神隠し



何をしても上手くいかない。何も楽しくない。何もしたくない。誰とも話したくない。誰にも会いたくない。そんな風に思う時が、誰しもあるかもしれない。正常な判断さえ出来ていたのなら、私だって、こんな風に考える事が五月病みたいなものだと認識しただろう。しかし、疲れている時、精神が不安定な時、というは正常な判断が出来ない。いっそのこと、消えてしまいたいなんて考えていた。



「………ち………こち、へ………。」



疲れているし、眠い筈なのに、こういうくだらない事を考えている時に限って眠れない。布団に潜り込み、目を瞑ってはみたものの、妙に頭が冴えて、ぐるぐる解決もしない、どうしようもない事ばかり考える。そんな時、ふと、声が聞こえた。くぐもっていて、不明瞭な声は何と言っているのか分からない。しかし、不思議と耳当たりのいい声にもっと聞いていたいと思った。



「…………こ、ち…………こっち…………。」



どんなに耳を凝らしても、はっきりと聞き取れる言葉は「こっち」という言葉だけ。他は不明瞭で、殆ど言葉としては認識出来なかった。だからかもしれない。何と言っているのか気になって、その声をもっと聞いていたくて、ベットから抜け出し、ふらふらとした足取りで玄関に向かった。サンダルすら履くのが面倒で、裸足のまま家を出る。外に出れば、聞こえる声は鮮明になり、引き寄せられているかのように、ゆっくりと歩を進めた。



「………………?」



ふと気が付くと、家の周辺を歩いていた筈なのに、周囲は見知らぬ景色が広がっていた。それなのに、私は歩みを止めず、歩き慣れた道程のように奥へ奥へと進んで行く。次第に、頭がぼんやりとしてきた。上手く思考が働かない。ただただ、「こっち」という声を頼りに歩き続ける。そうして、徐々に鮮明になってくる声に思考が占領されていく。



「……こちら、ですよ……様……こちらへ……。」



こちら、こちら、こちら。その言葉が何度も頭の中で繰り返される。その声が大きくなればなるほど、意識が薄れていき、ぷつん、と途切れた。

***

ぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと目を覚ますと、見慣れない木彫りの天井と、肌触りの良い布団に包まれていた。寝て少しは頭が冴えたのか、これがあきらかに異常な事だとは認識出来た。しかし、動く気になれない。ここはどこなのか、あの声は何だったのか、早く帰らなければ。ぼうっとしながら、そんな事を考えていれば、障子が開いて声がする。耳当たりのいいあの声だ。



「目が覚めましたか?もう少し寝ていらしても宜しいのですがね。」



顔だけを声のする方へと向けると、男が笑って私の様子を窺っている。知り合いだっただろうか。考えてはみたが、整っている顔に、少し几帳面そうな目元、心底嬉しそうに笑う表情を見ても、こんな人は話した事も見た事もない。そう思った。返事をしない私に、男は機嫌を悪くするでもなく、腕を伸ばして私の頭を撫でる。



「起きていらっしゃるようですし、食事にしましょう。ね、名前様。」



食事。お腹は空いていなかった筈だが、何となしに頷いてしまって、ゆっくり起き上がる。その時も、わざわざ起こすのを手伝ってくれて、立ち上がってからは私の手を引いて、甲斐甲斐しくお世話をされた。なされるがまま、男に連れられて廊下を歩いて分かった事だが、ここは大きなお屋敷で、まるで日本家屋のようだと思った。居間につくと、座っているように指示され、言われるがままに頷く。暫くすると、ご飯とお味噌汁。漬物に、焼き魚、卵焼きなんかも用意されて、並び終わる頃には一気にお腹が空いてくる。しかし、用意されたのは私の分だけ。



「さぁ、どうぞ。名前様。」



一度男の顔を見て、並べられた食事を見て、また男の顔を見る。男は私の事を見るばかりで、他には何もする気がないように思えた。男は食べないのだろうか。不思議に思いながらも、私は箸を掴んで並べられた食事に手を付ける。その間中、男は私の事を見ていて、何だか食べにくかった。しかし、出された筍ご飯は美味しかったし、デザートとして用意されていた葡萄と桃も喉を潤すには丁度良く、男の視線など些細な事のように思えた。全て平らげると、男は満足気に笑っている。どこか熱を含んだその視線に寒気を感じてあとずさろうとしたのだが、それよりも早く男は私の体を抱き締めた。



「あぁ、ようやく。お待ちしておりました、主。」



恍惚とした表情を浮かべ、主主と私に、縋りつく。主?勘違いでもしているのだろうか。私には男の記憶はない。勿論、この男の主でもない。縋られる理由が分からない。きつく抱き締められると、少し息が苦しくなった。



「主は覚えておいでですか?亡くなる前に、俺と交わした約束を。」
「…………?」
「やはり、忘れてしまったのですか。いえ、仕方がありません。分かっています。人間は所詮人間。生まれ変わってしまえば、前世の記憶など忘れてしまうでしょう。あんなに誓ってくださった事も、忘れてしまうのです。」



徐々に低くなる声音。逃がさぬよう私の肩を手で掴んだまま、男はぎろりと私を睨み、体が竦んだ。仕方ないと言いながら、その目はあきらかに怒りの色を含んでいて、納得しているとはとても思えない。蛇に睨まれた蛙の如く、動けずにいる私はひたすら身を縮こまらせて、逸らせなくなったその目を見詰めた。



「しかし、そんな事は些細な問題です。こうして、ようやく貴方に会えた。前世では亡くなる直前に教えて下さった貴方の名を、こうして本人の前で呼べる。亡くなる前、貴方が欲しいと我が儘を口にした俺に、貴方は自らを下さると約束してくださった。ですから、これからは、ずっと一緒ですよ。」
「ずっと?」
「はい。ずっと。この本丸で前みたいに暮らしましょう。俺と貴方だけで、誰にも邪魔されず、ずっと。永遠に。」



ずっと、って、何時まで。だって、仕事がある。来週遊ぶ予定だってあるし、やらなきゃならない用事だってある。親だって友達だって心配する。こんな何もない所に、ずっと、なんていられない。私は首を横に振った。



「帰らなきゃ。やる事があるの。」
「いいえ。貴方にはそんなものない筈です。そうでしょう?現世から逃げ出したくなったから、俺の声が聞こえた。そして、此処に来た。俺は無理強いなどしていません。全て、主の思われるままにいらしたのですよ。」
「でも、帰らなきゃ。」
「……もう、帰る事など出来ませんよ。先程、この世の物を食べてしまわれた。貴方は既にこちら側の存在です。人間でも、死者でもない。あの世とこの世をさ迷う存在です。ですから、ここで暮らしましょう。」



ね、名前様。
やたらと耳当たりのいい声に、考えるよりも先に頷いていた。そんな私に、男はにや、と笑って、そっと唇を重ねてくる。手を取って、指を絡めて、触れるだけの口付けを何度も繰り返す。だんだん、何も考えられなくなって、男の言う通りでもいいかな、なんて思い始めていた。




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