8−1



幸せだった過去がある。
時間を巻き戻すことはできないから、二度とあの日々が戻ることはない。
それでも、幸せはまた築いていける。
あの頃は幸せだった。でも、今の方がずっとずっと幸せだ。
いつか彼らと、そう言って笑い合いたい。
バカみたいに遠い夢物語。それでも、願うことはできる――願うことが、できるようになった。
大丈夫、大丈夫だ。
どんなに悲しいことがあっても、どんなに大きな傷が残っても、愛する人たちは今もそばにいてくれる。
それ以上、他に何を望むことがあるだろう。







額に感じた冷たい感触に、黒子はゆっくり目を開いた。
「……赤司君……ありがとうございます」
「いいから、寝ていろ」
赤司は、小さく笑みを浮かべながら起き上がろうとした黒子の肩を軽く押し、再びベッドに戻した。わずかな動きで落ちてしまった氷嚢も、再び額に乗せてやる。
「まだ熱が高い。少なくとも今日1日は、大人しくしているんだね」
「そうはいきません、じき、彼らの出撃ですから」
そこで、黒子の頬を撫でていた赤司の手が止まった。
「……わざわざ見送りに出るつもりなのかい?」
「もちろんです。上官としての、務めですから」
表情も口調もいつも通りでも、赤司の機嫌が傾いていることは分かった。その上で黒子は、何も気づいていないような表情で、全く別の話題を口にした。
「青峰君は、どうしてます?」
「……大輝なら、懲罰房だ」
理由はどうあれ、青峰が黒子を傷つけたのは事実である。赤司は今、青峰の顔を見たくなかったし、何より、怒りの収まらない黄瀬を近づけるとまたどんな騒ぎになるか分からなかったので、物理的に隔離するのが一番いいと思ったのだ。
「あの大きな体で懲罰房ですか……可哀そうに」
ろくに身動きもできないんじゃないかと己のことのように嘆く黒子を、赤司はじっと見下ろした。
「……お前に、謝らなくてはね」
「赤司君?」
「大輝を挑発したのは僕だ……正直、あいつがここまでのことをするとは、思ってなかったよ」
赤黒く内出血を起こしている黒子の唇の端にそっと触れながら、赤司は痛ましげな表情で眉を顰めた。
「……火神君たちを、どうするつもりなんですか?」
唇から頬、そのまま首筋を撫でられ零れた熱い吐息と共に、黒子は問いかけた。
その直球さに驚いたのか、赤司の色違いの瞳が、小さく見開かれる。
「……前にも、同じような質問をされた気がするね。あの時は確か、火神大我個人に対してだったと思うが。……今はもう、火神大我だけでなく、彼の部隊全員に情が湧いてしまったというわけかい?」
腕の中に閉じ込めるようにのしかかってきた赤司に、耳元で囁かれる。
「……っ、ボク、は……」
弱い場所を刺激され、小さく震えながらも、黒子は必死に言葉を紡いだ。
「ボクは、ちゃんと、知ってますよ……」
「……テツヤ?」
「……赤司君が、ボクたちのこと大切に想ってくれてるって、ちゃんと知ってます」
言いながら、背に腕を回してきた黒子に、赤司は訝しげに眉を顰めた。
「何を突然……青峰と…いや、あいつらと何があった」
「……何もないです。ただ……」
「……ただ?」
聞き返してくる赤司の瞳を、黒子はじっと見つめる。
「ただ、ボクは赤司君たちのことが大好きなんだって、改めて思ったんです」
そして、驚いているのか、小さく目を見開いた赤司の頬に触れながら、無垢な幼子のような笑みを浮かべてみせた。
「だから、火神君たちにひどいことはしないでください。大好きな赤司君が、大好きな火神君たちを傷つけたら、ボクは悲しいですよ」
「……それを僕に言うのか。お前に情をかけられたあいつらを、僕がどう扱うか分かっていてお前は……」
「……赤司君は、ボクの笑った顔が好きだと言ってくれました。ボクもですよ。ボクも、キミの笑った顔が、大好きです」
「テツヤ、お前……」
「キミもボクも、悲しんだり後悔したりすることには、疲れ切っているでしょう……これからは逃げるだけじゃなく、どうしたら笑顔になれるか、その方法を探してみませんか」
いっしょに、前に進んでみませんか。
そう言いかけた黒子の唇を、赤司は咄嗟に己のそれで塞いでいた。
「や…っ、あか、し…っ」
「黙るんだ、テツヤ…っ」
「……ぅ……ん…っ!」
いやいやと首を振って逃れようとするのを許さず、強引に舌を絡め取る。
このまま抱いてしまおうと思ったが、弱りきった黒子の体には負担が大きすぎるだろう。ならばせめてもと、腕の中に閉じ込めた体からくったり力が抜けきってしまうまで、存分に口内を犯してやった。
「……ぁ……ふ…ぁ…っ」
ようやく解放された頃には、黒子は肩で息をし、すぐには起き上がることができないほどだった。
「……何を吹き込まれたか知らないが、お前は余計なことを考えなくていい。ただ、僕を――僕たちのことだけを見ていれば、それでいいんだ」
「……あかし、く…っ」
苦しそうな表情で、まるで自分に言い聞かせるように呟く赤司に、黒子は切なそうに目を細めた。






集合時間までは、あと1時間ほど。迷いながらも、火神は上官の部屋に足を向けた。
時間には律儀な黒子のことだ、もし自分たちを見送るつもりなら、すでにそこにいるだろう。今なら、2人きりで会うことができるかもしれない。
「……」
気持ちを落ち着かせるように、ドアの前で一度大きく深呼吸してから、強めのノックを3回繰り返した。
待つこと数十秒――いつまで経っても、応えが返されることはなかった。
「……なんだ、いねーのかよ」
言いたいことがありすぎて、逆に何を言ったらいいのか分からず、散々悩んだのがバカみたいだ。
ガックリと逞しい肩を落とした火神は、来た道を引き返そうと体の向きをかえ――
「うぉっ!?」
いつの間にかすぐ後ろに立っていた人物に体当たりしそうになり、慌てて横に飛び退いた。
「……いきなり叫ぶから、ビックリしました」
「それは、こっちの台詞だっつーの!」
キョトン、と大きな瞳を瞬かせたのは、火神が探していた上官――黒子だった。
そういえば、初めて出会った時もこうやって驚かせられたものだ。あの時からそう時間は経っていないというのに、もうずっと昔のことのような気がする。
「……お前……」
見送りに来てくれたのかと問いかけようとしたところで、火神は黒子の顔色の悪さに気が付いた。昨日の今日では仕方ないのかもしれないが、いつもの様にキッチリ上官の軍服を身に着けている分、余計痛々しく見えた。
「……んな死にそうな顔でフラフラしてねーで、ちゃんと寝てろよ」
「そうはいきません……ボクに、キミたちを見送らせてください」
まっすぐな視線を向けてくる黒子に、火神の方が折れた。
「……分かった。ならせめて時間までは休んでろ。どっか座るか?」
「大丈夫です……でもよければ、少しだけ胸を貸してもらえますか」
口調はしっかりしているが、立っているのもツラそうな黒子を、火神は黙って抱き寄せた。
「……火神君、あったかいです」
「お前は熱いくらいだけどな……やっぱひどい熱じゃねーか」
んなムリばっかしてんじゃねーとぶっきら棒に言いながら、火神は黒子の髪を撫でる。
その手の優しさに、黒子はクスリと小さな笑みを零した。
「……黒子?」
「……いえ、すみません……なんか、火神君に伝えたいことはたくさんあったはずなのに、いざとなると、言葉って出てこないものなんだなぁ、と思って……」
「……奇遇だな、オレもだ」
それからしばらく2人は無言で抱き合っていたが、やがて黒子が、火神の胸板に顔を埋めたままポツリと呟いた。
「隊の他のみなさんとも、ゆっくりお話ししてみたかったです。この後上官としての言葉はかけるつもりですが、軍の階級なんて関係ない、素の会話をしてみたかった。もっとみなさんのことを、知りたかったです……」
「……オレたちは、けっこうお前のこと話題にしてるぜ」
「……え?」
「お前、甘いもの……特にアイスが好きだろう。苦いコーヒーとか辛いものとか、刺激の強い食べ物が苦手だよな、とか……あと、お前が隠してるつもりで飼ってる犬な、バレバレだぞ」
畳みかけるように言われて、黒子は不満そうな、少し照れているようにも見える表情で火神を仰ぎ見た。
「……そんなしっかり観察しなくてもいいじゃないですか」
「別に、観察しようと思ったわけじゃなくて……お前って影薄いくせに、何か目が離せねーんだよ。見てて飽きないって、隊のみんなも言ってる」
それではまるで子供か動物扱いではないかと抗議の声をあげた黒子の顔を、火神は上から覗き込んだ。その表情はまるで、いたずらを企む子供のようだ。
「……例の犬な、オレたちが何て呼んでるか、知ってるか?」
「呼び名ですか?……黒いから、クロとか?」
「惜しいっちゃ惜しいな……たしか、コガ先輩が言い出したんだったが、今ではみんな、2号って呼んでる」
「2号?」
「テツヤ2号……お前に似てるからだと」
「……人を子犬扱いですか」
ニヤリ、とからかうように笑ってみせた火神に、黒子は唇を尖らせた。でもすぐに、火神につられるようにクスクスと軽やかな笑い声をたてる。
「オレらが戻ってきたら、水戸部先輩のケーキも食ってみろよ、すっげぇ美味いから」
「……はい」
「日向隊長の毒舌も聞かせてーし、伊月先輩もあぁ見えて変な人なんだ……木吉先輩はまぁ、言うまでもねーけど」
火神が次々と隊員たちの名前をあげると、黒子もその度頷き返した。
「……お互いを知るなんて、これからいくらでもできるだろ?」
「……そうです、よね」
それでもどことなく不安そうな黒子の頬を、火神は優しく撫でた。
「大丈夫だ。あの口うるせー上官サマもついてることだし、たかが偵察、すぐに終わらせて戻ってくるから」
「緑間君が聞いたら、怒りますよ」
力なく笑いながら、黒子は頬に宛がわれた火神の手に、己のそれを重ねた。
「……火神君、少し屈んでもらっていいですか」
火神は、一瞬驚いたように目を見開いたものの、請われるまま膝を曲げた。同時に、黒子は背伸びをして、距離の縮まった火神の唇にキスをする。
「……ん…lっ」
黒子は軽く触れただけですぐ離れようとしたが、火神がそれを許さなかった。
腰と項を手で支え、小さな唇を、何度も何度も、味わうようにして啄んだ。
「……かがみ、くん…っ」
「……黒子…っ」
元々力の入っていなかった黒子の体は完全に脱力し、すべてを火神に預けている。
「……おまじない、なんです」
「おまじない?」
「ケガもなく無事に戻ってこれますように、って強く想いながらのキス。自慢じゃないですけど、けっこうご利益あるみたいですよ?」
証人がいるので間違いないですと無邪気に微笑む黒子は愛らしいが、同時に憎らしくもある。
「……んじゃオレも、その証人とやらに負けねーよう、頑張らなきゃな」
少し拗ねたように言いながら、火神は再び黒子と唇を重ねた。






「報告は以上なのだよ。あとは計画通り事が進むよう、最善を尽くそう」
「あぁ……頼んだよ、真太郎」
「赤司……?」
すぐに応えは返ってきたものの、どこか上の空のような気がする。今朝からずっと様子のおかしい赤司に気付いた緑間が、訝し気な表情を浮かべた。
青峰が起こした騒ぎについては緑間も聞き及んでいたし、おそらく黒子と何かあったのだろうが、なんせ今は時間がない。
「……では、行ってくるのだよ」
戻ってきたら改めて話を聞き出そうと心に決め、そのまま部屋を後にした。
緑間が出撃前の最後の事前報告を終え、ひとりきりになった執務室。赤司は中空を睨み付けながら、しばらく何事か考えている様子だったが、やがて机の上のベルを鳴らし、部屋の前に控えていた下士兵を呼びつけた。
「赤司大佐、お呼びでしょうか!」
「……至急、実渕玲央少佐をここに呼べ」
それだけ短く言いつけ、彼が部屋から出て行ってから、苦り切った自嘲の笑みを浮かべ、ポツリと呟いた。
「……らしくないな。何を焦っているんだ赤司征十郎」
今すぐ空色の髪を撫でたい。黒子の細い体を抱きしめたい。飢えにも似た欲求をおさめようと、赤司は強く拳を握りしめた。





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