王妃の日記 | ナノ


 ◇外伝U:湖は白く凍りつき−14/16−
湖白…
湖白…
湖白――

湖雪の血は、その存在すべてをもって俺の名前を呼んでいた。

欲しい
欲しい
モット欲シイ――――

いいのよ、湖白
私のすべてを喰らって
あなたと一つになりたいの

本能が俺の中で猛り狂う。
血を、血を、血を血を血ヲ血ヲ――――!!!


どれほどそうしていたのだろうか。
気付いた時には床は血によって真っ赤に染まり、湖雪の身体は血が抜けて真っ白になっていた。

「湖…雪……?俺…、俺は……っ」

「しっ……」

がくがくと膝が震え、絶望に目の前が真っ暗になる。
思わず叫び出そうとした俺を、湖雪は幼子に言い聞かせるようにやさしく宥めた。

「湖白……」

今まで何度もそうしてきたように、湖雪の指が俺の頬に伸ばされる。
しかしその先はすでに結晶と化し、肌に触れる前に脆く崩れた。
指だけではない、湖雪の身体のそこかしこに亀裂が入っている。
腕の中のいとしい命が消えかかっている。
しかし湖雪は、どこにそんな力が残っているのかと言う力で俺の服を掴むと、初めて聞く声で命令した。
それはいつもの甘くやわらかなものとは違う、"他者を従わせる純血種の声"。

「湖白、吸血鬼を狩るのよ。この城から遠く離れて、哀れな同族を狩りなさい。それがあなたの使命。果たすまで死ぬことは許さないわ」

強い眼差しでそう言い終わると、湖雪は幸せそうに微笑んだ。
もう思い残すことはないとばかりに、満ち足りた表情で。
そして扉の方に目をやり、少し悲しげに呟いた。

「……ごめんなさい、お母様」

次の瞬間、やわらかかったその指は固まり、温かかった唇は温度を失った。
湖雪の身体は形を失くし、真珠色の灰となって俺の腕からすり抜けていく。
カランと乾いた音を立てて、灰の中にアテナだけが残った。


どうして湖雪が謝るんだ?

どうして俺は満たされているんだ?

どうして湖雪が動かないんだ?

どうして俺は生きてるんだ?

どうして湖雪が灰になるんだ?

どうして…………

ぼんやりとした思考の中で唯一、湖雪の声だけがはっきりと聞こえた。


――湖白、吸血鬼を狩るのよ。この城から遠く離れて、哀れな同族を狩りなさい。それがあなたの使命。果たすまで死ぬことは許さないわ――


そうだ、狩りに行かなきゃならない。
理性を失い本能のままに血を喰らう、哀れな同族を救うために。

「……行かなければ」

何も考えず、ただ本能が命ずるままにアテナを手にし窓の桟に足を掛けた。
吹き込む風に湖雪だった灰が散って行く。
一度だけ振り向いた先に、両親の姿が映った。

「さようなら、父上、……母上」

さようなら。
さようなら。
愛しい日々よ、遠い時よ。
もうここには戻らない。

降り積もった雪で世界は白く凍っている。
俺は窓から飛び出した。


『湖白……っ、湖雪……っ!!――――あぁああぁぁああああああ!!!』


母上の叫び声だけが冬の空に木霊した。

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