王妃の日記 | ナノ


 ◇外伝U:湖は白く凍りつき−15/16−
それからのことは、あまりよく覚えていない。
ただ闇雲に国から逃げて人を襲う元人間の吸血鬼達を見つけては殺して回った。
あんなに飢えに苦しんでいたのに、不思議と狂気に堕ちる予感はしなかった。
ただずっと、ずっと、湖雪のことだけが胸を占めた。
あの髪を撫で、肌の温度を感じ、小さな唇に触れたかった。
あの甘い声で名前を呼んで、子猫のように擦り寄って欲しかった。
吸血鬼の本能は満たされているはずなのに、人間としての心が湖雪を求めていた。
愛しくて、恋しくて、逢いたくて、堪らなかった。


どのくらいの年月が経っただろう。
不覚にも深手を負い、森の中に倒れて動けなくなっていると、一人の人間が現れた。
栗色の髪にやわらかな瞳をした女性だった。
彼女は俺を森のそばの小さな家に連れて帰ると、手厚く看病してくれた。
俺が吸血鬼だと言っても驚くだけで、追い出すそぶりもなかった。
それどころか、怪我による失血で久方ぶりの渇きに襲われた俺に血まで差し出してきた。
なぜそこまでするのだと問えば、色褪せた写真に目をやりながら穏やかに笑った。

「だってあなた、寂しそうだから。きっと大切なものを失ったのでしょう。……私もそうだから、わかるのよ」

その時、湖雪を失ってから初めて泣いた。
零れてしまった涙は止まることを知らず、俺は彼女に縋りついて声をあげた。
彼女は俺が泣き止むまで、やさしく背中を撫でてくれた。


彼女との時間はひどく心地よかった。
湖雪を求める心は変わらなかったけれど、失ったものを互いに埋め合うことで孤独は俺から確かに遠ざかった。
いつしか子供も生まれ、年が変わるごとに一人二人と増えていった。
俺がさまざまな知識や、技術や、吸血鬼の狩り方を子供たちに教える様子を、彼女は目尻に皺を寄せてどこか嬉しそうに見つめていた。
子供たちが皆巣立った頃、彼女は日のほとんどを床で過ごすようになっていた。


「ねえ、あなた、一度お墓参りくらいしてきたら?」

彼女は出会った時と同じやさしい瞳で囁いた。
誰のかなんて聞かなくてもわかった。

「墓なんて、ないよ」

「でも、その方に縁のある場所や物くらいはあるでしょう?」

「何で今さらそんなことを言うんだ?」

「こうして一日中ベッドにいるとね、いろんなことを考えるのよ。私が死んだらお墓を作ってくれるでしょう?そこにあなたがずっと来てくれなかったら、寂しいなって思って」

「そんなこと……」

あるわけがない。
墓の下には何もない。せいぜい朽ちかけた骸が横たわっているだけだ。
死者は何も語らない。だからそんな象徴的で感傷的な物、意味がない。
すると彼女は、「違うわ」と、困ったように笑って言った。

「どうして人間がお墓を作るかわかる?その人を忘れないためよ。ことあるごとにお墓に行って、話しかけて、悲しみをゆっくり思い出にしていくの。そうしながら、その人の死を受け入れていくのよ」

幼子に言い聞かせるように彼女は俺の手を取った。
その手は皺が増え、かさついていて、けれどもちゃんと、温かかった。

「あなたの心は止まったまま。悲しみを思い出に出来ず、未だに自分を責めている。……そろそろ、赦してあげたら?」

「……俺が、……俺が殺してしまったんだ。……永遠に、赦されない……」

言葉を喉の奥から振り絞って、懺悔するようにその手にしがみ付いた。

「赦しってね、他の誰でもない、自分が与えるものよ。自分を傷つけるのをやめて、苦しまない決意をすることなの」


その言葉を残した一週間後、彼女の手は、温かさを失った。

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