潮の香りは遅行性の毒 【遙凛】


 久しぶりの実家に戻ってベッドに寝転がってイヤホンで音楽を聞いていれば、隙間からインターホン音が割り込んだ。寮ならは暑ければクーラーは付くし、寒ければ暖房も付く。家のクーラーも付かない訳ではないけれどクーラーを付けるほどでもない暑さに、凛は我慢を選択した。
 まあ、これくらいならばまだ、耐えられる。纏わりつくぬるっぽい暑さに、身体がやんわりと汗ばんだ。
 ぽーん。軽い音に上半身を上げる。ああ、確か家には誰もいないんだったっけ。片耳だけイヤホンを外し、ちょっと待っててくださいと声を掛けながらサムターンを回した。こんな時間に誰だろう。もうあと何十分で日は落ちてしまうのに。近所の人だろうか。都会とは決して言えないここは、親戚から送られてきた果物などを近所の人におすそわけすることがままある。この前は桃に梨だったが、時期的には西瓜になるのだろうか。西の瓜と書くそれに、俺は太陽を見た。
 扉を開ければそこにいたのはハルだった。見慣れたスニーカーに見慣れた財布。見慣れた自転車、見慣れた顔。どちら様でしょうか、という言葉は声にならなかった。
 凛、海に行こう。
 ハルに言われて思い浮かんだのはテレビで聞いた電車会社のCMだった。海、うみ、ウミ。何度聞いてもハルが口にしたのは潮混じりの天然物だった。凛。ハルがもう一度俺の名前を呼んだ。尖ったようにも感じるその名前は、少し硬質だ。イヤホンを外して、廊下に置いた。風鈴の声を背に、着の身着のまま財布だけをポケットに突っ込んで、靴を履く。
 急がないと、電車に間に合わなくなる。ハルはそう告げたが、いくらなんでもそれは不条理というものだ。とはいえ、一本電車に乗り過ごすと次は一時間後、なんてこともざらだ。乗り遅れたとしたら、暑い駅で待つことになるのは自分で、出来ることならばそれは回避したい事項だ。とすれば、すべきことは一つ。
 思いがけぬ訪問者に息をつく間もなく玄関の鍵を閉めた。照りつける西陽に押されて風鈴が涼やかな音を立てる。風が吹いていた。どこの海に行くのだろう、ハルに聞いても駅に向かう足を緩めることをしない。
「次の海岸行きは十五分発だ」
 あと二十分しかねーじゃねーか!

***

 乗り込んだ電車はがらがらだった。車両には老人が一人と、窓の外を見続ける少年が一人。どこの席でも座りたい放題だった。
 クーラーの効いた車内に身を任せれば、汗は徐々に引いてそのまま眠ってしまえそうだった。
 そもそも、今日、俺が家にいなかったら、ハルは無駄足だったのだろうか。仮にいなかったとしたら、ハルはどうしていたのだろう。あのまま、俺が帰るまで待ちぼうけをしていたのだろうか、と考えた。もしかしたら、ハルは待ち続けてくれるかも知れない。ごく自然にそう思い、それからすぐに否定した。そんなはずがある訳ない。俺だったら、きっと待たないだろう。突き放して、切り捨てて。今更どの面下げて、そんなことができるというのか。
 昔。そう、随分と昔、まだスイミングセンターに通っていた頃、ハルとこうして電車に乗ったことがあった。たしか、二人きりで。真琴と渚はどうしていなかったのだろう。理由を思い出してみるけれど、記憶の引き出しは鍵がかかってしまったかのように開くことをしなかった。
 てっきりボックス席にでも座るのだろうかと思っていたけれど、ハルが腰掛けたのはボックス席と扉の間のスペースにある席だった。振り返らなければ外の景色も、線路の軌跡も見えない二人がけの席。
 なぜ、その席を選んだのだ。他にも空いている席はあるというのに。絵面的に男が二人、それも他に空いている席があるのにわざわざ隣に座るのはどうだろう。先に行くハルの背を見ながら、ハルと離れた席に座ることも考えたけれど、それも少し違う。知り合いでも何でもない赤の他人ならば、迷わず離れた席に座れるのだろうけれど、困ったことにハルとの沈黙を悪くないと思う程度の距離感を、俺は保っていた。別に他の人の目が気になる訳ではない。ただ、俺の中で、納得出来ないだけで。
 こんなとき、女なら躊躇することなく隣の席に座ることが出来るのだろう。男女間でしか形にならない関係があれば、同じように、男同士でしか成立しない関係があるだけだ。ハルとの関係はきっとそこに位置するもので、俺の中の奥深くに根を張っている。
「おい、ハル」
 嗜める声に、ハルは意に介さない。ああ、昔からハルはこうだ。穏やかでたおやかに見えるくせに、中身は随分と熱い。触れれば火傷しそうで、それでいて触れたくなるのだから困ったものだ。きっと、ハルは俺の中の楔で有り続ける。
 それでも、ハルが座ってしまったのだから仕方ない、俺はその隣に座るしかなかった。暇を潰せるような道具を持ってくれば良かった、と今更ながら思う。参考書でも教科書でもいい、退屈をまぎらわすものが欲しかった。
 にゃあにゃあ。三毛猫が浮かぶ。
 沈黙は嫌いじゃないけれど、退屈は猫をも殺す。三毛猫は俺の頭の中で動かなくなってしまった。
 通路を越えて向かいの窓から見える景色は右から左へと飛びすさる。まるで景色の方が一方的に撚けているようだ。灰色ばかりだった景色が緑と、一瞬で開けてそれから青ばかりに変わった頃、
「なあ、ハル」
 しかし返答はなかった。ふと横を見れば静かに寝息が聞こえた。誘ったのはハルの方なのに。何処かによりかかるでもなく、腕を組み俯いて目蓋を閉じるハルに抱いたのは、もったない、だった。
 今までも何回か、ハルの瞳は夜空が溶けて流し込まれたのではないかと錯覚することがあった。深い蒼は、そのまま何処かへ引きずり込もうとする。どこにだ。ハルの中にだ。
 水を見て輝かせる瞳の揺らめきは、きっと星だ。決して届くことのない、不安定なそれは。
 あ、携帯忘れた。電車の中で呟いても、隣に座るハルは目を開かなかった。本格的に眠りに落ちているらしい。
 気がつけば、少年は車内にいなかった。どこかで降りてしまったようだった。電車がカーブに差し掛かり、ハルの頭が揺れた。髪が後に続く。ハルは下車駅まで蒼色を隠したままだった。

***

 駅の外に出ると、ふわり、潮が薫った。ざらりと角張った風が吹く。この風なら掴んでしまえそうだ。海は近いようだった。
 あれから数十分、カーブと、それ以外の理由によって動く頭を視界の隅におさめながら、なんとはなしに、外の景色を見ていた。海に向かっているらしい。感情が追いついてきたのは、この段階になってからだった。
 俺たちが駅に降り立っても、電車は次の目的地へと進む。何か、後ろに忘れてきてしまったんじゃないかと咄嗟に振り向いた。先行くハルの背中が遠ざかるけれど、走って追いかけようとは思わなかった。
 もうすっかり暗くなってしまったのに、蜃気楼に揺られた車体が見えた。一部分だけぼやける視界は、水の中で見る世界に似ている。ああ、だけど息苦しくはない。きっとハルが見ている世界はここなのだと、朧気に感じた。ここの風を舐めたら、きっと潮味だ。
 甘いほうが、俺は好きだな。

***

 海の端っこが見えても、小説や映画みたいに海岸に打ち付ける波の音は聞こえてこなかった。密やかな眠りを誘う音だ。
 靴に入る細やかな砂が少しだけ気持ち悪い。案外、駅から海岸までは遠かった。日差しの出ている時間帯ならともかく、闇色に溶ける景色はそのまま水に沈みゆく。海の家も、営業を終了していて、海岸には誰もいない。俺とハルだけだった。
 コンクリートから砂に切り替わる。足に力を入れれば、ぐっと身体が落ちた。足の裏を伝う感触があまりにも違う。力の逃げ方が大きすぎて思うように前に進めないのに、ハルときたらどんどん先へ行ってしまう。どうにかして靴に砂を入れないように歩けないものかと苦戦していたが、ハルを見れば、既に靴などとうに脱ぎ捨てて海へと向かっていた。
 なんか、莫迦らしい。
 俺もハルを真似て、靴を脱いで波に近づいた。夜の海は危ないもの。そうじゃなくても、海は危ないのに。いつだったか江が言っていた。目を瞑れば一層その声は音量を上げる。テレビと違うのは、それを下げるボタンがどこにも見つからないことだった。
「なぁ、何で、海に来たんだ。しかも俺を誘って」
 俺じゃなくても真琴がいただろうに、と思ったが、海は駄目なんだったっけなと思い直す。それにしてもだ。渚だっているのに。
「……分からない。でも、凛が良かった」
「そう、かよ」
 どうして俺なんだろう、ではなく、何故俺だったんだろう。ハルの考えることは、昔の方がちゃんと分かってやれたのに。今の俺では分からない。それが少し苦しい。執着と言われればそれまでで、けれど執着と呼ぶには未練がましくて、切なくなる。執着という言葉は、一方的でもっと仄暗いと思っていたのに、そうじゃなかった。あまりにも眩しいのだ。もっと完膚なきまでに自己に対して中心的でいられたら、こんな事を思わないでもすんだのだろうか。
 砂浜には打ち捨てられた海草と木が寂しく忘れられようとしていた。
「ハルは、何を望む?」
「……何も。このままで、それで十分だ」
 ハルは、気持ちよさそうに空を仰いだ。
 俺はハルが望むのなら、アンドロメダを指輪に変えることだって出来るのに。ハルは何も望まないというのなら、俺に出来ることなんて何もない。
 足先、踝、ふくらはぎ、ひざ。波の先端から五メートルも海に入ったところで、俺は止まった。涼しくて気持ちがいい。だけど、ぬるりとした感覚と妙に湿っぽい空気が少しだけ気持ち悪い。
「なあ、ハル」
 俺はハルの姿を探すように振り向いた。そして見えたハルの眼に、俺は安堵を覚えた。胸の中にいる不安が足元に落ちる。それは水のように砂に染み込んで、直ぐに消えた。まるで、元々存在しなかったもののように扱われるのに、少しだけ怖くなった。きっとほっとしたのは、ハルの蒼色が、海の色と違ったからなのだ。
 波の音よりも、俺のたてるじゃぶじゃぶという音の方が、強く響いた。海水につけた足先からひざだけを残して、波は砂を攫う。そして、次の波でまた押し出す。俺らは、どんなに水が好きでも、どんなに早く泳げても、人間である以上異物だ。
「俺はさ、今ここにいることに違和感を感じるんだ」
「奇遇だな。俺もだ」
「……ハルならそう言うと思ってた」
「そうか」
 暗くて空と海がつながっているように見えても、両者は明らかに別物で、ハルの眼も全然違うものだった。
「っていうのは、少しだけ嘘なんだけどな」
 引き出したかったのはハルの同意だ。ハルがそう言うと思っていたのだとするには確証が足りなくて、けれど簡単に予想はついてしまうのだ。なんて、もどかしいのだろう。
 最初から触れようとしていないのに、どこか俺とは違うんじゃないかと思っていたハルは、やっぱり俺と同じだった。手は届かなくても、手を伸ばすことはしていいのだと言われているような気がした。

***

「ハル、帰ろう」
 空にある星を七十も数えて、それ以上数えるのを止めた。人は、七までは少ないという概念で物事を考えることが出来るけれど、八以上になると、また別の概念で物事を捉えるのだという。あんなにも沢山星があると、空に穴が開いたみたいでぞっとする。
「凛は、もう良いのか」
 俺の意思を確認するハルの言葉に、頷いた。そもそも俺たちの居場所はここじゃないのだ。海に背を向けても、俺を呼ぶ声は聞こえてこない。
 ただ、名残惜しそうに海を見るがハルがいなくて、それにもう一度、よかった、と思うのだった。
「帰ろう」
 きっと江が心配している。海に行っただなんて言えば、もっと困ったような顔をするのだろうから、この出来事は秘密にしていようと思った。


***

 まだ、風はべたついている。海が近い。
 家の前まで来てもそう思うなんて、どうかしている。実際どうかしているのだろう。また行っても良いかな、なんて思ってしまうなんて。今の俺には、八が数えられそうにない。それくらい、纏まりかけた思考は直ぐに霧散し、もう、些細なことがどうでも良いのだ。
 そんなままならない思考に、俺がしたのは諦めることだった。じわり、侵食していく。きっと、明日の朝になっても潮の香りを身体に纏っているような錯覚をするのだ。いつまでたっても消えない潮の香りにハルを思い出す。
 潮の香りは遅行性の毒だ。俺はこれに苦しめられて、やがて死ぬ。




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