王妃の日記 | ナノ


 ◇第四十罪:追憶U―クロト―−6/12−
「国王陛下、王妃陛下、御無沙汰致しております」

「姉上、こんな時に堅苦しい挨拶などやめて下さい」

「……枢、白亜、久しいな」

『百合姉様っ!』

恭しく膝を折った百合姉様に抱き付けば、その身体の細さに驚いた。
美しかった肌はくすみ、目元には深い隈ができ、明らかな疲労の色が見て取れた。
お痩せになられた…。

「姉上、せめて文の一つでもくだされば迎えを寄こしましたのに」

「六日前に早馬を送ったのだが、どうやら私達の馬車の方が早かったようだ。…きっと道中でタナトスに感染したのだろう。なんにせよ、急に押し掛ける事になってしまったな。すまない枢」

「いえ、そんなことよりどうして城へ…?」

『百合姉様、公爵はご一緒ではないのですか…?』

百合姉様と橙茉公爵は傍目にも仲睦まじいご夫婦だった。
ご結婚されてからというもの、お二人が離れているのを見た事がない。
恐る恐る訊いた言葉に百合姉様の顔が曇った。

「夫は領地を離れられないと…、領民を放ってはおけないと言って屋敷に残った。神に誓って結ばれた夫婦だ。万一タナトスに罹ったとしても、最期まで夫と共に居るつもりだった。もう隣町までタナトスは迫っていたからな。しかし、子供たちを危険にさらすのかと泣きながら叱咤されれば致し方あるまい。……今生の別れを告げてきたよ…」

『そんな…、姉様……』

「そなたが私の代わりに泣く事はない、白亜。もう私は存分に泣いてきたのだから」

百合姉様は弱々しく微笑みながら私の涙を拭った。

『でも…っ』

「そなたはこの国の王妃だろう?そして母親だろう?しっかりしろ」

『……はい』

幼子を宥めるように、百合姉様は私の髪をやさしく撫でた。
そして凛と枢に向き合った。

「枢、能う限りの物資を持って来た。小麦粉、砂糖、塩、薬草、薪。そしてこの有事に何かしらの役に立ちたいと志願する若者を二十名ほど。そのうち五名は医学や薬学の心得がある。どうか使ってやってくれ」

「助かります姉上。長旅でお疲れでしょう、急いで部屋を用意させます」

「いや、その必要はない。父上と母上はそなたたちに王位を譲って以来、城の敷地内の離宮にいらっしゃるのだろう?そちらを使わせてもらう。私たちに要らぬ時間と手間をかける必要はない。孫の顔を見せる事も出来て、親孝行にもなるだろう」

「いえそれが…、父上と母上はその離宮を城に逃れてきた家臣の家族たちに当て、ご自身たちはこの王城の一室にいらっしゃるのです」

お義父様とお義母様―――上王陛下と王太后様は、ずっと穏やかなご隠居生活を望まれていたにもかかわらず、タナトス発生後すぐに国政に戻られ、私達を指導し政務を補助してくださっていた。
百合姉様は一瞬驚いた表情で瞬きをした後、ふっと吹き出すように笑った。

「なんと、父上らしい!いや、母上のお考えか?それならば、私達はその次の間でも使わせてもらおう」

『そんな…、百合姉様!どうぞ私の部屋をお使いになってください』

「いやいや、私が王妃の部屋を使う訳にはいくまい?」

『では私の王女時代の部屋を。内装は少し子供っぽいかもしれませんが、絵本や玩具もそのままにしてありますから、姫君や若君のいい退屈しのぎになるでしょう』

「そなたの部屋か。ふふ、懐かしいな…」

『ええ…』

降嫁される前の百合姉様と、よく一緒に遊んだ部屋。
少女時代のやわらかな思い出がいっぱいに詰まった場所。
もう決して戻らない、輝かしい日々。
いつのまにか遠く遠くに擦り抜けていくそれを眩しげに見つめるように、百合姉様は目を細めた。

「よし、有り難く使わせていただこう」

「姉上、風音と颯真そうまはどちらに?」

「ああ、あちらの部屋にいる。初めての王城に興奮しているようでな。馬車の中ではよく眠っていたのに、今は侍女たちを困らせているだろう。そなたたちの睡眠をもう少し邪魔してもいいのなら挨拶をさせたいのだが、どうだ?」

『是非会いたいわ』

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