長谷部伯父さんと台風if



一度だけ、伯父さんのアパートで一人、一夜を明かした事がある。その日は酷い嵐で、台風が上陸していた。夏休みの私には関係なく、例え学校があったとしても休みになっていたと思われる天候だったが、社会に出るとそうもいかないらしい。半袖のワイシャツに腕時計をして、髪型もしっかり整えた伯父さんが憂鬱そうに窓から外の様子を見詰めていた。私はといえば、そんな伯父さんの様子をご飯を食べながら、ぼうっと眺めている。



「伯父さん、会社は?」
「……ああ、今行く。今日は帰りが遅くなるかもしれん。」
「うん。」
「冷蔵庫に光忠の作った飯が入ってる。先に食べてていいからな。」
「うん。」
「もし家に誰かが訪ねてきても絶対に出るんじゃないぞ。居留守しろ。お前に用のある奴は電話を掛けてからくるからな。」
「うん。」
「何かあったら、この番号で連絡してくれ。直ぐに帰る。」
「うん。」
「今日は外に遊びに行くなよ。濡れるし夏場とはいえ風邪をひ「伯父さん、時間。」
「はっ!」



寝起きの頭にどれだけ伯父さんの言葉が入っていたのかは定かではない。いや、寧ろほとんど聞いていなかったような気もする。時計を確認し、慌てて玄関へと走って行く伯父さんにいってらっしゃいと告げて、私は正面を向きながらご飯を一生懸命食べる。伯父さんの作る目玉焼きは黄身が固いし、白身も少しだけ焦げ気味だ。けれど、私は伯父さんの作る料理が嫌いではない。冷蔵庫に閉まってある光忠さんという人が作った料理も美味しいけれど、私には同じくらい伯父さんの作ってくれた料理も美味しいと感じていた。まぁ、所詮は子供の味覚なのだから、今食べたらどうかは分からないけれど。ご飯を食べ終えてからは、食器を台所に運んで、テレビをつけて、ぼうっといろんなチャンネルを回した。どのテレビ番組も、今日の台風の話ばかりだ。

***

テレビにも飽きて、嫌々宿題をこなし、時折ベランダに出てみては雨風の凄まじさに少しだけ胸を高鳴らせて、そして、またテレビを観て、暇だからと食器を洗ったりして。そんな風に、退屈な一日を自分なりに過ごしていれば、ピンポン、とインターホンが鳴った。今までこのアパートで過ごしてきて、所謂セールスと呼ばれる人以外、連絡もなしに人が来た試しがない。だから、今回もそうなんだろうと思い、息を殺して去って行くのを待った。



「こんにちは。名前ちゃん。僕だよ。」



聞き慣れた声がした。私は普段、近所の神社に遊びに行っている。宮司さんはとても穏やかな人で、朝から夕方までいる私に嫌な顔一つせず、お昼ご飯やお菓子まで用意してくれていた。そこによく来る青年がいた。青年は青江といって、宮司さんとも仲が良く、お仕事をする宮司さんの代わりに私の面倒をよく見てくれていた。だから、私がその青江さんの声を聞き間違う筈がない。昨日だって、遊んだのだから。



「酷い雨でね。雨宿りをさせて欲しいんだ。」



ドンドン、と玄関の扉を叩かれる。確かにこの雨だ。びしょ濡れになったっておかしな話じゃない。玄関まで走って、ふと、伯父さんの言葉を思い出していた。誰が来ても絶対に出てはいけない。私に用のある人は電話をしてくる。しかし、今も尚、ドンドン、と扉は叩かれ、私は名前を呼ばれている。来る前には連絡を入れるかもしれないけれど、今日みたいに土砂降りの日は仕方がないのではないか。それに、青江さんは知らない人ではない。私を呼ぶ声は確かに、青江さんの声だ。玄関に辿り着き、サンダルに足を通した時、私は昨日、青江さんとした会話を思い出していた。



「名前ちゃんの家はここから近いのかい?」
「ううん。本当はもっととおいところ。でも、夏休みだから、伯父さんのところに遊びにきてるの。」
「ああ、そういえば、そんな事を石切丸が言っていたっけか。いいねぇ。伯父さんの所にお泊まり。」
「うん!」



そこまで思い出して、私は未だに玄関の扉を叩く存在に違和感を覚えた。どうしてこのアパートを知っているのか。私は伯父さんの所にいる、と言っただけでアパートの住所を教えたり、方角を指で示したりした覚えはない。私を呼ぶ声は確かに青江さんなのに、青江さんではない誰かが私を呼んでいる。気付いた瞬間、ドキドキと心臓が早鐘を打ち、扉を凝視した。声を出す事も憚られて、両手で口を塞ぎながら、ゆっくりと玄関から遠ざかる。その間もずっと、玄関の扉を叩く音は止まない。そもそもの話、私の名前を呼んでから10分程は時間が経っている筈だ。その間中、玄関に居続ける時点でおかしい。リビングを通り過ぎ、寝室に潜り込んで、布団を被りながら、ぎゅっと目を瞑った。ドンドン、と聞こえる度に体が震え、布団を握る力が強くなる。



「名前ちゃん、名前ちゃん……。」



一体、私を呼んでいるのは誰なのか。固く目を瞑っているうちに、私は意識を手放し、次に目を覚ました時には、すっかり夜も更けていた。リビングからは明かりが漏れており、飛び起きて襖を開ければ、驚いたらしい伯父さんが目を見開いてこちらを凝視している。



「起きたのか?そういえば、今日家を出たのか?玄関が、うっ!」



何か言い終わる前に、走って伯父さんの腰に抱きついた。寝起きのぼうっとした頭でも、ドンドンと玄関の扉を叩く音が未だに離れず、伯父さんがいるという安心感からか、ぼろぼろと涙が零れた。何事かと驚いた伯父さんがしゃがみ、私に何があったのかを聞いてくるのだが、話そうにも涙が止まらず、言葉にならない。仕事帰りで疲れているだろうに、呆れる事なく、私を抱っこしてくれて、泣き止むまでずっと背中を撫でてくれたのを今でも覚えている。暫くして、涙が引っ込み、ごしごしと目を擦っていれば、その手を掴まれた。擦ると赤くなるから、駄目なんだそうだ。



「青江さんがきた。でも、青江さんじゃなかった。」
「……分かるように頼む。」
「青江さんにはね、ここのお家おしえてないから、絶対これないもん。なのに、入れてってずっと言ってくるから、怖くなってねてた。」



伯父さんは眉間に皺を寄せて考え込んでいる様子だったけれど、は、と何かに気付いた途端、みるみるうちに青くなっていく。その表情に、私はまた怖くなって、伯父さんの服をぎゅうっと掴んだ。そんな私の様子に気付いたのか、伯父さんが私の頭を撫でる。しかし、伯父さんが無理に笑っているような気がして、張り詰めている空気が怖くて、結局、寝るまでの間、ずっと伯父さんの後ろをついて回った。再び布団に潜った時間が何時だったかは覚えていないが、隣で寝る伯父さんが私の布団をゆっくりとリズムよく叩くので、妙に張っていた神経が徐々に緩み、瞼が重くなる。



「明日、石切丸の所に行くか。」
「?」
「念のため、お祓いに、な。」
「おはらい……。」



やっぱり、あれは何か良くないものだったのか。玄関を開けていたらどうなっていたのだろうか。ぶり返しそうになる恐怖心を忘れるため、ぎゅ、と目を瞑った。翌日、家を出た時に見た玄関の扉に、泥だらけの手の跡が沢山ついているのを見てゾッとした。




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