シアワセカケラ
「幸せって感じる瞬間は何時ですか?」
街は人で溢れている。何処を見渡しても人、人、人、人、人、人、人人人人人人。 人という名の海の中で溺れている様な気分になってくる。 酷く酔ってしまいそうだ。
何かの企画なのだろうか。にこにこしながら若い女性リポーターが数人のカメラマンを引き連れ、自分の近くに居た若い男にインタビューをしている。 この世界的不況のご時世に何ともご苦労なことである。
「幸せ」か。 今ではどこにでも転がっている安い言葉になった物だ。 「幸せ」なんてもの、一言で言い表すことが出来るほど簡単でも、安くもないと、少なくとも自分は思っている。
自分にとっての幸せ。幸福。望み。 強いて言うのならば、明日も今日と同じように過ごせること。なのだろうか。自分は変化を望みはしない。人とも関わらない。人と関わったら、変化してしまうから。 今日と同じ明日を。ただそれだけを。
まさか電車が遅れるなんて。 待ち合わせの三十分も前に着く予定だった僕でも想定外だ。早く行かなくては。あの時計台に行かなくちゃいけないのに。少し怒りっぽいあの子は待っててくれるだろうか。 遅れる。 たった四文字のメールを慌てて打ったのももう二十分前の事である。 焦る僕の気持ちを知ってか知らずか、歩いている人は僕の道を塞いでいくように感じる。 人を突き飛ばしてでも行きたいのに。いっそのこと突き飛ばせでもしたらいいのに。 頼むから退いてくれよ。嗚呼、本当にもどかしい。いらいらする。 そんな時、不意に声が掛かる。
「すみません」
一体何なんだ。
「すみません、急いでいるので。」
ふざけんな。そう言いたい気持ちを抑え、声の主に答える。というかなんでこんなに急いでいる時に限ってなんだ。どうして今なんだ。後でにしてくれよ。 後でならいくらでも答えてやるのに。
「急いでいるので他の人にしてくれません?」 「すぐに終わりますのでアンケートにご協力お願いします」 「…。何ですか。早くして下さい。」
言ったが早いか、マイクが向けられる。
「幸せって感じる瞬間は何時ですか?」
一瞬、声が出なくなる。 「幸せ」。僕にとっての幸せ。一体何なんだろうか。そう改めて言われると考えてしまう。
「…。布団に入って寝る時」 「そうなんですか…。お手間取らせちゃってすみません。アンケートにご協力有難うございました」
そう言うとリポーターは聞く前と同じ笑顔をして去っていった。 あの子はまだ待っていてくれているだろうか。怒りっぽいあの子のことだからこれ以上待たせると帰ってしまうような気がする。 もうそろそろ着くから待っていてくれよ。お願いだ。
*
遅い。本当に遅い。一体あいつは何をしているのだろう。 遅れる。 そう素っ気ないメールが来たのも二十分位前だ。何で遅れるのか説明して欲しい。いくら何でも遅れる。の文字だけで何かを察するのは無理だ。少なくとも私は。
二十分も待ったのだからもう帰っても良いだろうか。正直もう帰りたいのだが。 もうそろそろ来るか、新しいメールがあってもいい頃だろう。せっかくお洒落も気合いを入れてしてきたのに、興ざめだ。早く来てよ。 携帯が気になって、十五秒ごとに携帯を開いては新着メールと着信履歴を見てしまう。連絡は、まだない。
携帯に付いている彼から貰った黒猫と猫にくっついている「幸福」を表す四つ葉のクローバーのキーホルダー。もう長い間付けているから少しほつれている部分もある。他に携帯には何も付けていない。 あまりじゃらじゃらしていなくて些か淋しい。と正直自分でも思う。 事実、友達から貰ったキーホルダーなんて沢山ある。 だから携帯に付けるものはいくらでもある。でも、なんだか携帯にはこれ以上新しいものは付けたくなかった。 何故だか分からないけれど。
そうだ。あいつが来たら何をしてやろうか。まず遅いって拗ねたように言ってみて。遅れた罰だよって言って、プリンを買ってもらおうか。それともケーキを沢山買ってもらおうか。 でもそんなに甘い物食べたら体重が心配だな…。 だけど、私の言うことを三つ、聞いてもらうのも捨て難い。 でも、やっぱり一番は新しいキーホルダーを彼に買ってもらうことか。 そんな時、いきなり携帯が震えて新着メールを受信する。
ごめん、あと十分くらい。
十分か。なら待っていようじゃないか。でも十分は一人で待ってるにはなかなか長い。あいつは女の子が男を一人で待つ時間の長さの感覚を分かっているのだろうか?
僕はなるべく手にした荷物を傾けないように走っていた。 一分でも一秒でも早く着くために。 この調子で走っていればあと二、三分で着くだろうか。
「遅れちゃって本当にごめん。」
そう彼女の後ろの方に回り込んで驚かすように言ってみれば、ベンチに座ってぼーっとしていたあいつは驚いて顔を上げた。 酷く驚いていた。それまもそうだろう。 あと十分というメールをしてからほんの二、三分しかたっていないのだから。 はっと我に返ったように
「遅いよ」
と膨れ面をしながらあいつは言う。続けて、
「遅れた罰として」
と言うから僕は
「プリンですか。お姫様」
とシニカルに笑いながらあいつの言葉の続きを遮ってやった。あいつはまた驚いたような顔をしてから頷いた。
「分かってるなら早くケーキ屋に行こうよ。とにかくいっぱい食べたいの。それにさ、二十分以上も一人で待っていたからお腹空いちゃってさ」
わざとらしく言われる。嫌みか。まぁ嫌みだろうけど。
「この箱が見えないのか。家でゆっくり食べようよ。ちゃんと二人で三つずつ食べられるように六個買ってきたんだから」
そうケーキの入った箱を見せながら言ってから僕は歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで女の子置いてさっさと行っちゃう訳?少しは考えなさいよ。腹立つわね。 それにケーキ三個じゃ足りないから。六個とも私が食べるからね。いいでしょ。私のこと待たせたんだから」 「お前…ケーキそんなに食べるのか?別に分食べてもいいけど。あと二人で食べるようにと思ったから同じ種類の奴があるぞ」 「うるっさいわね。いいの。とにかく甘いものが食べたいだけだから」 「後、僕が言うのもあれだけどそんなに食べると太るぞ」
僕がそう言うとあいつは怒鳴った。
「はぁ?あんた女の子に向かって太るとか最低!これから絶対言わないでよ!傷付くんだから。ほんっとデリカシーの無い奴!こっち寄らないでよ。 デリカシー無いのが移る気がするから!」
おいおい、そんなに大きい声だと周りの人の迷惑になるぞ。
「何にそこまで言わなくても…」 「五月蝿い!あんたは黙ってて!もう何も喋るな!」
そんな…いくら何でも酷いだろう。だがとりあえず、僕は何め喋らなかった。 聞こえて来るのは車の行き交う音と、周りの人の喧騒。時折車のクラクションが鳴る。
「もう!喋るなって言ったら本当に黙るなんてありえない!冗談に決まってるでしょ。少しくらい分かりなさいよ。 あ、それから言い忘れてたけど、またキーホルダー買ってよ。今の、もう壊れそうなの。今度はあそこのお店のあのキーホルダーがいいの」
今度はきちんとお店まで指定か。
「今すぐがいい。早く行こう」 「了解だよ。じゃあそのお店まで行こうか」
分かりましたよお姫様。僕はあなたの忠実なる部下ですよ。何なりとお申し付け下さいな。
「幸せって感じる瞬間は何時ですか?」
ふと、脳裏に浮かんできた言葉。 あの時は寝てる時と答えたけど、やっぱ今。人と関わってる時。こいつと会っている時。こんな風にこき使われているけれど一番幸せなのかもしれない。そう感じる。
今日も家に着くのは昨日と同じように遅かった。この分だと明日も遅いだろう。 それでも。 自分は変化を望みはしない。人との関わりを望まない。
変化は、エラー。異常。失敗。故障。怪我。変革。一新。排除。排斥。絶望。絶無。苦痛。苦難。哀傷。痛哭。悲痛。辛さ。倖せ。僥倖。幸運。幸運。幸運論。 一昨日と同じ昨日を。昨日と同じ今日。今日と同じ明日を。明日と同じ明後日を。
辛さは辛さのままでいい。人と関わらない。だから倖せにならなくていい。 ひたすら同じことの繰り返し。でも飽きることはない。 明日の為に、今日と同じことをする為に、今日はもう寝ることにしよう。 そう思い、部屋の電気を消した。 部屋は沈黙に包まれた。
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