エロースは誰にも微笑まない アルルル


 まだ完全には拭いきれていない水分をタオルでがしがしと拭きながらバスルームを出て、キッチンにある水を取りに行く。ラティウムの気候は常として温暖ではあるが、ここ最近は比較的高めの気温をたたき出している。暑い暑いと口にして少しでも清涼感が得られるのならば別だが、言葉にしたところで暑さは変わらないのだから諦めもつくというものだ。
 俺がシャワーに入るまでリビングでくつろいでいたはずだが、とルルを無意識に探していることに気がつき、アルバロは苦笑した。勿論心の中で。

 ここラティウムは一の壁、二の壁、と目に見える明確な壁が存在し、一見すると酷く安全な場所のように思える。けれど物騒と言えば物騒だし、決して危なくない訳ではない。そう自信を持っているのは、アルバロが仕事先として身を置くギルドがこうして存在しているからだ。本当に安全ならば、ギルドなんてものは存在するはずがない。とは言え、アルバロ自身がギルドがあることによって、ある種の精神の安定を保っているのだから無くなってしまえということはできないが。
 日も暮れたこの時間に気軽に外に出るほど愚かではない、はずだ。少し頭が足りないだけで。けれどルルの成すことに対して絶対に、と断言できないあたりにアルバロがルルをどう思っているのかがにじみ出る。
大方トイレにでも行っていたのだろう。水を飲んでいると、突如背後に感じる気配。それがよく知ったものだから、アルバロはそのまま水を飲み下す。
 職業柄あんまり俺の背後に気配を消して立つと何するか分からないよ? と今更ながら言うのもばかばかしい。空になったボトルを机に置けば、背後にいたルルが動く気配がした。
 何か話しかけられようものならばルルちゃん、と。それこそ甘ったるい声で対応するものだけれど。ルルが次にしたことは、アルバロの考えているそれではなかった。
 肩甲骨の高さ、背中の丁度真ん中辺り。シャワーを出たばかりのアルバロの上半身は衣服を纏っていないから、ルルの高めの体温が伝わってくる。触れるルルのそれに、思い当たるのはひとつだ。

「――ルルちゃん」

 遅れてかかる吐息に、動揺した心の内を見透かされていやしないかと一瞬ひやりとした。今更この程度の触れ合いに一喜一憂する年齢でも、性質でもない方だ。けれど、驚きはする。それがルルからのものであれば尚更。
 悔しいけれど、本当は認めたくもないけれど、心動かされるのはこの魔女だ。子どもかと舐めてかかれば時折大人びた顔をする。そのくせ言動はまだまだ子どものもので。
 出会ってすぐの頃は、無理に大人になろうとしていたのが見えてそれはそれで面白かったけれど、今となってはそれもない。
 ルルが正面にいなくて良かった、と思うのはあの全てを見透かす瞳がこの瞳を捉えれば、年甲斐もなくどきりとしたのを見つけられてしまうからかも知れない。首だけひねって後ろを見やれば、ルルは証に口を寄せるだけでは飽き足らず、腕をアルバロの上半身に回していた。アルバロは、ルルの手に自身の手を重ねようとはしなかった。この後はどんなことをしてくれるのかとルルの腕の中で――収まりきってはいないけれど――ただ大人しくしていれば、アルバロが何もしないのが不満だったようで、もう、と小さな呟きが漏れた。
 子どものような触れ合いが嫌いではなかったらしいが、昔はこんなことをルルからするとは思ってもいなかった。そう、こういうことはアルバロからの『おねがい』事項の一つだったはずなのに。恥ずかしげもなくこんなことをやるようになってしまった。弱点が一つなくなってしまったという意味では少しだけつまらない。勿論、そうなったらそうなったでまたひとつ見つければいいだけの話ではあるのだが。

「何、そんなにこれが気になるの? それとも誘ってるつもり?」

 ルルのその行動に疑問を抱きつつも思い当たるのは背中に印された証だった。返答次第では、背中の蝶は今すぐにも飛び立てる。
 と同時に思い出すのは随分と前にこれを見られたあの朝の出来事だった。そのときに、これがどういうものなのかはルルには話したから、もう一度説明することも、そうする必要はない。それでもあのときのルルの顔は、何かを固く決意した顔をしていた。その決意はどういうものなのか分からないし、今更知ろうとも思わない。そう、どうだっていいことだ。

「アルバロはどっちだと思うの?」

 両方だ、と答えるのはなんだか癪に障るので、とりあえずは後者かな、と口にする。

「アルバロがそう思うのならそうなんじゃない?」
「そ」

 前者か後者か、選ぶのはどちらかだと思っていたが、そうではないようだ。
 ここで証が気になるのだと零せば可愛げもあったものなのに。
 どうせ街を連れ歩くなら可愛い方がいいだろう、と言ったのは過去から戻ってきてすぐのことだろうか。全くもって可愛くない女だ。その女にこうして手綱を握られているのは俺なのだから、事もない。
 そう思いながらも、欲望に抗うのもばかばかしい。久しぶりにここに――ルルが待っているここに戻ったのだ。ここ最近は仕事の忙しさも勿論だが、あのプライバシー侵害魔法具でいつ見られているのか分からないともなれば、迂闊に火遊びをするのは得策ではない。

「積極的なお誘いどうも」

 そっちがその気なら、とアルバロはルルの顔をニヤリと笑って覗き込みながら、ルルの手を首の方へと導く。同時に腰を引き寄せれば、抵抗という抵抗もなく、蜂蜜色をした瞳の視線とぶつかった。
 そうだ、求めているのはこれだ。それは挑発するような強さを持っており、アルバロは柄にもなくぞくりと背筋が震えるのを感じた。喉の奥が引き攣れる。つばを飲み込んだのは生理現象だ。

「俺、言っておくけど据え膳は頂く主義だからね」

 そう口にしたのはどこかにためらいがあるからなのか。

「そんなの、ずっと前からそうでしょ」

 言われて見れば今更だ、とアルバロは思う。ルルをそういう風に教え込んだのは、他の誰でもないアルバロだ。
 アルバロ好みになっていくルルはどこかに羞恥を残しつつも微かに残る理性が見え隠れしてたまらないのに、いざこうして仕上がってしまえば、あけすけで貪欲なその姿勢に渇望を満たされつつも面白くないと思うのはどうしてなのだろうか。好みに染まるのも考え物だ。どこまで自身の色に染め上げてしまえばいいのか、どこから彼女の色が溢れるのを待つのか。その線引きは曖昧だ。
 今だってこうしてアルバロが手を差し伸べれば嬉しそうに受け入れるルルを見て、それが良いと思うのは本心だ。面白いのにもっとと先を求めて、欲しいのに全部はきっと受け入れることができないと思う。そのどうしようもない矛盾は苛立ちとなって、アルバロの表層に浮かび上がる。
 そっと目を閉じるルルに、アルバロを口付けた。この瞬間だけ安心するのはその瞳が何も映していないせいか。絡まりながら、アルバロの中に隠していた欲望がどろりと溶け出すのを感じた。

「……ねえルルちゃん、そんなにいいの?」

 キスの合間にアルバロが問いかければ、ルルはくぐもった声を漏らす。なんと言っているのか聞き取れなかったけれど、言葉の響きからしていい、だろうか。ルルの頭に添えた手に力を込めれば、ルルとの距離がなくなった。漏れた吐息に滲むのは紛れもない快楽の色だった。
 部屋の空気が徐々に密なものへと変化していく。その中心にはアルバロとルルがいた。

「……ここじゃ、嫌よ。ちゃんとベッドにして」

 切れた息で答えるルルの瞳には、甘さだけじゃないものが存在していた。それを見てからアルバロはルルの足元にかしずいた。きっと、自身の瞳にも欲情の色が見えているのだろう、とアルバロは思いながら。

「はいはい、分かってますよ」

 全てがルルの予定通りに事が運んでいるような気がしたので、ルルちゃん太った?と冗談めかしに言えば、視線が肌に刺さるのを感じた。

「冗談だってば。本当に重かったら言わないし、お姫様抱っこもしないから」
「……今日のアルバロは意地悪だわ」
「ルルちゃんから見て俺が意地悪じゃないときなんてあるの」
「…………」

 真剣に考え込むルルを見て、腕に抱え込んではいるがこのまま落としてやろうか、とアルバロは一瞬悩む。
 まあ、確かに。こいつに優しくしてやる時は数える程だし、その優しくしているときだって、何の思惑がないときは数える程だろう。

「確かにアルバロは意地悪だけど。でも、アルバロのくれるキスは、いつも優しいわ」
「……君はいつどこでそんな言葉を覚えてきてるのかな? 答え如何ではそれだって考えなくちゃいけなくなるよ?」
「アルバロが知らないってことはアルバロのいない間なんじゃないかしら」

 そんな分かりきったことは聞いてないんだが、と目を細めれば、その視線から逃れるように瞳を閉じた。それをいいことに、ルルの全てを食べるかのようにアルバロはもう一度口付ける。
 受け入れたのはルルの方で、貪っているのは俺なのに。いつの間にかルルの方がアルバロの全てを欲している。最初に興味を持ったのは自分。けれどその先はルルが先だ。それは間違っていないはずなのに、なんとなく気持ちが負けている気がして。どうにも腹が立つから、アルバロはルルには届かない奥の奥を舐めあげた。


 アルバロの足が進む先は、寝室だ。ルルを抱えたまま器用に扉を開けて、そして閉じる。二人で選んだダブルベッドの上に壊れ物のようにそっと置けば、ふわりとピンクの髪が舞い、それからスプリングがルルの身体を受け止めた。いつもは一人分の温もりしかない場所に、二人分の温もりが灯る。髪を踏み敷いてしまわないように注意を払いながら覆い被されば、ルルは満足そうにもっと、キスを強請った。
 しょうがない、お姫様は優しいのがお好みのようだから。

「優しくしてよね」

 耳元へと降り注ぐ誘惑に吐息を載せ返せば、ルルの身体からは力が抜けた。
 シャツのボタンを外した瞬間、その先に行くのは随分と容易になる。あらわになるルルの全てに、羞恥でルルは困ったような顔をするかと思いきや、アルバロのマゼンダを強く見る。いっそ目でも閉じてくれれば、と思うのに、そういう時に限ってルルは瞳を閉じない。やはりこの瞳は苦手だ。一度目を閉じたのは、アルバロの方が先だった。

「ルルちゃん、こういう時って普通目を閉じるものじゃないの?」
「さあ、私は他の例を知らないもの。アルバロと違って」
「そういうとこも含めて俺のこと好きになってくれたんじゃないの」

 過去は、変えようがないと知っているはずなのに。ルルはそう、口にした。今までの女ならば、萎えたと放り出すのも簡単なのに、それを口にするのがルルだというただその一点が、アルバロの心に火をつける。むしろ、そうこなくては面白くない。

「アルバロだってそういうこと言う私のことを好きになってくれたんじゃないの」
「俺はお前みたいにぴーぴー喚く口は持ってない」

 その言葉に、アルバロが最初に感じたのは苛立ちだ。憎たらしいことばかり言うルルの小さな口は塞いでしまうに限る。追い詰めるつもりでいるのに、逃げ場所を一つずつ潰されていくようだ。これだから支配しているつもりなのに、いつの間にか支配されているような気分になるのだ。

「拗ねないでよ。……アルバロが意地悪だからちょっとした意趣返しよ」

 あからさまなアルバロの態度に、やりすぎたと思ったのか、幾分落ちたトーンが聞こえた。

「でもいいわ、アルバロにとって私が最後の人になればいいんだもの。過去は変えられなくても、未来は分からないでしょ」
「そりゃ、ね」

 いつまでたっても嫌いな『未来』というその言葉。不確定要素が多すぎて、手に負えるものじゃない。
 アルバロはルルの腰のラインをなぞった。沈み込むベッドは、スプリングが軋むように悲鳴を上げる。その音すらも、次第にルルの上げる声に負け、部屋を支配するのは掠れた声と時折上がる悲鳴にも似た嬌声。それと何かを堪えるような苦しげな吐息だった。

「今のアルバロの目、凄く綺麗ね」

 上がる呼吸を抑えながら伸ばされたルルの手が目元に伸びてくる。一年ほど前までついていたタリスマンを確かめるように撫でた。こんなところに気を回すなんて余裕じゃないかとも思ったけれど。

「燃えてるみたいにぐらぐら揺らめいてるわ」

 猫が獲物を探すかのように細められたその瞳で、自身の奥にあるものを探られている気がする。けれどそれはアルバロにとっても同じで、こうして無防備なルルの瞳の奥を探るのも簡単なことだ。お互い様だ、とばかりにルルの喉元にかぶりつけば、喉元を捕らえられた恐怖からか、それとも別の感覚からか。ルルは甲高い声を上げながら身体を弓なりにしならせた。


 ルルには動く気力がないのか、荒い息のまま、ぐったりとアルバロの胸にしなだれかかる。アルバロが悪戯めかしに少し身体を揺すれば、咄嗟に胸にしがみつくような形になる。まだ繋がりを解いた訳ではないので、ルルの震えが直に伝わってきた。ルルは嬌声を上げた後、恨めしげにアルバロを睨んだ。
 こんなときだけだ、本当にこの女を支配していると思えるのは。もう少女と呼ぶには、色香を纏いすぎている。女だとか、男だとか、アルバロは常として意識している方だけれど、こういうときはきっと男女であまり差がないのだと、アルバロは思う。食うか、食われるか。捕食者か、被食者か、このベッドの上ではどちらかしかない。
 自身は被食者であるかと問われれば否と答える。ならば、アルバロの上で快楽に身をくねらせているルルが被食者かと問われればそれもまた違う。いつだってルルは、大人しく『食われてくれる』ことなんてなかった。精神的に屈服させたり、力で押し返したり。どの方法を試してみても、ルルの瞳の輝きは途絶えることはなかった。
 アルバロを受け入れたルルのそこをなぞれば、弛緩していた身体を震わせた。
 狂気にも似た乾きは恋と呼ぶには生々しく、愛と呼ぶにはまだ育ちきっていない。それならばこの気持ちになんと名前をつければいいのだろう、と考えたときに、アルバロの中に浮かんできたのは執着という言葉だった。
 そうか、俺はこの女に執着しているのか。
 少女を女にしたのは俺だというのに。自分の知らないところで誰かに足跡をつけられるのは腹が立つ。こいつの知らないもの全てを与えてやりたいとまでは流石に思わないが、どこかで俺だけが、と思っているのも確かだ。ルルの楔になれるのは俺だけだ。
 思った以上にすとんとアルバロの中に落ちてきたその言葉に、アルバロはなんだか少し泣きたくなった。
 帰る場所は、帰りたいと思うのは、こいつのいるところなのだ。
 好きだという言葉はアルバロを縛り付け、アルバロを求める腕は鎖になり、愛してるという言葉は呪いだ。こんなことをやってのける彼女を魔女と言わずしてほかの何になる。

「ある、ばろ」

 湧き上がる衝動に鼓動とリズムを合わせれば、ルルの声はなお一層強く上がる。初めのころは生々しい音にすら顔を赤らめていたのに、どうしてこうなったのか。

「ルル、ちゃん。そんなに締め付けないでよ。俺の、食いちぎっちゃうつもりなの」
「そんなこと、ない、……もの!」

 とんでもないものに捕まってしまった。逃れたいと思っても逃してはくれないだろう。ルルのその身ひとつが、全てを絡めとる。

「ねえ、ってば……!」

 返事をするのも面倒げにちらりとルルを見やれば、ルルの蜂蜜色は蜂蜜なんて呼べるほど穏やかではなかった。瞳の中心に映り込む自身のマゼンダは、炎のように鮮やかで、それを内包する蜂蜜はぎらりと光っていた。欲に濡れた瞳は酷く美しい。それはアルバロの中心を射抜いた。

「余計なこと、考えないで」
「それがお前のことでも?」

 目の前のことだけに集中しろ、ということか。
 こくん、と頷くルルを見て、許可はとったからな、とばかりに更に強くかき抱いた。触れる角度が変わったからか、苦しげに、声を漏らすけれど、知ったことか。求めてきたのはお前の方だし、そこにあるのは苦しさだけではないのだから尚更だ。

「もっと、ちょうだい」

 何よりも甘い誘惑に、抗う気などない。このまま蜃気楼に似た夢に堕ちてゆこう。こいつによってなら、それも悪くない、なんて思うなんてどうかしてると思うけど。



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