■ 月を飲みほす方法

手を取られて連れ出されたのは自宅の庭。月明かりに照らされて荒れた庭木が幻想的な影を作り出していた。
男は何故かもう必要ない偽りの姿をしている。理由を訊ねたコナンに「この家に居候していたのは赤井秀一ではなく、沖矢昴ですから最後くらいは」と返ってきた答えを聞いて、男が帰国するのだと気づいた。
目的が叶えられたのだから当たり前の事なのに、その当たり前の事を考えていなかった。驚きのあまり声もなく固まるコナンの頭に、大きな掌が乗せられる。
「こんな日が来たら、本当は君を拐ってしまおうと思ってたんですが。君はまだ迷っているようだし、お互いやらなくてはいけない事もあるでしょうから、今は諦めることにします」
FBIの勧誘の事だろうか。拐うだなんて言葉が悪すぎる。工藤新一の姿を取り戻してないのは確かだけれど、迷ってるとは何の事か分からなかった。
「君の心が整ったら、今度こそ迎えに来ますね。呼んで下されば飛んでいきますから。ああ、その時は本名でお願いします」
「…FBIになんて入らないよ、僕。呼ばなかったら、もう会えないってこと?」
それは厭だと強く思ったが、やはり声にならなかった。

どんなに辛い場面でも流すことの無かった泪が眼球を濡らしていた。零れ落ちる事だけは耐えなければ。
俯いて目頭に力を込める子どもを、長い腕が慣れた様子で抱え上げる。
「泣くほど悲しんでくれるなら餞別をいただけますか?」
今知ったばかりなのに、そんなもの用意してる筈がない。泣いているのをからかわれたのかと、むっとした顔を持ち上げてしまった。
あ、と思った瞬間に柔和な笑みが近寄って離れる。
(…目玉舐められた?)
「確かに、頂きました」
「……咽渇いてるの?」
勿論、そんなわけがないと分かっていたが泪が餞別になるとは思えなかった。
男は僅かに苦笑し、未だに体温を感じる程傍にいるコナンの頭を抱き寄せて囁いた。
「…ほら、これでよく見える。今夜はとても月が綺麗ですよ」
男の頭上にまんまるな月が上っている。だとしたら男が覗き込んでいるコナンの眸には、同じようにまるい月が写っているのだろう。



月を飲みほす方法



「人の家に来て不景気な面晒すの止めてくれないかしら?折角のお母様譲りの美貌が台無しになってるわよ」
より仏頂面な顔で睨む幼い少女に見下ろされて、だらしなくソファーに横たわっていた人物が身体を起こす。
「…俺がどういう顔しようが景気に関係ねぇし、美貌なんか持ってねぇから」
「世の中の容姿に悩む人たちが聞いたら憎らしい台詞ね」
阿笠邸のリビングで自宅の如く寛ぐ見目麗しい青年の姿は、最近すっかりお馴染みになってしまった。家主の阿笠博士にとって、赤子の頃から可愛がっている隣人の青年は家族同然。灰原もそれに異存はないが、この頃は殆ど阿笠邸で過ごしているように思える。独り暮らしに慣れていたらしいのに広い屋敷が寂しいのか。
「花の大学生活は楽しくないの?相変わらず事件に首突っ込んでるみたいだけど、他は引きこもりみたいじゃない」
念願の工藤新一の姿を取り戻し、都内の国立大学に通っているというのにちっとも楽しそうではない。メディアへの露出を止めても、新一は元々人目を惹き付ける人間なのだ。しかし彼は西の探偵や、怪盗顔負けのマジシャンぐらいしか傍に寄せ付けない。
元の名前を捨てて生きる事を決めた灰原と、小さな友人たちが遊んでいる様を遠目から眺めている姿はある男を連想させる。今はもう、この国には居ない男。
(…いえ、沖矢昴はこの世の何処にも居ないのだったわね)
だけど男は存在する。名前と顔を本来の物に戻しただけ。

コナンの時は毎週のようにキャンプだ海だ山だと遊びに行っていた新一だが、流石に今はそこまで子どもたちと馴染めない。今日も阿笠博士と子どもたちは一緒に出かけ、灰原と新一は留守番だ。正確には灰原は新一の話し相手役として、だ。
「休みなら友達と出かけたりしたら?蘭さんと遊びにでも行けばいいじゃない」
「蘭なら今日はデートだってさ」
「…あら、そう」
身体は取り戻しても、新一と幼馴染みの少女が恋人同士になることはなかった。灰原は詳しい事情を知らないが、二人は今も仲の良い友人のままだ。いつか思った通り、新一の恋心は形になる前に親愛の情へと変化していったらしい。振られたにしては落ち込んだ様子がなかったから、自然とそうなったのだろうと思ったのだ。
「……あなたも恋人を作ったら?相手は居るんでしょう?」
「誰のことだよ?」
全く心当たりがなさそうな顔で首を傾げる新一に溜め息を吐きたくなる。相変わらず鈍い男だ。
「携帯を手放さないくらいメールをする相手が居るみたいじゃない?」
新一の細い指に包まれた最新のスマートフォン。人恋しさからか阿笠邸にやって来る新一は、何をするでもなくソファーに寝っ転がってスマホ画面を弄っているのだ。
「あのな、相手は赤井さんだから。あの人忙しい筈なのにまめにメールくれるんだよ」
「知ってるわよ。だからあの人と付き合ったらって云ってるの」
「………は?」
新一の掌から、スマートフォンが滑り落ちた。スマホは兎も角、当たったテーブルに傷がついたのではないかと灰原は眉をしかめる。新一はそれにも気づかず、空っぽの掌を掲げたまま呆然としていた。
今度こそ溜め息を吐いた灰原は、地下のラボに足を向けた。このどうしょうもない探偵の為に治療薬を出してやる必要があるからだ。元の姿に戻っても主治医として面倒を診てやらなければいけないらしい。
(このままじゃ引きこもり探偵と呼ばれかねないものね。私の願いを叶える為にはいい加減黙ってられないわよ)
あの男は何を考えているのか、帰国してから一度も日本に来ていない。それでも男の本気を知っている灰原は心変わりしたとは思えないのだ。手助けするのは本意ではないが、自分の願いを叶えるには仕方がない。
灰原の願い、それはすなわち工藤新一の幸せである。







「……来ちまった」
FBI連邦捜査局本部があるアメリカ、ワシントンDC。パスポートとスマホ、そして財布と僅かな着替えだけ持って勢いで来てしまった新一は空港内のカフェで立ち止まっていた。何しろ来たは良いが、こちらに居る両親にも、会いに来た相手にも連絡をいれていない。
会いたい相手は多忙だ。突然来ても無駄足になる可能性がある。
「どうしよう…」

灰原に手渡された一冊のファイル。表紙には『C.E観察記録』とあった。C.Eとは江戸川コナンのことだ。観察記録とは何だ?朝顔か俺は?と機嫌を悪くした新一に、いいから読めと押し付けられた。
自宅に帰って渋々ファイルを開いて読む。最初は主にコナンの精神状態を客観的に見た様子が書かれていた。ようは主治医兼、科学者としての薬の影響が身体以外に心にどう出ているかの観察記録だ。しかし途中から目を疑いたくなる内容になっていった。
コナンの発言や様子を細かく記録しているらしいそれらに目を通して、新一は何度もこれは自分の事ではないと否定したくなった。
(──何だよこれ!?何処かの女子中学生の恋愛日記じゃないのか!?)
コナンの発言はまるで恋に狼狽える乙女の様な有り様。その時どんな表情、仕草での発言かも逐一記録されている。目を反らしたくなるそれは全て、ある男に向けられたものだった。──沖矢昴、否、赤井秀一に向けたコナンの心情の変化を、客観的かつ赤裸々に綴られた文面。
顔を羞恥に染め、叫び声を堪えて悶絶し、拷問のような記録を読み終えるのに一晩。ぐるぐると混乱する頭を抱えて数日。気がつけばアメリカ行きの飛行機のチケットを予約していた。

「俺って鈍かったんだな…」
第三者にはあれだけあからさまに心情を吐露しておきながら、自分では全く気がついていなかった。探偵とは思えない鈍さだ。
珈琲の入った紙コップを手にしながら思い出して項垂れる。
(…赤井さんも、当然気づいてたよな)
それなのに何も云わずに帰国してしまったということは、無言の拒否だったのではないだろうか。衝動的に外国までやって来て、今更そこに思い至る。
(当たって砕ける為に何十万も払ったのか、俺は…)
工藤新一に戻れたのに、胸の奥が燻って新しい大学生活も楽しむ気になれなかった。勉強や探偵活動を好きにやれているのに、いつも満たされない。子どもたちの元気な声を聞いたり、たまに外国から届くメールに目を通したりすることが数少ない新一のトランキライザーだった。
赤井から二、三日に一度送られてくるメールの内容は簡潔なものだ。元気にしているのか、本ばかり読んで寝てないのではないか、ちゃんと食事をとっているのか。新一の事を訊ねるばかりで赤井の情報は殆どない。稀に新一の顔が見たいと云ってくれるぐらいで、日本に来るともアメリカに来いともない。仕事が仕事だからしょうがないとは思いつつ、たまには電話してくれたらいいのにと考えていた。新一からは電話をかけにくい。
(こっちからかけたらFBIに入るってことにされそうで怖い………って、あれ?)
本当にそうだっただろうか。
昴との別れの夜、突然の事にショックを受けてろくに回らない頭で大事な事をスルーしてしまった気がする。あの時男は何と云ってたのか。
(…俺を拐いたかったとか、…俺の心が整ったらとか、後は目玉舐められて…)

「まさか…」
そんな筈がない。いやいや、でもこれは。
(──FBIの勧誘だと思ってたのは俺だけ!?)

番号だけはずっと登録されているスマートフォンを取り出す。かけたくてもかけられなかった番号を震える指でタップした。
『──Hello?…ボウヤなのか?』
「──今すぐ迎えに来いこの唐変木の幼児性愛者の明治野郎がっ!!!」
懐かしい声に捕われてしまう前に云いたい事を一気に怒鳴りつけた。少々乱暴な言葉使いだがここはアメリカ、周囲に内容を知られることはないだろうと高を括って電源を落とす。あの男なら直ぐに新一がアメリカからかけている事を突き止めるだろう。
(…出来れば今日中に迎えに来てほしいけど、無理そうならホテルかな?)
残っていた珈琲を飲み干して席を立ったその時だった。
「──否定出来ないが、公共の場所で俺を幼児性愛者呼ばわりするのは勘弁してくれないか、ボウヤ」
「心配しなくても被害届なんて出しませんよ。被害者の子どもはもう存在しませんから」
背後に立っていた男は相変わらずの目付きの鋭さ。見る人間によっては裏社会の人物と判断するのではないか。
「…泪を舐めるくらい…いや、ここではマズイな」
幼児虐待には日本以上に厳しい国なのだ。
男は肩を竦め、これ以上責めないでくれと意思を示した。よくよく見ると少し呼吸が荒い。空港内を走り回って来たのか。
「…どうしてここに?いくらなんでも早すぎるでしょう?」
電話して何分も経っていない。
「ボウヤの主治医から連絡が来たのさ。玄関の鍵どころかドアが開きっぱなしになっていて、泥棒かと焦って中に入ったら、パソコンがつけっぱなしで飛行機の予約サイトが開かれてたってな」
「あ………」
そういえば随分衝動的に家を出てきたのだった。鍵をかけた覚えもない。
「いくら日本でも泥棒はいるんだから鍵はかけた方が良い、ボウヤ」
「………はい」
帰ったら灰原の雷が落ちるだろう。しかも新一ではなく赤井に連絡するとは、全てを見通されてるようで益々帰るのが怖い。
「…赤井さん、暫く泊めてもらえませんか?あいつの怒りが冷めるまで…」
「…代わりに俺が恨まれそうだな。ボウヤに十分な見返りを求めていいなら構わないが?」
男は方眉を上げ、新一の手首を取って笑う。やはり犯罪者顔だ。穏やかな笑みの昴とは全く別人。だけどこの男が好きなのだからしょうがない。
「…良いですよ。だけど優しくなきゃ厭です」
「善処しよう」





「それで?結局どうなったのよ?」
帰国した新一を待ち受けていたのは恐ろしく冷たい空気を背負った灰原だ。すっかり春爛漫になってしまった新一を一瞬で目覚めさせた。
「いや、説明するほどのことじゃ…」
「あなたにそんな事云える権利があると思っているの?」
新一に戻ってから腑抜けたまま過ごし、最後に後押ししてもらった上、鍵のかかっていない家の留守迄預かってもらって関係ないと突き放せる訳がない。新一に落ち度が有りすぎる。
お詫びのお土産で怒りをおさめることは出来ず、灰原が満足するまで説明するはめになったのだ。

「だってあの人が拐っていきたいって云うのはFBIの勧誘だと思ってたんだよ!」
「………」
「今思えば『心が整ったら』って、俺の気持ちが自覚したらって分かるけど、全然自覚してない時に云われても分かんねぇよ」
「………」
「それに明治の文豪の云い回し使われたって、俺の中じゃあの人アメリカ人だからそんな意味だと思うわけないだろ?」
「………」
自分の恋愛事情を暴露するという恥ずかしさがあるせいか、いつもの論理性が全くないが大体の事は灰原にも理解出来た。理解したくなかったが。
何も行動していないと思っていた男はとうの昔に告白していたらしい。ただ、男の帰国にショックを受けていた子どもには伝わっていなかっただけで。幼馴染みの少女に別人の恋人が出来たことは灰原からそれとなく伝えていたが。それにしても大人しく返事を待ちすぎだろう。一途なのか、健気なのか、案外馬鹿なのか。
そう云うと新一は複雑そうな顔で赤井を庇った。
「組織の過去の把握しきれてない犯罪を洗ったり、裏付け捜査が沢山有りすぎてどうしても時間が取れなかったんだってさ。ジョディ先生も組織を追ってた時より忙しいって死にそうな顔でぶちギレてた…。だけどお陰でもうすぐ纏まった休暇が取れそうだって」
長年、世界を又にかける犯罪組織を摘発したのだ。確かに忙しいだろう。まめにメール連絡をしていたことだけは評価してやらなければいけないようだ。
帰って来てから、新一は灰原の怒りに怯えながらも表情は活き活きとしている。時折、美貌にみあった美しい笑みを浮かべて楽しそうにアメリカでの出来事を話している。引きこもり探偵はもう返上だろう。
「…まぁ、努力賞はあげてもいいわね」
どうしようもなく鈍くて、すっかり腑抜けていた名探偵に幸せな笑みをもたらした事にたいして。



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