長谷部伯父さんと台風



一度だけ、伯父さんのアパートで一人、一夜を明かした事がある。その日は酷い嵐で、台風が上陸していた。夏休みの私には関係なく、例え学校があったとしても休みになっていたと思われる天候だったが、社会に出るとそうもいかないらしい。半袖のワイシャツに腕時計をして、髪型もしっかり整えた伯父さんが憂鬱そうに窓から外の様子を見詰めていた。私はといえば、そんな伯父さんの様子をご飯を食べながら、ぼうっと眺めている。



「伯父さん、会社は?」
「……ああ、今行く。今日は帰りが遅くなるかもしれん。」
「うん。」
「冷蔵庫に光忠の作った飯が入ってる。先に食べてていいからな。」
「うん。」
「もし家に誰かが訪ねてきても絶対に出るんじゃないぞ。居留守しろ。お前に用のある奴は電話を掛けてからくるからな。」
「うん。」
「何かあったら、この番号に連絡してくれ。直ぐに帰る。」
「うん。」
「今日は外に遊びに行くなよ。濡れるし夏場とはいえ風邪をひ「伯父さん、時間。」
「はっ!」



寝起きの頭にどれだけ伯父さんの言葉が入っていたのかは定かではない。いや、寧ろほとんど聞いていなかったような気もする。時計を確認し、慌てて玄関へと走って行く伯父さんにいってらっしゃいと告げて、私は正面を向きながらご飯を一生懸命食べる。伯父さんの作る目玉焼きは黄身が固いし、白身も少しだけ焦げ気味だ。けれど、私は伯父さんの作る料理が嫌いではない。冷蔵庫に閉まってある光忠さんという人が作った料理も美味しいけれど、私には同じくらい伯父さんの作ってくれた料理も美味しいと感じていた。まぁ、所詮は子供の味覚なのだから、今食べたらどうかは分からないけれど。ご飯を食べ終え、ふと窓を見ると、大きな雨粒が窓に張り付き、強風に木々が揺れている。アパートに一人でお留守番。当時の年齢では、人によって、普段とは違う雰囲気に泣いてしまうかもしれないが、私はそれを楽しむだけの図太い神経があったようだ。外に出るなと言われてはいたが、ベランダくらいなら許されるだろう。ガラガラ、と窓を開けると強風が吹き込んできて、雨粒が顔にあたる。



「わっ!」



転びそうになりならも、何とか目を凝らして外の様子を見る。灰色の空に、緑の葉っぱが宙を舞っている。アパートの端からはぼたぼたと大量の水が零れ、ごうごうと吹き荒れる雨粒が体中に張り付く。急いで部屋の中に戻ったが、ドキドキと心臓が鳴り、高揚感に支配される。何が、とは言えないが、兎に角楽しかったらしい。何度かベランダとリビングを往復し、ここぞとばかりに台風を堪能した。

***

現在、○×線は運転を見合わせています。
何度見ても表示された電光掲示板の文字が変わる事はない。びしょ濡れになりながら必死の思いで会社から駅まで走って来たというのに、どういう事だ。愕然としながら、先程からやたらとうるさい携帯を鞄から取り出した。何件かの着信。もしや台風に怖がった姪からの電話か?と思い、履歴を見れば、並ぶ光忠の文字に携帯を再び鞄にしまう。その間も、電光掲示板には運転見合わせの文字が流れていく。仕方ない。一度、会社に戻った方が良さそうだ。溜め息を吐きながら会社に戻れば、早々に光忠に見つかってしまった。



「あ!長谷部君!何度も連絡したのに出ないから心配したんだよ。」
「何か急ぎの用事か?」
「電車止まってるから、駅に行っても無駄だよって伝えたかったんだけど。」



俺の姿を見るなり苦笑いを零す。その様子に若干腹が立たない事もないが、びしょ濡れになっている今、口論している暇はない。光忠を無視して男子更衣室に向かった。道すがら、時間を確認すれば、既に20時を過ぎている。普段ならもうとっくに帰っている頃だ。いくら遅くなると言って出て来たとはいえ、連絡一つ入れないのは如何なものか。もしかしたら今日は帰れないかもしれない可能性もある。着替えを済ませたら連絡してみるか。急いで自分のロッカーを開けて替えのワイシャツとスラックスに袖を通し、びしょ濡れの服は適当に袋に詰めた。誰もいない事を確認した上で電話をしようと携帯を取り出したが、タイミング悪く光忠が入ってくる。狙っているようなタイミングに思わず舌打ちをした。



「機嫌悪いね?姪っ子ちゃんが心配?」
「そうだな。心配だ。一刻も早く連絡をしてやりたいんだ。さっさと出て行け。」
「うわ、凄くストレート。僕の事は気にせず連絡していいよ。」
「俺が気にするんだ。早く出て行け。」
「いいからいいから!あ、折角だし僕も少しお話したいな。」
「お前、性別が女なら幼子でもいいのか……。」
「ちょっと待って。凄い誤解を招いている。」



眉間に皺を寄せながら溜め息を吐く。反してにこにこと笑っている光忠に、出て行く気がない事を察し、なるべく距離だけは開けて通話ボタンを押した。数回のコールの後、妙に上ずった明るい声が聞こえる。



「名前か?俺だ。」
「おれおれさぎ。」
「違う。長谷部だ。」
「しってます!どうしたの?おしごと終わった?」
「ああ、仕事は終わったんだが、電車が止まっていて帰れないかもしれない。」
「ねぇねぇ、長谷部君、僕もお話したい。」



いつの間にか俺のすぐ側で腕を突く光忠を蹴って制しながら、やたらとテンションの高い姪に違和感を覚える。台風の影響で怖がっているかと思ったが、もしやこいつ、楽しんでいるな。妙な気さえ起こさなければ遊ぶのは構わないが、外に出たりしていないだろうな。風邪なんて引かれたら困る。夏風邪はただでさえ長引くし、大人とは違い子供の免疫力は弱い。薬を飲んだからといって、すぐに治るとは限らない上、まともな治療法など知らん。一応、釘を刺しておこうと思い、咳払いを一つ。



「お前、外には出ていないな?」
「うん。出てない。」
「夜も遅い。ベランダも駄目だぞ。」
「えっ!あ!はい!」
「ベランダに出て遊んでいたな?風邪を引いたらどうする。」
「……ごめんなさい。」



鎌をかければ案の定。咎めるように言えば、電話越しでも分かる程に落ち込んだ声が返ってくる。まぁ、反省しているのならそれで構わない。元より、遊んだ事を咎めている訳でもない。風邪さえ引かなければいいのだ。あ〜あ、泣かせた〜、とかほざいている光忠の頭に鉄拳を落とし(そもそも泣いてない)、すっかり静かになってしまった姪に声を掛ける。



「まぁ、風邪さえ引かなければ遊んでいても構わない。夕飯は食べたか?」
「! 食べた!おいしかった!」
「あ、ほら!僕の料理美味しいって!いい子だねぇ。」
「なら良かった。なるべく早く帰るようにはするが……。」
「一人でもへいき!!!」



先程反省したばかりではないのか。また遊ぶ気か。立ち直りの早さに頭を悩ませながらも、案外一人を満喫している姪にこちらは少し複雑だ。別に一人で寂しいから早く帰って来て欲しいと言われたかった等、思ってはいない。決して。



「そ、そうか。あまりはしゃぐなよ。さっさと風呂に入って、寝る時間には寝るように。」
「はい!」
「わ〜、長谷部君お父さんっぽい。」
「じゃあな。」
「おやすみなさーい!」



耳に携帯を当てていれば、即座に通話ボタンを切られ、ツー、ツーという虚しい音が響いた。画面を見れば、姪の名前と通話が切れた事を知らせるイラストが表示されている。親離れをされた時の父親はこんな気分なのか、と虚しさに浸っていれば、光忠がひょっこりと携帯を覗き込んでくる。まだいたのか。通話している間もうるさかったが、もうこいつの行動がうるさいな。



「切られちゃったね。まだ小さいのに、一人を満喫してるみたいだし、案外長谷部君がいなくても平気そうだね。」
「……一時的な問題だ。長期となればそうもいかない。」
「うーん、そっか。子供だもんね。それならほら、長谷部君も早く帰ってあげないと。一人にするなんて大人として最低だよ。」



こいつ本当に口うるさいな。俺だって帰れるものなら既に帰っている。イライラしながら光忠を睨みつければ、タッパを押し付けられた。



「姪っ子ちゃんに宜しくね、伯父さん。」



どこまでも癪に障る奴だ。




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