一歩踏み入れると、こそは一変して森林の奥の風景になった。いや、葉がなっていない木は、もうボロボロの格好で、立っているのがやっと、というような気風だった。手をかけたら折れ、崩れてしまいそうな木が、辺りを覆い尽くしている。
乙女に以前、「森は精神を迷わすから、気をつけるのよ」と言っていた。
鯉乙は、その言葉から「こういうことか」と目を凝らす。前まで住んでいた山も、森同然の森林であったが、あそこは一帯、母の畏れで山の畏れは降りかからないところだったのだ。子供の頃から『畏れに触れていた』が、ここまでの歪んだような畏れは、体には応えたらしい。
鮮明のように感じるが、それはどこか歪んでいて、人を本当に惑わすかのような妖気を放っている。霧もないのに、目がふわりと曇ってしまう。
一歩一歩、踏み出して気を取られないようにするが、それでも山は鯉乙を取り込もうと自身へ畏れを放って止まない。耐えて耐えてを繰り返すも、それは逆効果なようで、気を取られてしまう。
(やっぱり、甘かったかな……)
これは、遠野への序章の序章でしかない。遠野はもっと畏れも強く、これよりも偉大なのだろう。しかも、それに加えての妖の妖気を纏い、この山よりも膨大な畏れとなって毎日身に降りかかるのだ。
こんなところでへばってしまっては、自分は雑用にすらならない。
そうは思うものの、耳に鳴り響く雑音や、騒然とした山の響きが、耳鳴りとなって襲い、妖気の塊といえる空気が目の前を覆って、足元を取られてしまう。そして、いつしか一歩を踏み出せなくなり、呆然としているしかなくなってしまうのだ。
体が、いうことを聞いてくれない。
強張って張る神経は、カラカラと音を立てて引き締まっていく。やがて手足に痺れが伝い、目の前が真っ白に染まる。
どうしようどうしようと思考を巡らせるも、それはいつしか叶わなくなり、遠のいていく感覚がにゅるりと縛った。ひりひりとした肌に突き刺さる痛みも、それと同時に消えていく。
――――山の畏れに、呑まれた……。
動かなくなった体は、やがて重力に耐えられずにばたりと倒れこむ。意識はとうになく、倒れこむ音も、山の騒音でかき消された。
妖気はやがて、鯉乙を覆った。