王妃の日記 | ナノ


 ◇外伝U:湖は白く凍りつき−12/16−
『ふふ、ごめんなさい。そうよね、あれから千年も経つんだわ…』

熱した鉄を押し付けたように喉が鋭く焼けつく。
懐かしげに目を細める母上に、これまで感じたことのないほどの飢えを覚えた。
目の前が真っ赤に染まり、全身が脈打つように痙攣する。

「…母上……」

『湖…白……?』

無理やりステップを変えて、人混みに紛れながらダンスホールを横切り廊下へと駆けた。
母上の手を引き、壁とカーテンと大輪の薔薇によってホールから遮断された死角に身を隠す。
窓を背にした母上は不安げに俺を見上げた。

『湖白ったらどうしたの?こんな所に来て…』

「母…上……」

掴んだままの手を強く握り締める。
この人の血が欲しいと本能が叫んでいた。
その細い首筋に思いっきり牙を埋め込み、そこから吹き出す芳醇な血を浅ましく啜りたい。
そうしなければ俺は堕ちてしまうだろう。
幾度となくこの手で葬って来た哀れな同胞たちのように――――。
だから早く……!

「俺……は……」

――――ずっと貴女の、血が欲しかった……。

その瞬間、恐ろしいほどの怒気を孕んで空気が揺れた。
突然向けられた殺気にハッと窓の外を見ると、闇の中で父上が俺を睨んでいた。
それ以上は許さないとその目が物語っている。
あと少しでも身体を動かせば、俺の首は確実に飛ぶだろう。
背筋が凍るのと同時に頭も冷えた。

俺は一体、何をしようとしていた――――?

母上の血を吸わなければ理性を失ってしまうなんて、馬鹿なことを。
理性が足らないからこんな愚行に走るところだったのだ。
この尊い人に牙を穿つなんて、ただ一人にしか許されないことなのに。

『……湖白?』

「……いえ、何でもありません」

ギリギリまで近付けていた顔を離し、自身を落ち着けるために深く息を吐く。
あと少しで取り返しのつかないことをしてしまうところだった。
ここで母上を襲えばどうなる?
王と王妃、第一王子と第一王女という当代と次代の王位継承者の仲が壊れるどころか、謀叛と捉えられても仕方がない。
何より俺自身が自分を許せないだろう。
母上の身体を傷つける上に、湖雪の心も苦しめてしまうことになる。
放たれた殺気にまだ震えながらも、俺は止めてくれた父上に心から感謝した。

『でも何でもないって顔色じゃないわ。真っ青よ…。湖雪から聞いたの。最近体調がすぐれないって…』

何をされようとしたのか気付きもしないで、母上は心配そうに俺を見た。
その慈愛に満ちた表情がさらに俺を罪悪感の渦に突き落とした。

「大丈夫ですよ。すみません、せっかくの舞踏会を抜け出させてしまって」

『本当に?何か言いたいことがあったんじゃ…』

「いえ、何でもないんです。……湖雪が待っているから行かないと」

理性は取り戻したが、飢えはまだ完全におさまってはいない。
一刻も早くこの場から離れなければと、俺は適当にそう言って背を向けた。

そう、背を向けたのだ。
何もなかったのだと自分に言い聞かせて。
すでに取り返しのつかない引き金を引いてしまった事も知らずに。

まさかこの時、廊下の影に真っ青な顔をした湖雪が隠れていたことなど、俺は夢にも思わなかった。

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