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新婚インゴ

「旦那さん帰ってくるの遅いのね。もしかしたら、どこかで女引っ掛けてたりして。」



なんてことないご近所さんとの他愛もない日常会話。それなのに、どうして朝から晩までその言葉を引き摺っているのか。そんなこと私が一番聞きたい。私の旦那さんは地下鉄でサブウェイボスというバトル狂の為に用意されたような娯楽施設で働いている。車掌もこなしていて、忙しそうではあるが本人が楽しそうなのでいいのだろう。そんな彼は朝は早く夜は遅い。だから、ご近所さんも冗談半分でそんなことを言っただけだ。その証拠に、冒頭の台詞からは即行で話が逸れた。
彼を信頼していない訳ではないが、どうしても心が揺らぐのは私が平々凡々で、彼が誰をも魅了する容姿を持っているからだろうと勝手に自分を納得させた。どうして彼が私を選んだのかなんて今更言わない。それは結婚する前に何度も聞いたのだから。それなのに不安に駆られるのはいつまで経っても私が自分に自信が持てないからだ。
そろそろ帰る時間だろうと遅過ぎる夕飯の準備をして、お風呂を沸かす。疲れて帰ってくるだろうから、紅茶も用意して今日連れて行かなかったポケモン達は先に寝かせておいた。そうしないと、つい、この子たちは彼にじゃれついてしまうのだ。好きだからこそなのだが。



「戻りました。」



ガチャッと開いたドアから現れたのは、紛れもなく私の旦那様、インゴさんだ。駆け寄って鞄とコートを受け取った。大きな彼のコートをハンガーに掛けて鞄と一緒に彼の部屋に運んだ。この瞬間がとても好きで、安心する。あんなこと言われた後だ、帰ってきてくれて良かった、なんて変な安心感も相まって今日は格別に。ハンガーにコートを掛けながら、思わずそれをぎゅうっと抱き締めた。そういえば久しく抱き締めてもらってないなぁ、なんて。



「なにをなさっているのです?」
「!!!」



心臓が止まるかと思った。急に開いたドアに凭れかかるようにしてインゴさんがこちらを眺めていたかと思えば、私の側まで歩み寄って私を見降ろした。私はと言えば、なんと言っていいのか分からず、未だにコートを抱き締めたまま、あたふたと忙しなく視線を泳がせた。



「ワタクシのコートが、何か?」
「なっ、なんでもない!」
「………………そうですか。」



たっぷり間が空いた後でそうですか、なんて全然納得してるように聞こえない。びくびく怯えながらコートを所定の位置に戻した。本人を目の前にしながらコートを手放すのがなんだか寂しいだなんて。しかし、手放した筈なのになぜか背中が暖かくて、お腹にもなんだか温もりを感じてって、え?



「イ、インゴさん?」
「疲れました。」
「あ、えっと、お疲れ様です。」



どうしていいのか分からず、そうっと振り返ってみても、インゴさんが私の首筋に頭をぐりぐり押し付けて甘えてくるから、結局表情から気持ちを汲み取ろうなんて無理な話だった。
コートでも満足していたと勝手に思い込んでいたけど、やっぱり本人には敵わない。久しぶりに抱き締められて、初めてデートした時みたいに心臓がうるさい。ああ、嫌だなぁ、私ばかり余裕がなくて。



「久しぶりです。」
「?」
「名前に触れるのが、久しぶりですと、言ったんです。」



顔を上げたインゴさんが耳元で喋るからくすぐったい。正面を向いてインゴさんの顔を見たいのだけど、あまりにもぎゅうぎゅう苦しいくらいに抱き締めるから身動きが出来ない。その腕の力が自分と同じ気持ちでいてくれた証なんじゃないかと思ったら、胸までぎゅうって苦しくなって、私を確かめるようにお腹を弄る手に自分の手を重ねて、ゆっくり指を絡めた。



「名前。」



嬉しくて言葉が出ない。いつもいつも安心させてくれるのは彼で、私は彼になにをしてやれただろうか。ただ家で家事をこなしているだけで、書類やバトルで大忙しの彼を結婚という名目で束縛しているだけかもしれないのに、こうして彼は私を気遣ってくれる。それだけで十分じゃないか。嬉しいからか、なにもしてやれない自分に歯痒さを感じてか、自然と流れる涙がぽたぽたと彼の掌に落ちてゆく。



「……泣いて、いるのですか?」



するりと解かれた手が肩に置かれてくるりと回転。ようやく見れる筈の彼の顔を私は俯いているせいで見ることが出来ない。尚もぽたぽた流れる涙は床に落ちる。泣かないで下さいと指の腹で涙を拭ってくれるけれど、その優しさがまた辛くて、余計に涙は止まらない。



「ひっ、く、あ、あの、ぐすっ私、い、いっつも、ぐすっ、インゴさんに、ひっ、助けてもらって、ばっかり、で、ひっく。」
「落ち着きなさい。」
「私なにも、して、あげられなくて。家事だって、全部、言われた通りに、してる、だけで…。」



みっともない。涙でぐちゃぐちゃで、心もぐちゃぐちゃで。彼はこんな私をどう思っているだろう。また馬鹿なことをと、呆れるだろうか。



「インゴさんに、なにも、返して、あげられなく、て…っ!」
「いいえ、十分でございます。」



そうっと、まるで割れ物でも扱うように引き寄せられて、すっぽりと収まった。なにが十分なもんか。背中に腕を回して服が皺になることも気にせずに彼の服を掴んでやれば、珍しく嬉しそうに笑う声が聞こえた。



「ワタクシは十分名前から多くのものをもらっています。家事などと言いますが、それが一番大事なことです。ワタクシ料理は特にからっきしですから。」
「でも……」
「家に愛する人が待っていてくれる。それだけで十分ではございませんか?」



欲がない人だ。お金もいっぱい持っていて、その容姿なら私みたいなのじゃなくて絶世の美女とでもお付き合い出来そうなのに、私なんかが家で待ってるだけで十分だなんて。でも、その言葉にひどく安心している自分がいるのも本当で。



「謙虚過ぎる…ぐすっ…」
「そんなことはありません。」



泣き虫な私はまだ涙が止まらないけれど、これはきっと嬉し涙なんだと勝手にそう思い込むことにした。



(貴方がいれば私は幸せです。貴方は幸せですか?)



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