■ はるの薫りは




はるの薫りは



椚ヶ丘中学に殺害すべきターゲットが赴任するという、予想だにしない異常事態に追従すべく防衛省から派遣された烏間以下数名の仲間。いかに特別な訓練を受けた身といえど、月を三日月に爆破してしまう化け物相手に出来ることなどたかが知れている。日本政府、および世界のトップにいる人間たちも成す術がないのは判るが、これで本当に一年の間に奴を暗殺できるのだろうか。
君たちにこの化け物を暗殺して欲しい、などと戯言のような無茶だと思いながら烏間は言葉を砕いて真剣に告げた。



全く子供というのは柔軟だ。
木に縄でぶら下がったにやにや笑う触手生物に、武器を片手に必死に襲い掛かる生徒たち。生徒たちの懸命な姿を余裕の面持ちで見守る。言葉にすれば何とはなく微笑ましい場面なのかもしれない、…武器は余計だが。

異常な場面のはずだが立て続けに目にしていると脳が麻痺してくるのかもしれない。大人の烏間ですらそうなのだから、頭の柔らかい子供たちは驚きや畏怖をしめしながらも触手生物に「殺せんせい」とあだ名までつけて、目の前の現実を受け入れているのだから逞しい。
このクラスの生徒たちは進学校の落ち零れを集めた子達、という話だったが烏間には心も身体も未熟な、いくらでも可能性のある普通の子供たちにしか見えない。しかしそれも一年後地球が存在できたなら、そんな前提がもどかしく立ちはだかってくる。

放課後の誰もいない教室で今日の出来事を振り返り、烏間は深く溜息を吐いた。
E組の生徒たちとは違い、月爆破直後から触手生物を抹殺すべく追っている烏間の頭痛は既に持病と化している。痛む眉間に手をやりながらもう片方の手で生徒名簿を捲った。
この学校に来ることが決まったときに直ぐに生徒たちのことは一通り調査した。無論、ただの中学生に暗殺に期待できるような特出した技能はない。顔と名前を頭に叩き込み、あとは成長期らしく個人差のある身体データを斜め読みしただけだ。明日から体育教師として赴任することになり、もう一度確認しておこうと席に座った姿を思い出しながら教室を見回す。

ガタン、──立て付けの悪い扉は静かな教室に音を響かせる。
「す、すみません…人が居ると思わなくて。お仕事中でしたか?」
緊張した声音で恐々顔を覗かせたのはE組の生徒の一人。
「君は、…渚君だったか」
「あ、はい、そうです。このクラスの潮田渚です」
何故かぺこりと頭を下げて焦って自己紹介する渚に、威圧してしまったかと後悔すると同時にもう一つのミスに気付いた。
「すまない。潮田君だったな」
クラスの友人たちどころか担任のあいつも名前で呼んでいたのが耳に入っていたので、つい声にしてしまったのだ。何のために名簿を再確認していたのか。明日からとは云わず今からでも気持ちの切り替えをしておかねば、と眉を寄せる。
「あの、渚でいいですよ。みんなも、殺せんせーもそう呼んでるし」
「しかしこれはケジメだ」
中学生相手に拘る必要などないと判っているが、仮にも防衛省という上下関係、規律ともに厳しい組織に身をおいている人間として簡単に拭えない習性だ。
硬い返事しか返せない烏間に少年は、はい、と少し困った顔で見上げた。二十センチ以上の身長差のせいで数歩分の至近距離では渚がかなり無理してこちらを見上げる形になる。個人差があるとはいえ随分小さいと思いながら、痛そうに見える首にそっと手をやると「ぴぎゃっ」と可笑しな悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
「…すまない、驚かせるつもりはなかったんだ。首が辛そうだと思って、つい」
「いえ、そういう意味で驚いたんじゃなくて、烏間さん冷たいです。手が」
「……すまな、いや申し訳ない」
予想外の応えに何度目かの謝罪を口にしながら、未だしゃがんでいる渚に右手を差し出しかけて、ふと動きが止まる。今しがた冷たいと云われたばかりの手を差し出すのは正解だろうか。
半端な位置に置かれた手をぽかんとした顔で見つめた少年は、一瞬の間を置いて烏間の右手を両手でぎゅっと掴んだ。そしてそのまま力を入れて立ち上がる。
「あの、ありがとうございます。手を貸して…くれたんですよね?」
「あぁ」
僅かに困ったように、しかし笑顔を浮かべる少年に烏間は苦笑した。気を使わせてしまったようだ。烏間の手が冷たいと云った少年の手は、包み込めるくらい小さいのに、優しい暖かくて。離れる瞬間に寂しい、と幼い子供のような思いが過ぎった。

忘れ物でもしたのかと尋ねると、帰ろうとしてたが外から窓が開いているのが見えて、日直の人が閉め忘れたのかと戻って来たのだという。部活動を禁じられているE組の生徒たちの帰宅は早い。HR終了と共にいなくなる頃を狙って教室を覗いたのだ。
「烏間さんはどうして教室に?」
「明日から体育教師として赴任するから君たちの顔と名前を確認してたんだ」
「誰も残ってないのに?」
「一通りはこの数日で憶えている。後は教室に座っている姿を思い出して再確認していた。一分野とはいえ君たちにものを教える以上最善を尽くすつもりだ」
事前の確認行動もまた仕事で刷り込まれたことだった。
「…烏間さんって、防衛省の人なんだね」
知っていることを改めて知ったような声で渚が烏間を見上げる。当たり前だが、国の、地球の危機でもなければ出会うことのない縁の二人だ。そしてこの場に居ないクラスメイトたちも。烏間もかつてはただの中学生だったが、渚から見ればすれ違うことすら想像してない遠い世界の人間だろう。彼らにとってはある意味、あの触手生物よりも他人かもしれない。
ついさっき、感じていた手の温度が急に冷えていくような気がした。

「あ、じゃあこれからは先生なんだ。殺せんせーの体育の授業は話にならないくらい無茶だけど、烏間さんの授業もちょっと怖いなぁ」
窓辺に立った渚が顔だけ振り返って笑った。白く、まろい頬が西日に照らされて幼げな表情が浮かび上がる。
「運動は苦手か?」
「…得意とは云えないです」
「そうか。だが暗殺術と運動神経は必ずしも直結しない。一人ひとりの能力を短期間で伸ばせるよう出来る限りのことをするつもりだ」
「えっ、体育ってそういう内容なの?」
素直に驚く渚に態と口角を上げて笑って見せると、益々困惑した表情を見せて烏間の苦笑を誘った。

窓は自分が閉めておくから、暗くならないうちに帰りなさいと告げる。こくりと頷いた渚は小走りに戸口へ行き、立ち止まったかと思うと勢いよく振り返った。
「あの、政府のこととかはよく判らないですけど…烏間さんは先生もぴったりだと思います。目的はあれだけど僕たちのことよく考えてくれてるし、ほら、手が冷たい人は心が暖かいって昔か云うし…殺せんせーも烏間さんも、今までの先生より先生っぽいっていうか」
殺せんせーは手厚すぎるくらいに先生だし、と頬が西日とは別の理由で薄く染めて呟く。
「潮田君、先程のことなら気にする必要は」
「それじゃなくって、えーっと…あれです。先生なんだからやっぱり名前で呼んでもいいと思います。殺せんせーみたいに」
じゃあ帰ります、さよなら烏間先生。口早に云うだけ云ってさっさと走り去っていった。

遠く離れていく足音を聞きながら烏間は渚の言葉の意味を考える。
思春期ゆえに人に面と向かって褒めたり、慰めたりするのは照れを感じるのだろうが。あんなに頬を染めた可愛らしい表情で名前を呼んでなどと云われたりしたら。
「…まるで告白みたいじゃないか」
ありもしない妄想をしてしまった自分を笑う烏間を、暖かな春の風が撫でた。
そうだ、今は春だったな。忙殺されるスケジュールに記号でしか認識してなかったことを思い出す。
春の風は渚の小さな手と同じくらい、優しい暖かさだ。いつの間にか頭痛も治まっている。

希望すら持てない地球の危機が迫っている時でも、悪いことばかりじゃないらしいと小さく笑った。




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