵と呼ばれていることも。最近姿を見ないので少し心配だと溢していたので、勝手ながら外国で元気にしていると嘘八百を伝えると安堵していた。

「…昴さん、ご近所付き合いちゃんとしてるんだね」
引き吊った口元を隠すようにカップに口をつけるコナンに昴は微笑を向ける。
「勿論。この家は工藤君から預かっている大切なお家ですから、ご近所の方たちに怪しい人間が住んでると思われては困りますからね」
「そ、そう」
狼狽えているのは工藤新一の名前を出したからではなく、沈丁花の庭がある家が何処か分かったからだろう。彼にとって余りにも身近で注意が疎かになったのかもしれない。それに人間は自分の匂いを意識するのは難しい生き物だ。
「ドライヤーを取りに行くときにふと玄関を見たら月桂樹によく似た葉っぱが落ちてたんです」
「…へえ」
「その後タオルから花の薫りに気づきまして、あれが月桂樹じゃなくて沈丁花の葉なのだと分かったんです」
ポケットの中から取り出した葉っぱをそっとテーブルに置いた所でコナンが撃沈した。数秒身体を屈め、勢いよく起き上がって昴を睨む顔は耳まで真っ赤になっていた。







「もう!酷いよ昴さん!そんな犯人を追い詰めるような回りくどい云い方しないではっきり云ってよ!」
コナンが近道に使った沈丁花のある庭は博士の家の斜め後ろにあるのだ。雨宿りに通りかかるなら博士の家の方が近い。たまたま工藤邸の方が近かったという云い訳が嘘だとばれてしまった子どもは、紅い頬のまま八つ当たりのようにクッキーを噛み砕いている。実際、八つ当たりだろう。
「犯人だなんてまさか。春の薫りを届けてくれた君に感謝してるんですよ。沈丁花の庭木があるのは知ってましたが花が咲いているのは知りませんでした。コナン君はそれを教えてくれたんでしょう?」
「そんなんじゃないから!」
クスクス笑う昴に異議を訴えるように小さな身体が寄りかかってきた。力を込めているらしいが子どもの体重ではたかが知れている。笑いながらその身体を両手で掬い上げて膝に乗せると、抵抗することもなく力を抜いて昴の胸元に顔を寄せてきた。
「コナン君?」
時々、昴の前で見せるこの子どもの無防備さに驚かされる。外での警戒心の強さを知っているだけに。
コナンの鼻先が昴の胸元から首へ、ついには口元へ寄せられて今度は昴の方が固まる。「どうしました?」と声をかけることも出来ずに黙っていると、やがて「やっぱり」と呟いてコナンが顔を上げた。その顔は犯人を見つけた時のように、迷いのない眼差しをしていた。

「やっぱり昴さんだ」
「…何がやっぱりなんですか?」
いつの間にか逆転していたらしい犯人探しに苦笑して、膝の上で眼を輝かせている子どもに訊ねる。
「午前中は天気が良かったからちょっと散歩してたんだ」
いつも友人や大人たちに囲まれているコナンが一人で散歩とは珍しい。確かに午前中は外に誘われるくらいに良い天気だった。
「それでね」
「それで?」
本当の子どものように無邪気な笑顔で話すコナンに続きを促す。
「風に乗って来た匂いだったから誰かは分からなかったんだけど、知ってる匂いだったんだ」
「匂い、ですか?」
「最近吸ってるとこ見てないから少し自信なかったんだけど。やっぱり貴方と同じ匂いだった」
名前ではなく貴方と呼んだ子どもが本当は誰を呼びたかったのか簡単に分かる。死んだとされている男はコナンの前でもよく吸っていた。
薄い偽物の皮膚の下にある顔を見透かしているのか、大きな蒼い眸を細めて昴を見上げている。
「…弱りましたね。そんなに覚えやすい匂いでしたか。あの煙草、日本だとマイナーなんですよね」
敵に嗅ぎ付けられては困る。
「平気だよ。今日だって僕と擦れ違った人は吸ってるんだし。たまたま僕の中では貴方の匂いとして記憶してるだけだよ」
さらりと告げられた言葉にどれだけ動揺したことか。今ほどこの薄い人工皮膚に感謝したことはない。

(──まるで愛の告白のようだ)

風に乗って来た匂いだけで男を思い出して、秘密の近道を通ってまで急いで会いに来たのだと云ってるも同然なのだが。コナンの無邪気な笑顔にそんな甘い感情が含まれているとは思えない。
探偵としての本能と好奇心からの行動だと分かっていても昴の胸の中には何が根付いた。否、以前から根付いていたのだろう。知らない間に風に翔ばされて来た何かの存在に今気が付いただけだ。


「昴さん、プルースト効果って知っているでしょう?」
幼い声に合わない知識の単語に存在を訴える何かからの意識を反らす事が出来た。
「ええ、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』から名付けられた記憶の状態依存性ですね。嗅覚や味覚から記憶を甦らせるという」
小説では紅茶に浸したマドレーヌの匂いで記憶が甦ったのだったか。
「そう。だから、多分僕はこれから先ずっとこの匂いで貴方を思い出すんだよ。どんな未来になったとしても、ずっとね」
男の事を忘れることはないと云うコナンはどんな未来を想像しているのか。敵対する黒の組織を殲滅したとして、元の身体を取り戻した未来か。それとも願いが叶わなかった未来か。
何れにせよ、側に昴は居ないのだろう。立場も国籍も違うのだからそう考えるのは当たり前だ。
目の前の昴にではなく、此所に居ない男に語りかけるように話す子どもの身体を腕に囲って抱き締める。
「昴さん?」
「ねぇ、コナン君」
ついさっき見ない振りをした昴の中に根付いた何かに、ひっそり向き合う覚悟を決めて子どもの耳許に囁く。乾いた髪から未だ残る沈丁花の薫りに眼を伏せて。
「私は沈丁花の薫りで君を思い出すよりも、君の匂いで春に気付きたいです。この先ずっと、ね」
遠くに居て思い出してもらうより、側に居て雨や土の匂いと一緒に花の薫りを届けて欲しい。

幼い子どもが願うような望みを吐き出した男に、眼を見開いたコナンは次第に秘密がバレた時より顔を染め上げて、言葉を紡ごうと唇を動かしては失敗し、やがて諦めて昴の胸に顔を埋めて小さく頷いた。


まさか頷いてくれるとは思ってもみなかった昴は暫し呆然とし、慌てて顔を見せてくれるようたのんだが恥ずかしがりの子どもは意地でも顔を上げてはくれなかった。
仕方なく、苦笑しながら初めての口づけを花の薫り漂う髪に落とす。


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