忠犬いじめられたときは
天気予報で真夏日と言っていただけあって、本日の気温はかなり高い。今の時間を考えると、これからさらに上昇するのだろう。幼なじみの「あちー!」という叫びと、大声を非難する声が聞こえ、桃井は小さく笑った。
クーラーボックスに冷えたタオルと一応保険をかけて保冷剤も押し込む。最近では選手達の事を考え、熱中症等の確率を少しでも下げたくて、タオルは冷やして配っているのだ。
よいしょ、と掛け声つきでクーラーボックスを持ち上げれば、予想以上の重さに腕が悲鳴を上げる。いつもなら小さい方の幼なじみが運んでくれるのだが、如何せん彼は先日捻挫をしてしまったため、現在は病院に行っている。彼も選手なのに甘えてばかりなんだなぁと自省しながら、クーラーボックスを持ってえっちらおっちら体育館を目指す。
体育館に入ると、隅にクーラーボックスを置き、散らかしっぱなしのボトルを拾う。籠があるのだから入れてくれればいいのに。いや、そういえばこうしてボトルを集めるのも、彼がやってくれていたんだっけ。…私がマネージャーなのに、選手である彼にばかり仕事させてたのか。反省せねば。
ボトルを詰めた籠を持って外に出る。思えば、ドリンク作りそれ自体が彼の仕事になっていた様な。今度からは私がやるよって後で言おう。心の中で小さく決意して、水飲み場に籠の中のボトルをぶちまけたその時だった。
じゃり、じゃり。
足音だろう。顔を上げると、たった今考えていた人物がこちらに歩いて来るのが見えた。
「あ、いっちゃんおかえり!足はどう――」
手を振って声をかけたが、思わず口をつぐんだ。いつもならこちらに気付くやいなや元気良く駆けてくる彼は、しかし俯いたままびくりと肩を揺らした。そしておそるおそるといった様子で顔を上げ、桃井をその視界に捉えると、一瞬喜ぶ様に目を輝かせ――しかし次の瞬間、眉を八の字に垂らした。
その常とは違う反応に何やら嫌な予感がして、桃井はもう一度彼の愛称を呼ぶ。
「…いっちゃん…?」
しばし無反応だった。
やはり様子がおかしい。
訝しんだ桃井がもう一度声をかけようと息を吸い込んだ瞬間――彼の瞳から、ぼろぼろと大粒の水滴が零れた。
「ふ…っ、ぅ…う」
「え、ちょっと、いっちゃん!?」
「…っ、うわぁああん!!お姉ちゃああああん!!」
「え!?」
勢い良く飛び付いて来た彼の、大きな泣き声に一瞬怯む。
こんな大泣き、久しぶりではないだろうか。
桃井が唖然としている間にも、小さな少年は泣きじゃくりながら抱き付く力を強める。
「うううう、えっ、ぐぅ、ひっ!おっ、お姉、ちゃ、っん!おね、ちゃ!」
「――色透!!」
少年の慟哭が聞こえたのだろう、体育館の中にいた筈の幼なじみが駆けて来る。その後ろから、チームメイトも若干名ついて来て、泣きじゃくる少年の様子に各々驚いた様な表情を見せた。
一番に駆け付けた青峰は、何があったのかと視線で桃井に問い掛ける。桃井はただ横に首を振り、とりあえず少年を落ち着かせようと考え頭を撫でた。
「んぅっ、ううう、ぁあっ」
「落ち着いて、いっちゃん?ね?ほら、大ちゃんもいるし、皆だって…」
「お兄ちゃあああん」
桃井が集まったメンバーを示すと、少年は今度は青峰に抱き付く。
青峰は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに持ち直し、少年の頭を撫でた。昔から本当の兄弟の様に親しいし、意外に慣れているのかもしれない。
身長差のせいで少年の頭は青峰の腹の辺りにあり、青峰は額をぐりぐりと押しつけられるのがくすぐったいのか身動ぎするものの、嗚咽を漏らす小さな幼なじみを邪険には出来ないらしく、そのままにさせている。
「どうした色透、何があった」
「ん、っぅ、っふ」
「…泣いてばっかじゃわかんねぇだろ」
青峰は少年を引き剥がすと、しゃがんで少年を見上げる様にして目を合わせる。腕を掴んで「な?」と首を傾げる青峰に、少年は漸く頷いた。
まるで親子みたい、と思ったけれど、今言うべきではないと思って開きかけた口をつぐんだ。
「とりあえず落ち着け。ゆっくり息しろ。過呼吸になるぞ」
「っん」
しゃくりあげる様に呼吸していた少年の背中を、丁度近くにいた黒子が優しく擦ってやる。テツ君お兄さんみたい、とか思ったけれど、やっぱり言うのはやめておく。
少しすると呼吸も落ち着き、「大丈夫ですか?」という黒子の問いにも「はい、なんとか」と返事を返せる程度には回復した少年に、青峰が再び問い掛けた。
「どうした?何があったんだ?」
「…」
少年は自分のジャージの裾を掴み、ちらちらと青峰と自分の爪先の間で視線を行き来させる。
言いにくい事なのだろうか。
しかし話を聞かなければ何も進まない。段々焦れてきた青峰は、おもむろに少年の頬を両手で挟むと、
「色透」
少年の名前を呼んだ。
低く、静かに。じっと視線を合わせて、ただ一言だけだが、何か意味を持たせる様に。
その一言が効いたのか、少年はまた眉を八の字に垂れさせた。
「色透」
表情の変化を認めると、青峰はもう一度名前を呼んだ。すると少年の口が小さく動く。声は出ていないが、「お兄ちゃん」と言いたかったのだと思う。
青峰が安心させる様に頷くと、少年は大きな瞳を潤ませて、今にも消えてしまいそうな小声で言った。
「…びょういん、から、かえるとき」
「ん」
舌足らずな話し方が幼い子供の様で、ますます親子にしか見えなくなってくる。
「あし、あんまりうごかさないようにっていわれてたから、ばす、のったの…っ」
そこまで言って、一旦言葉が途切れる。「それで?」と青峰が問い掛けると、少年は再び涙をこぼし始めた。
「そし、たらぁっ」
「うん」
「たこーせー、が、いてっ」
泣きじゃくりながら話す少年を、青峰は真剣な表情で見つめる。
ぼろぼろ零れる涙を拭いもせずに話を続けようとする少年に、黒子がそっと手を伸ばして頭を撫でる。
「…っ、ふ、ぅ」
「それで、何があった」
泣いてちゃわかんねぇぞ、と、青峰が口調の割に優しい声音で告げる。お姉ちゃんもいるから大丈夫だよ、と少年の手を握ってやると、ぎゅっと握り返された。
小さな手がかたかたと震えているのには、青峰はいつから気付いていたのだろう。
「ばすけ、ぶが」
「ん?」
「どーせ、きせきだけっ、て、ごにん、いがいはっ、よわいって、いわれて」
「!」
少年の言葉に、その場にいた全員の動きが止まった。
『キセキの世代以外が弱い』なんて、心外にも程がある、と桃井は思う。
帝光中バスケ部は元からレベルが高く、その中でも特に優れた才能を持った段違いのメンバーが『キセキの世代』と呼ばれているのであって、決してその他の部員が弱いわけではない。
「でも…っ、ぼく、そんなことないの、しってる、からっ」
「いっちゃん…」
「いい、かえしたっけ、どぉっ、きぃてっ、くれ、なくてっ」
しかも、そんな根も葉もない偏見を、誰より上級生達を慕うこの少年の前で軽々しく口にするなんて。
桃井は何処の誰とも知れぬ他校生に対して内心ひどく憤った。
目の前で敬愛する部の仲間を馬鹿にされて、この少年はどれだけ傷ついただろう。
悔しそうに小さな拳を握り締める姿に、桃井の胸はきゅうっと痛んだ。
「そっ、れでっ、だまって、ろ、って…つき、とばされ、て…っひ、っく…ぅ…っ」
「…」
「ぼく…っ」
「…頑張ったな」
青峰が少年を抱き締めてやると、少年はしがみ付く様にして泣きじゃくる。嗚咽に混じって『悔しかった』と聞こえて、青峰は少年の背中をぽんぽんと撫でてやった。
後は俺らに任せとけ。そう呟いた青峰の瞳には、強い意志が籠もっていた。
キッチリお返ししますとも、ええ
「――桃井に調べてもらったら、来週の練習試合の相手だったみたいでね。そこそこ強豪だから調子に乗っているんだと思うよ」
「マジすか。本気でツブすしかないっすね」
「わんわん泣かすとかそいつらゆるさねーし」
「盛り上がってるところ悪いですけど、その試合に出るの、一軍からは緑間君だけですよ」
「…よし緑間、点差五倍つけてこい」
「それはさすがに無茶だよ大ちゃん…せめて四倍にしとこ」
「五十歩百歩なのだよ…」
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でも結局トリプルスコアくらいはやらかしてくれる緑間君、とかかわいいと思う。
主人公はなんだかんだ言ってみんなに大切にされてればいい。
そして青峰君はお父さんポジだといい。
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