アザゼル/温もり アクさく
何なんだろう、どうしてこうなってしまったんだろう、と思う程には不自然で、その空気をぶち壊せない程には自然な流れがそこにはあった。 どうしてこうなったのか覚えていない。事務所でアザゼルとベルゼブブを巻き込んでお酒を飲みはじめたところまではなんとか覚えているのだ。けれどそれ以降のことはいくら記憶の糸を手繰りよせても、絡まってしまっているみたいにでてこない。 ただ、酔いが酷く回っているからか、思うように身体が動かない。まるで、別の人の身体みたいだった。 動かない身体に対して、頭は妙に冷静で思考ばかりが嫌に働く。佐隈は目の前に置かれた状況に呆然とするばかりだった。
温もり
興味がないと言ったら嘘になる。けれど嫌悪感の方が勝り、佐隈は顔を背けた。 知らない男が自分に馬乗りになっている。 いつ流したのか分からない涙が一筋、頬を伝い落ちる。感情的なこともだし、生理的にも堪えられなかった。
「嫌!やめて!」
そう言葉を発したつもりなのに、必死に手足を動かして抵抗しているはずなのに金縛りにあったみたいに何もできない。 セクハラをしてくるアザゼルを踏み潰す。ぬいぐるみの代わりのようにベルゼブブを抱き抱える。どちらも何の気無しにしていたことだ。しかしそんないつもの動作がどうしてできるんだろうと思う程、身じろぎすら出来なかった。
全身をまさぐる無遠慮な男の手が酷く気持ち悪い。恐い。臍の辺りをごそごそと弄っていた男は、下へ下へと手を伸ばす。 今からおこるであろうことは経験をしたことはないけれど、知識として佐隈は確かに知っている。この後男はどういう行動をとるのか、佐隈はどんな風になるのか。何となく、先のことは分かった。
男に何かをされそうな恐怖に、身体を動かせない恐怖が加わる。しかしそれは足し算でも掛け算でもなく、階乗だった。
(初めてが知らない人で、なおかつこんなにも望んでいない形だなんて)
悪魔と契約した人間は、死後魂は地獄に堕ち、生きていても不幸になる。幸せにはなれない。 それが悪魔と契約した代償。 だから、その代償がよく分からないところで、知らない男に強姦紛いのこと――当然合意の上でよろしくやっている訳ではないのでこの表現は間違っていないのだが――をされているのだとしたら、仕方のないことなのだろうか。 けれど、どう考えたって、諦めは付かなかった。
男は佐隈の全身をねっとりと撫でるのに満足したのか、行為を進める。
(気持ち悪い。いや。いや。いや)
咄嗟に佐隈が叫んだのは両親でも、友達でも、使役している悪魔でもない、一介のバイト先の上司の名前。ぶっきらぼうでちょっと恐いところもあるけれど、世界中で一番頼りになる人の名前。 すなわちそれは。
「いやぁぁぁ!!芥辺さん!!助けて!!」
声が出ることに喜びを感じたのと同時に、知らない男は霧に包まれて元からいなかったかのように掻き消える。金縛りは解けて、身体が自由に動く。
(あぁ、これは……)
眼鏡がなくてあまりものが見えないけれど分かる。この背広、この髪、独特な雰囲気。 横にいたのは、すまなそうな顔をした芥辺だった。
「芥辺さん、芥辺さん!怖かった!怖かったの」 「さくまさん、」
恥とか外聞とかを気にしてはいられなかった。いい年の女性が(恐らく)いい年の男性に抱き着くなんて、とちらりと思ったけれど、怖かった。怖かったのだ。
(この背中の広さになんて救われているんだろう)
芥辺の胸に顔を寄せているのだから、涙だとか、鼻水だとか、お化粧だとか何かしらがYシャツに着いちゃう、と佐隈は思った。芥辺はがさつそうに見えて案外綺麗好きだ。だから、佐隈が顔を擦りつければYシャツが汚れてしまうことは多分分かっている。 けれど、芥辺は何も言わなかった。
ぼろぼろと涙を流す佐隈を抱きしめたりなんて解りやすい真似はしないけれど、頭の上にある温もりは確かなもので。どうしようもなく涙が溢れる。オフにならないスイッチのように、涙がとめどなく流れるのだ。
「あくた、べさん……あくたべ、さん……」 「さくまさん」
佐隈、なんて呼ばれ慣れているはずの名前なのに、どうしてこの人がそう呼ぶだけでこんなにも安心するんだろう。気持ちが安らぐんだろう。優しい気持ちになるんだろう。 砂漠に水が染み込むみたいにすぅっと涙が背広に染み込む。
(あ、芥辺さんのスーツ、汚しちゃったなぁ……)
「さくまさんは気にしないでいいから」
佐隈の思ったことを読んだかのように芥辺は言う。その間も、佐隈の頭の上には芥辺の、ちょっと高めの体温がある。
「悪いのは全部これのせいだから」
と事務所の隅の方にある、肉の塊を指さした。
原因はどうやら彼のせいらしい。佐隈はあの悪魔が復活したら何かしらの制裁を加えようと思いつつも、今はただ芥辺から与えられる温もりに寄り添った。
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