王妃の日記 | ナノ


 ◇外伝U:湖は白く凍りつき−10/16−
「……湖白、顔色が悪いわ」

空が白んだ頃、萌香が自室へ帰って行くと、湖雪が心配そうな瞳で俺を見上げた。

「また飢えているの?」

吸血を戸惑う俺を誘うかのように、その細い指先が頬を撫でる。
許しを乞う代わりに小さな唇に口付けを一つ落として、俺は湖雪の首筋に牙を穿った。

ここ数年、飢えの感覚が徐々に狭まってきていることは自覚していた。
最近では誤魔化すことも出来ないほどに。
以前よりずっと強く俺の名前を呼ぶ湖雪の血は、渇きを確かに満たしてくれる。
だからもっと欲しくなる。
もっと、もっと。
抑えが利かなくなるほどに。

愛しい物の血を欲するのは、吸血鬼の本能――――

「……湖……白……、もう……っ、……あっ……」

「……っ、悪い」

湖雪が限界を訴えたところでやっと我に返って牙を抜いた。
気を失う寸前まで消耗しているくせに、湖雪は満足そうな微笑みを見せて俺に身体を預ける。

「悪い湖雪、加減が出来なかった。俺のも飲むか?」

「……ううん、いい」

「だが……」

「いいの」

自分の血は惜しみなくくれるのに、湖雪はあまり俺の血を飲もうとはしない。
手ざわりの良い銀の髪をゆっくりと撫でてやれば、子猫のように頭を擦り寄せて来る。
そんな仕草がいじらしくて、俺は湖雪を抱き締めた。

湖雪の事はいとしく思う。
母上には向けることすら許されないこの感情を彼女にならぶつけられると、そんな卑劣で姑息な動機から始まった関係だったけれど、
あの月の夜から常に俺の傍らにいてくれる湖雪を、ひたすらに愛を向けてくれるこの妹を、いつしか一人の女性として愛するようになった。
彼女の血が俺の渇きを癒してくれるのが何よりの証拠だ。
だけどこの想いをどう伝えればいいかわからなかった。
気の利いた言葉一つ言えない代わりに、幼い頃から大切にしていたアテナを贈った。
唯一の家族との絆だったその短剣は俺の心の支えだった。
でも俺にはもう家族がいる。湖雪がいる。
孤独に苛まれ続けていたあの日々が嘘のように、幸せだった。

あのころ母上に対して抱いていた想いは、雛鳥が初めて見た人間を親だと錯覚するようなものだと、とうの昔に結論付けていた。
あの美しい人を母と呼ぶことに、今では何の抵抗もなかった。

――――そのはずなのに。

ここ数年、母上の姿を見るとどうしても喉が渇くのだ。
以前より強くあの甘い香りを感じるようになり、それが誘発剤となって俺の理性を脅かす。
何百年も昔に割り切ったはずなのに、未だに罪深い感情が残っているのかと、その度に自己嫌悪に陥った。
あまつさえ、あの血が欲しいなどと、思ってしまうなんて――――。

こんな感情は一時の気の迷いだ。
俺には湖雪がいるし、母上には父上がいる。
あの人は俺の実の母親で、吸血鬼の頂点に君臨する王の妻だ。
どうあっても許されることじゃない。

湖雪という恋人の存在を確認するように、その細い身体に回した腕をいっそう強くした。
この時の俺は、自分のことでいっぱいで気付かなかった。
苦しんでいたのは自分だけではないことに。
腕の中の湖雪が、今にも泣きそうな顔をしていたことに。

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