彼女のなまえをおもいだす


あの時好きだった彼は、今どこにいるかなんてぼんやりと考えた。

行き慣れたカフェで人を待っていた。読んでいた本を行きの電車で読み終えてしまい、手持ち無沙汰になった。イマドキの人間にしては珍しく携帯端末を弄るのはあまり好きではなく、入っているのは生活に必要最低限なアプリだけ。

私はすっかり暇を持て余していた。

まだ暖かいコーヒーを一口啜り、周囲に目を向ける。本を読む人、何かの課題に追われて勉強をする学生、お喋りをするカップル、その中の一人にやけに色濃く見える人がいた。

「え、」

つい声に出してしまった。
何人かに目を向けられたが、なに食わぬ顔でもう一口コーヒーを啜る。

幸い向こうは気づかなかったようだけれど、色濃く見えたその人はどこをどう見ても私の高校時代の全てを捧げた人だった。優しい視線で手元の携帯端末を弄っている。耳にはヘッドホンをつけていて、すっかり自分のセカイに入ってた。

変わることのないその面影に思わず頬が赤くなった。あの時のまま、色褪せず、彼は其処に座っていた。


「ごめーん!遅れた!」

穏やかなカフェに少し高い声が響いた。私の待ち人だった。

「大丈夫だよ、行こうか」

立ち上がり少し残ったコーヒーをいっきに飲み干して片付けた。春物のコートを羽織り、カバンを肩に掛けてカフェを出る。少し期待して振り向いたけれど、彼はやはり手元の小さなセカイを見つめたまま黙っていた。

教室の一番後ろで座っていたあの頃の彼も、耳に白いヘッドフォンをして優しい目で何処かを見つめていた。そして教室に入ってきたどこのクラスか知らない女の子と話をしていた。
お似合いだなって思って、目線を外した。

今も昔も、彼とはこの視線は交わることがないんだなって小さく笑った。

さようなら、私の高校時代。


****


ずっと気になる子がいたことを、コーヒーを飲みながらふと思い出した。高校時代ずっと同じクラスだったけれど、そんなに話もしなかったあの子のこと。名前は、そう松竹梅子さん。

きっかけは多分隣り席になった時だったと思う。彼女はいつも何処かをぼんやり見つめているか、もう小口が焼けて傷んでいるような古書を好んで読む変わり者だった。けれど、そんな彼女の本を読む視線は柔らかく、あの頃は本に嫉妬ばかりしていた。

さりげなく、盗み見るように見ていたから、まあ目線は合わないのも当然だったとは思う。けど、授業中とかどうにか合ったりしないだろうかなんて思ったりしたのもまた事実で。
思春期とやらは、随分と自分を天の邪鬼にしてくれたものだった。もっと素直になれば、今こうして話が出来たのかなって思う。

テーブルの携帯端末が小刻みに震えだし、顔を上げると声が出そうになった。

あの頃と変わらない松竹さんがいた。

焦って何食わぬ顔で携帯端末に視線を落とす。普段笑わないけれども、この時ばかりは頬が緩んだのが分かった。

どうしよう、声掛けようか。
しかし、彼女は覚えているのだろうか。話し掛けるきっかけを思い浮かべては、理由をつけて却下した。

話しかけたいのだけれども。

「ごめーん、遅れた!」

静かなジャズを掻き消して入ってきた声の主は、彼女に駆け寄った。

「大丈夫だよ、行こうか」

さっとテーブルを片付けて足早にカフェを出て行った。
扉が閉まってから顔を上げて、彼女の後ろ姿を目に焼き付けた。

意気地なしに交わる視線なんてありはしないと、春の午後に消えていく彼女に思った。
コーヒーはすっかり冷めてしまった。

title:スプーンさま


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