4−6



フィッティングルームの壁に背を預け、力なくぐったりと座り込む黒子が身に纏っているのは、薄水色のカッターシャツ一枚。裾から覗く内腿に、細い首筋に――体中に残されたキスマークが、白い肌に鮮やかに映えている。そのあまりの生々しさに、思わずゴクリと喉が鳴った。
「…降旗君…?」
いつまで経っても言葉を発しないオレを不審に思ったのだろう、黒子がぼんやりした眼差しを向けてくる。
「…あ、悪い」
「…いえ、ボクの方こそこんな恰好ですみません。着る物を取ってもらえれば、後は自分でしますから」
瞳は潤んだまま、頬は赤く染まったまま、声もわずかに掠れている。そんな状態で恥ずかしそうに小さく笑ってみせるんだから――ほんと、勘弁してくれよ。こんなオレだけど、れっきとした男なんだぞ!…いや、まぁ、黒子だって男なわけだけど、だからこそ男の生理を理解してくれと、文句のひとつも言いたくなる。
「…わ、分かった」
しかし凡人でしかないオレが皇帝様の大切な大切な寵姫に逆らえるはずもなく、大人しくその言葉に従うしかなかった。
とにかくさっさと目的を果たしてしまおうと部屋の中を見渡すも、そこには黄瀬や桃井が黒子に着せようとしていた服が一面に広がっていて、思わず途方に暮れる。
「…えと、どれを取れば…」
「できれば、元々ボクが着ていたのをお願いします」
ピンクや赤や水色。まさに色とりどり、レースやフリルもいっぱいのシャツやパンツ――おい、なんでスカートが混じってるんだよ!――の中から黒子が身に着けていた黒い細身のスラックスを探し出そうと、オレは腰を屈めた。
「…にしてもすっげぇ量だな……これ、全部着せられたのか?」
「…いえ、袖を通したのは2,3着です……その後はもう、脱がされるばっかりで」
…ほんと、自分の欲望に忠実すぎるだろう黄瀬の奴。
その奔放さに呆れるが、少し羨ましいと思ってしまうのも事実だ。
もしオレが黄瀬とか火神みたいに逞しく強い人間に生まれついてたら、今とは違う人生を歩んでいたんだろうな。
それこそ、黒子を抱くことだって出来て―…
「…って、なんでそこにいきつくんだよオレっ!?」
あらぬ方向に向かっていきそうになった思考を、慌てて打ち消した。
「…降旗君…?」
「ごめん、何でもな…うお…っ!?」
どうしたのかと問いかけてきた黒子に応えようと、顔を上げた時だった。
山積みになっている服の一部に足を取られ、体のバランスを失い――
「……てぇ…っ!」
そのまま壁に激突し、見事に床にはいつくばる羽目になってしまった。
「…降旗君、大丈夫ですか?」
「ああ、何とか……って、え……?」
心配そうな声はすぐ近くから聞こえてきた――正確に言えば、真下から。
「…うえ!?ちょ、ごめ…っ!?」
硬い床に倒れ込んだにしてはダメージが少なかったのは、散らばった服のせいだったと思ったのに。
実際オレが下敷きにしていたのは、ブランド物のスーツが霞んでしまうほど、希少で高級で、それこそ最高の男たちが望んでやまない、この世でたったひとつの存在だったようだ。
「うわ、いい匂い!…って何言ってんだオレ、ほんとごめんっ!!」
黒子を押し倒している体勢。
この近さだと、白い肌を透かす細い血管や長い睫の一本一本までを目にすることが出来てしまう。
「あ、あの…っ」
「…触ってみます?」
「……えっ?」
「降旗君、そんな顔してたから……いいですよ、ほら…」
「…く、くろ…っ」
うっすら微笑みながら、黒子はオレの手を取り、己の頬へと導いた。
まるで赤ん坊のように柔らかくて滑らかな肌。あまりに気持ちが良くて、そのままそっと首筋に手を滑らせると、黒子が小さく息を飲んだ。
――ここに、唇を寄せたらどんな味がするんだろう。この細い首筋を吸い上げたら、どんな鳴き声をあげてくれるんだろう。
熱に浮かされたようにぼんやりした頭で、オレは黒子の唇に顔を寄せた――が、
「…それ以上はダメですよ、降旗君」
「……あ、ご、ごめん!」
唇と唇が重なる直前、黒子は否定の言葉を口にしながらふいっと顔を反らした。
それで我に返り慌てて謝罪するも、己のしでかしてしまった事の重大さに体が震えた。
「お、オレはなんてことを…」
「…そうですよ、キミには大切な人がいるんでしょ?」
「……え?」
「…って、煽ったボクが悪いんですけどね……本当にすみませんでした」
オレに触れられるのが嫌だったとか、自分を誰だと思ってるんだとか、想像していたそんな台詞の代わりに黒子が口にしたのは、謝罪の言葉だった。
「…すみません、からかうつもりはなかったんですけど、ちょっと調子に乗りすぎました」
降旗君みたいな人に出会えて、浮かれちゃったのかもしれません。
眉尻を下げた申し訳なさそうな表情を浮かべながら、黒子はゆっくり身を起こした。
「…最初から、迷惑をかける気はなかったんです。せめて降旗君の役に立ちたいと思ったんですけど、結局困らせただけになっちゃいましたね……やっぱりキミみたいに真っ直ぐな人は、ボクなんかと同じ場所にいちゃいけない。お日様の下で、幸せになるべきです」
「…黒子…」
「本当なら火神君も…いえ、黄瀬君や青峰君たちだって、ボクなんかに関わらない方が良かったのかもしれません」
それなのに、ボクの我が儘で彼らを繋ぎ止めてしまっているのだと、切なそうに目を細める黒子。
――オレなんかが口を出していいことじゃないと分かっている。詳しい事情も知らなければ、黒子の全てを背負えるほどの度量があるわけでもない。それでも、捨てられた仔犬みたいな今の黒子を、放っておくことなんてできなかった。
「…そんなこと、絶対ねーよ!」
「…降旗君?」
「黄瀬や桃井たち…それに火神だって、あいつらがどんだけお前のこと好きか、知らないだろ!」
細い両肩に手をかけ揺さぶると、黒子は戸惑ったように大きな目を揺らした。澄んだ湖の水面が揺れるようで、とても綺麗だ。
「…もっと自信持てよ、愛されてるってこと自覚しろよ……お前がお前のこと大事にしてやらないと、そっちの方があいつらにはよっぽど残酷だ!」
我ながらどれだけ必死だったのか、言い終わった時には息が切れていた。
…図々しい発言だったかな、言い過ぎたかな。ちょっとだけ心配になったが、それでも後悔はしていない。
短い時間だがいっしょに過ごし、黒子という人間を知り、その魅力と意外なほどの弱さに触れたオレの、紛れもない本音だったからだ。
「……降旗君」
「…な、なに?」
内心ドキドキのオレに、黒子は泣き笑いの表情を浮かべると、
「……っ!」
「…すみません、どうしても我慢できませんでした」
チュッ、とまるで子供がするような可愛らしいキスをした。
「…今のは、なかったことにしてください……いえ、そもそもボクの存在自体、忘れてくれていいですから…」
でもどうしてもキミに触れたかったと、黒子はオレの肩に頭を乗せながら小さく呟いた。
「…忘れねーよ」
オレの言葉に、黒子の肩が小さく震えた。オレの声も震えているが、これだけはどうしても言いたかった。
「…オレじゃ、火神や黄瀬たちみたくお前を護ったり満足させたりはできないけど……オレ達、友達にはなれるんじゃないかな?」
「…トモダチ?」
「せ、セックスとか、そういうのはなしで、でもオレはお前のことが好きだし、一緒にいて楽しかったし……どうかな?」
初めてその言葉を耳にしたかのように、黒子は何度も「トモダチ」という言葉を繰り返していたが、やがて不思議そうに首を傾げてみせた。
「トモダチ同士は、セックスをしませんか?」
「…いや、お前の交友関係がどうなってるかは知らないし、つーか怖くて聞けねーけど、別にオレ達はそんなことしなくてもいいんじゃねーかなぁ、と」
「…キスもですか?」
「…頬っぺたとかになら…」
それ以上は命に関わると顔色を青ざめさせたオレに、黒子は小さく微笑んだ。
「…それでも、ボクと一緒にいたいと思ってくれるんですか?」
「……うん」
「…降旗君、ありがとうございます……」
キミはボクにとって特別な人ですねなんて言われ――正直、とても嬉しかった。





その日は結局、彼女に告白することができなかった――頬を染め、目尻に涙を溜めて嬉しそうに笑う黒子の顔が、頭から離れなかったのだ。
あまりの情けなさにその晩は枕を濡らす羽目になったオレだったが、いつまでも凹んではいられない。翌日職場に出勤するとすぐに、遠目からもよく目立つ赤い髪の男に向かっていた。
「…火神!」
「…お、フリか、昨日の休みはどう…」
「オレ、お前のこと応援してるからな!」
「……はぁ?」
「色々大変なの分かるけど、ぜったいあいつのこと諦めるなよ!んで、必ず幸せにしてやってくれ!」
「…あいつって、え…?」
茫然と目を見開く火神に、オレは余裕たっぷりに笑いかけてやった。
「オレの大事な友達を、頼んだからな!」





main page

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -