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「い……っ!」



静かで寒々しい教会。誰も居ない事を良い事に大口を開けて、ふぁ、と欠伸をしたのがいけなかったのか。口の端からピリッとした痛みを感じて咄嗟に閉じるも時既に遅し。指先を当ててみると少量の血が付着した。すっかり寒くなったこの季節、その寒さに気を取られて空気が乾燥している事を忘れていた。教会という神聖な場所で欠伸なんてものをした罰か。それとも、この聖堂を掃除しておけなどと命令してきた神父に内心で恨み辛みを零していたせいか。真相が何であれ、ヒリヒリと痛み出した傷が治る訳もなく、応急処置としてリップクリームでも塗ろうかと鞄の中にあるポーチを漁る。生憎と口内炎やそれに準ずる薬など持っていないし、薬を塗る程でもない。酷くなるようなら、その時になって買えばいい。そう思ってリップクリームを手にすると、頭上から声を掛けられた。



「何してんだ?こんな所で。」



聞き慣れたその声に顔を上げる。やはりというか、ランサーは怪訝な顔をしながら私の事を覗き込んでいた。



「ここの掃除。でも、口の端が切れちゃったから、休憩ついでにリップクリーム塗って応急処置をね。」



手に持っていたリップクリームを目の前に差し出して見せてみる。きっと知識はあるだろうが、そんな物と無縁なのだろうランサーは物珍しげに掌の物を眺めていたかと思うと、ずいっと顔を近付けてきた。思わずこちらが飛び跳ねて後退するも、今度は私の口元をまじまじと観察して、あー、なんて気の抜けた声を上げている。



「見事に切れてんな。こりゃ、いてぇだろ?」
「うん。あんまり口開けたくない。」



時折、話しをするだけでも、ピリッとした痛みが走る。ランサーには悪いが、あまり喋りたくはない。持っていたリップクリームの蓋を取って塗ろうかと思ったところで、どういう訳かランサーに手首を掴まれ、そして引っ張られる。驚いた声を上げる暇もなく、目の前には綺麗な赤い瞳しか見えないくらい近くにランサーがいて、ピリッと口の端に痛みを感じた。思わぬ刺激にびくりと肩を跳ねさせたが、再度その傷みが口元から感じる。恐らく、ランサーは先程もそうしたのだろう。何を思ったのか、その舌で私の傷口を舐めている。ぺろぺろとまるで犬か何かのように。あまりにも突然の行為に頭がこんがらがってはいるが、痛いし恥ずかしいしであまりにも居た堪れない。思い切り跳ね返そうと腕に力を入れてみるが、私が離れるより先に、これまた素早く後頭部と腰に腕を回されて固定される。この手の早さは何なんだ!抗議をしようにも口は塞がれ、腕は自分とランサーの体に押し潰されて動かせない。その間もランサーは傷口を舐めるのは止めず、ピリピリとした痛みはやがて麻痺をし始める。痛いものは痛いのだが、舐められすぎてふやけてしまったのか、痛みが軽減されているような。



「んっ、ぁ、ラン、サぁ……!」
「はっ!いい声するじゃねぇか。」



時間にしてどれ程だったのだろうか。ようやく解放されたかと思ったら、にやにやとそんな事を言うものだから、どんどん熱が顔に集中してしまう。こちらの羞恥心を煽る真似ばかりしないで欲しい。今度こそ離れようとランサーの胸板を腕で押し返すも、サーヴァントだからなのか、ただ私が背を仰け反らせるだけの結果に終わった。



「はーなーしーてー!そもそも、何でこんな事……!」



思わず視線を逸らしてしまう。気弱な態度は相手をつけ上がらせるだけだと分かっているのに、無意識に逸らしてしまったのだから、気付いた時には遅かった。それでも、やはりランサーがどんな表情をしているのか気になって、ちらりと見上げる。相変わらずにやにやしているが、そりゃ、と声を零す。



「傷は唾つけときゃ治るって言うだろ?」



にかっ、と歯を見せて笑うものだから、こちらの毒気が抜かれてしまう。確かにそういう諺はある。あるけれども、それを実践する人が今の世の中どれだけいる事だろうか。



「そ、それだけ?」
「それだけって?」
「舐めた理由。」
「おう。それだけだ。」



あまりの潔さに思わず俯いて手で顔を覆う。呆れと気恥ずかしさと、その他諸々いろんな感情が混ざって、暫く顔を上げられそうにないなと思った。