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 最近、わたしの周りをうろつく犬が現れた。どうやらその犬は、わたしに好意を寄せているらしく、時間や場所に関係なく、わたしの下にやって来ては愛想を振りまきにくる。
 うっとおしいわけではなかったが、こういったアプローチは初めてのことだったため、躊躇いがちにしか接することが出来ずにいた。
 それでも彼はいつも笑顔で、いつも元気だった。軽くあしらっても、追い払っても、犬のように駆け寄ってくる。わたしが霞んでしまうくらい、彼は明るくて、眩しくて、本当に毛並みの良い犬にしか見えない。だが、彼はれっきとした人間だ。犬というのは、ただ単に彼がそう見えるというだけの形容に過ぎない。
 彼の名前は、黄瀬涼太。この春、海常高校に入学してきた一年生。物凄くバスケが上手いらしく、モデルまでしているイケメンくんだ。
 なんでも、キセキの世代と呼ばれるメンバーの一人らしいのだが、わたしはバスケには頓着がないため、さっぱりだった。だから、当然、黄瀬くんを知らなかったし、モデルをしているということも知らなかった。
 それを何気なく友達に言えば、彼女は覆いに呆れ、黄瀬くんからはもう少し興味を持ってほしいと言われたのだけれど、そんな今でも頓着しない毎日を過ごしている。
 黄瀬くんからは、再三、練習を観に来てほしいとか、試合を観に来て欲しいと言われているが、わたしはそれを断り続けていた。
 聞いた話によれば、いつも体育館の周りは黄瀬くんのファンでいっぱいらしい。校門の前には他校生の出待ちがあるとかないとか。そんなところにわざわざ乗り込んでいくほど酔狂ではなかったし、便乗するつもりもなかった。わたしは今の平穏な生活を送れさえいればそれでいいのだ。
 だが、そうは思っていても、黄瀬くんは毎日のようにわたしの下にやってくる。大した用事があるわけでもないのに、今日の出来事や自分のこと、バスケのことを楽しそうに話し、ここぞとばかりにわたしのことを訊いてくる。彼の話を聞くのは、正直に言うと楽しかった。黄瀬くんとのおしゃべりは嫌いではなかったけれど、違和感があった。
 果たして、黄瀬くんとわたしは一緒にいてもいいのか。黄瀬くんの隣にわたしがいてもいいのか。彼が、わたしのところに来る度に、わたしはそんなことばかり考えていた。
 表面では、どうでもいいように振る舞っているけれど、内心では悩んでばかりだ。こんなにもわたしを苦しめる黄瀬くんが憎たらしく思うけれど、何故か嫌いになれなかった。むしろ、好感を覚えてしまっていた。気が付けば、随分と黄瀬くんに気を許している自分がいて、その変化に驚愕していた。わたしはそんな自分が怖かった。変わっていく自分と変わろうとしている自分が、酷く恐ろしいものに見えて仕方なかった。

▼△▼△

 昼休みのこの時間、わたしは昼食を終えて、屋上に来ていた。いつも一緒にいる友達は担任に呼ばれて数学準備室にいる。今日が日直だと嘆いていたから、たぶん、次の授業の準備か何かだろう。
 わたしは友達を見送った後、単身で屋上に赴いた。特に意味があるわけではなかったけれど、教室の窓から覗く青空を見ていたら屋上に行ってみたくなったのだ。
 屋上は思っていた以上に気持ちよかった。風邪は少し冷たかったけれど、それを感じさせないくらい、降り注ぐ陽射しはとても心地よかった。
 わたしは、そっと目を閉じながら、風と陽射しに身を預けた。もうしばらくこうしていたかったけれど、昼休みは残り僅かだ。予鈴が鳴ったら教室に戻らなければいけない。それが、なんだか勿体無い気がした。しかし、授業を受けるのが学生の本分である。
 わたしは浅く息をつくと、薄い雲が流れる空を見上げた。思わず魅入ってしまうくらい空は綺麗で、どこまでも澄んでいた。こんなふうにしていると、この青空が今にも降ってきそうな感覚に襲われる。手を伸ばせば、届きそうな気さえするというのに、全ては目の錯覚だ。
 わたしは、食い入るような仕草で、じっと空を見つめた。視界いっぱいに青が拡がる。手を伸ばしてしまいそうになる衝動を抑えながら、本当に手が届けばいいのになあ、とぽつりと呟くと、「何がっスか?」と前方から聞き慣れた声がわたしの鼓膜を震わせた。わたしは、ぴくりと肩を揺らし、声のした方向に目を移した。

「……黄瀬くん……」

 小さく呟いた名前の通り、眼前には黄瀬くんがいた。
 今日もさわやかな笑みを浮かべている彼は、この眩しいまでの青空よりも輝いて見えた。
 わたしは目を眇めつつ、黄瀬くんの問いに答える。

「……大した高さじゃないけど……ここから見る空って地上よりも近くに見えるような気がするでしょ?」

 そう言うと、わたしは黄瀬くんから目を逸らした。

「だから、手を伸ばしたら届くかなあって……。そう思っただけだよ」

 黄瀬くんは興味があるのか、ないのか、分からない表情していた。けれども、この話は退屈ではなかったようで、「へえ」と相槌を打ってくれた。
 わたしはそんな黄瀬くんに苦笑を洩らすと、話を変えるために、そっと言葉を紡いだ。

「わたしがここにいるってよく分かったね」
「先輩のクラスに行ったらいなかったから……先輩のクラスの人に訊いたんスよ。そしたら、屋上に向かったって教えてくれて、」

 だから、ここに来たのだと彼は言った。わたしは「そうなんだ」と曖昧に答えると、フェンスに寄り掛かり、気持ち程度に黄瀬くんから距離を取った。
 これは、わたしなりの拒絶なのかもしれない。内心で自嘲しながら、わたしは黄瀬くんと空の間の空間をぼんやりと見つめた。

「ねえ、黄瀬くん」

 流れる沈黙が嫌で、わたしは黄瀬くんに声を掛けた。

「なんスか?」
「前から黄瀬くんに訊いてみたかったことがあるんだよね」
「………」

 わたしは、すっと彼に視線を向けた。

「どうして、わたしなの?」
「………」
「わたしって……自分で言うのもあれだけど、普通でしょ? 綺麗でもないし、可愛くもないし……わたしなんかより、黄瀬くんのファンの子たちの方がずっと可愛いよ。その子たちの方が黄瀬くんに合ってるんじゃないかな…。ううん、ファンの子たちの方がきっと……黄瀬くんを理解してくれるよ。だって、みんな、黄瀬くんのことが大好きなんだよね?」

 酷いことを言っている自覚はあった。けれども、わたしに気持ちがないことを伝えるには今しかないと思ったのだ。
 黄瀬くんはわたしの言葉を受け止めると、「真正面から言われるときついっスね」と苦い笑みを見せた。

「オレ……自分がモテる自覚はちゃんとあるんスよ。だから、告白もたくさんされたし、言い寄られたりも数えきれないくらい経験があるんスよね」
「だろうね」
「でも……自分から好きになったのは先輩が初めてなんスよ」
「………、」
「……一目惚れって言ったら………信じてくれるっスか…?」

 わたしは目を見張ったまま、黄瀬くんをただ茫然と見つめていた。なんて答えればいいか分からなかった。

「……好きっス、」

 黄瀬くんの掠れた声がわたしの聴覚を刺激するように、脳髄にまでその言葉が駆け巡っている。視線を逸らしたいのに、逸らせない。じっと互いを見据えるように、わたしと黄瀬くんは見つめ合っていた。それが酷く居た堪れなかった。
 今のわたしは可笑しなくらい、顔が真っ赤なはずだ。こんな姿を見られるのが堪らなく恥ずかしい。でも、恥ずかしがってばかりもいられない。
 何か言わなければいけないと思うのに、きゅっと閉じた唇は、わたしの心を表しているように固く閉ざされたままだ。
 ああ、どうすればいいのだろう。そう思った時、遠くの方で、予鈴の音が聞こえた気がした。




一体貴方は私の何処に惚れたって言うの



(2013.01.31)
企画「慈愛とうつつ」さまに

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