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※背後注意

 この関係を言葉に表すとするなら“無”というそれが一番しっくりくるだろう。
 何も生み出さず、何も生まれない。何物にも変わらず、何物にもならない。この冷えすぎた関係は正に生産性の無いものと言えた。
 わたしと兵長は欲を満たすために体を重ねていた。その中に健全や綺麗さといったものは全く存在しない。好き合っているとか、恋人だとか、そんな甘ったるい関係などではないのだ。文字通りの行為を繰り返しているだけで。関係性を問われても上司と部下としか答えようになかったし、これらを明確な言葉で表すことはできないように思えた。
 わたしたちは欲を吐き出し、生きていることを実感し、自己満足に過ぎないそれを執拗に繰り返しているのだ。
 互いに高め合い、渇きを潤し、欲を貪り尽くす。
 生きている人間に必ず備わっている性欲。それを発散するために行う男女間の交わり。
 性欲に乏しいわたしには不必要な行為としか言えなかったが、それでも交わっているときは余計なことは忘れることができた。嫌な思考を捨て去るときには一番の行為と言えるだろう。
 二十代も半ばになれば、一度や二度の経験は珍しいものではなかった。未経験者もそれなりにいたけれど、やはり処女である者は少なかった。もし処女が居たとしてもほんの一握りだろう。
 当然だが、わたしも兵長以外の男性と交わったことは幾度もある。今更取り繕うつもりはないし、そんなことをしても意味はないだろう。けれども、人肌が気持ちいいと思ったのは兵長が初めてだった。あのぬくもりだけは他の誰とも違う特別なものを宿していたように感じた。
 わたしと兵長が関係をもつきっかけとなったのがエルヴィン団長の補佐官になって直ぐの頃。兵長に誘われて寝台にもつれ込んだのが主な流れだろう。酒に酔っていたことも合わさっての情交だった。
 そのときのわたしは酷く冷静だった。こういったことは珍しくもなかったため、きっと場の空気と酒の力でどうにかなってしまったのだと思うことにした。一時の気の迷いだろうと思おうとした。
 けれど、いつからか兵長と情欲を重ねることが当たり前となっており、「今夜お前の部屋に行く」「夜半過ぎにこっちに来い」という合図でその日その日を彼の言われるがままに従っている。それを日常と呼べなくもなかったが、そう呼ぶにはあまりにも殺伐としていた。そこにはなんの感情もないのだから仕方のないことだ。機械的な行為とも言われても反論はできないだろう。だが、それを苦とは思っていないし、義務だとも思っていない。
 だったら何故従うのかと言われれば、興味があるからの一言に尽きるだろう。
 どうして兵長がわたしを性欲処理に使うのかは分からないし、分かろうと思っても分かるものでもないのだけれど、兵長はわたしのあやふやで曖昧な心情を読み取って誘っているのではないかと最近になって思うようになった。
 わたしは基本的に自分に害がなければどうでもいいと思う人間だ。兵長との性交は気持ちがいいから付き合っているだけで。ただそれだけの希薄な関係だ。それ以上のものは決して抱いてはいないし、今後も抱きはしないだろう。だからこそこんな関係を続けていられるのかもしれない。
 でも、ひとつだけ遠慮したいことがある。それは壁外調査のあとの性交だ。
 彼は巨人との戦闘後は血が騒ぐらしく、手酷い抱き方をするのだ。執拗に責め立てられ、しつこいまでに貪られる。次の日は足腰が立たないほどまでに疲弊することは珍しいことではなく、掴まれた箇所が赤黒くなっていたり、痣になっていたりすることも多々あった。
 そんなわたしを見て、兵長はいつもすまなそうな顔をするのだ。「悪かった」「手加減できなかった」そう言って労ってくれる。手当てもしてくれる。痛いくらいに優しい手つきで後悔を露わにしながら手当てをしてくれるのだ。
 けれど、全く嬉しいとは思わなかった。むしろ苦しかった。
 そんな顔をするくらいなら最初から抱かなければいいと思ったし、謝ってほしいわけでもなかった。いつも憮然としている兵長でいてほしかったのだ。
 割り切った関係であると理解しているけれど、謝られることで惨めな気持ちになるのが嫌だった。
 だが、そう思っていた矢先にすべてが一変した。一定の間を置かずに呼び出されていたそれがピタリと収まり、数ヶ月ぶりに行われた壁外調査を終えて帰還したあとも兵長はわたしを呼び出さなかった。連日に渡る会議や報告会で忙しいのかと思っていたがそういうわけではなく、どうやらわたしとの関係に終止符を打つためのことだったようだ。つまりわたしは用済みということだろう。
 ホッとしたような、気が抜けたような、けれども、胸にぽっかり穴が空いたような、そんな虚無感に少しだけ悲しくなった。わたしが悲しく思うなんて可笑しいと思ったけれど、長くもなく短くもない時間の中で情が湧いたのだと思う。兵長との時間はそれだけ貴重だったということだろう。
 わたしはきっと淋しいのだ。兵長にとってわたしという個がそれほど重要でなかったことが殊更淋しいと思った。
 体を重ねるだけの関係でしかないのだから別れの言葉なんて要らないのかもしれない。それでもわたしは告げて欲しかった。「もうお前は必要ない」と。「お前の変わりが見つかった」と。どんな酷い言葉でもよかったのだ。だって言って貰わなければ、わたしも返せない。「さよなら」と。終止符を打つならわたしも打ちたかった。
 それから結構な月日が流れた。壁外調査を数回こなし、報告書を何枚も書き上げ、部下の指導を徹底し、わたしと兵長は必要最低限のやりとりのみを交わすだけだった。それが唯一の接触と言えた。
 兵長はわたしの変わりを見つけたようだ。彼女はわたしの一期下の女の子だった。
 肩にかかるくらいの綺麗な黒髪に、黒曜石を模した瞳。容姿はそこそこで、異性からも同性からも好まれる性格をしている。おそらく人付き合いは上手いのではないだろうか。羨ましい限りだ。
 きっと彼女はわたしと違って従順なのだと思う。何をされても笑って受け入れるのだろうと思う。そして、きっと彼女は兵長が好きなのだろうと思う。彼女が兵長に向ける眼差しには恋や愛といったものが乗せられている。恋する女の子のそれは痛いほどに伝わってきた。わたしにはない可愛らしさがあった。
 兵長と彼女の姿を巡らせながらわたしは薄暗い自室の中で兵長が扉をノックするのを待っている。もう来ないと分かっているのに、もしかしたらと思わずにはいられないのだ。願望に近いそれだけれど、その思いを寄せずにはいられなかった。
 こうして考えるようになってからわたしはひとつだけ気付いたことがある。それは今まで持ち得なかった感情だった。でも、その感情を知って納得した。こうまで兵長を求める心に、ああそうだったのかとすんなりと飲み込むことができた。

「好きです……兵長……」

 もう決して届くことのない想いを、わたしはぽつりと呟いた。か細い声が虚しく宙に霧散する。ぽとりぽとりとシーツが濡れる。みすぼらしい染みが点々と跡を残す。それが涙だと気付いたのはそれから直ぐのことだった。




あなたの愛で溺れる午前2時




(2013.07.31)
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