いや、そんな奴いる訳ないか。
だいいち学校での俺はホントの俺じゃないんだし、店だってあかり以外の奴は知らないんだから。
そうだよな、なんて一人納得してまた問題に向かおうと顔をノートに下げ肝心な事に気付く。
そういえば、辞書は机じゃなくて鞄の中。そろそろ授業で当てられそうだし、明日の朝早めに行って少し予習でもするかと帰ってすぐにしまったんだっけ。
あかりの事だからそんな事には気付かないだろうし、鞄まで漁る事もしないだろう。
こんな事なら最初から俺が取りに行けば"ケチ"なんて言われる事もなかったのにと溜め息をつきながら立ち上がり階段を上がり部屋の扉を開けると、暗闇の中机の前に佇んでいたあかりがゆっくりと振り返った。
「………瑛くん……辞書、ないよ……。」
「電気ぐらい点けたらいいのに……。つーか、辞書程度の事で情けない声出さない。」
"電気"とは言いつつもここは自分の部屋。
真っ暗闇でも歩けるし、躓くような物もないし、今日は窓からは月明かりが入ってなにも見えない状態じゃない。
すぐに店に降りるんだからまあいいか、と俺も電気は点けずにあかりの傍に近付き、椅子にもたれさせてある鞄に触れた。
「悪い。こっちにしまったの忘れてた。―――ほら、辞書。」
「ありがとう。でも、これなら瑛くんが取りに来てくれたら―――。」
「忘れてたんだ!あれくらいなら辞書なんかいらないの!」
「瑛くんを基準にしたらダメだよー。」
「違うだろ。おまえはケアレスミスが多いんだよ。普段から落ち着きがないから―――。」
細かな表情は分からなくても、口調や雰囲気であかりがどんな顔をしているのか分かる。いつもの習慣のようにチョップをしようと右手を振り上げかけて、ふと気付いた。
なにも、こんな真っ暗な中でどうでもいい会話なんて続けなくても。
それに、さっさと宿題も終わらせたらあかりも早く帰してやれるんだし、俺も早く寝られてちょっとは睡眠不足も解消出来る。
振り上げかけた右手を下ろして身体の向きを変えようとしたところで、さっきの会話が頭に浮かんだ。
*求める事が愚かでも*