0803 Sun 03:02 |
科学技術の発達により、女性たちは産みの苦しみから解き放たれた。 中産階級以上の人間のほとんどが人工的に子供をつくるようになり、それに伴って世界の平均寿命は、飛躍的に延びることになる。 かつての様に老化してからの時間が増えたのではない、完全な長寿。 しかし人は、それだけでは満足しなかった。 欲求と模索の果て、人はついに、神の領域へ踏み入れようとしていた。 ――唄が聞こえる 僅かに掠れた、少年のような甘い声が紡ぐのは、優しい子守唄。 培養液と分厚いガラス越し、『彼』はいつもその唄を微睡の中で聞いていた。 そんなある日のことだった。 目を覚ました『彼』はすぐに、違和感に気付いた。 (……まぶし、い……?) 瞼を閉じていても感知することのできる眩しさ、自らの肺を使って行う呼吸、体に圧し掛かる重力。 (……これは……?) 「ようやく、会えましたね」 その声は、『彼』に子守唄を紡いでくれていたのと、同じものだった。 「ずっと君を待っていました……生まれてきてくれて、ありがとう」 慈愛に満ちた囁きと共に、頬を撫でる優しい感触。『彼』が人のぬくもりというものを知った瞬間だった。 「さぁ、君も抱いてあげてください」 「……いや、オレは遠慮しておこう」 二つ目の声は、初めて聞くものだった。最初のそれより幾分低く落ち着いているが、情の欠片もないような、硬質な声。 「……赤司君」 「黒子、そんな顔しないでくれ。オレは充分、提供者としての義務を果たしているはずだよ……『彼』の事は、お前たちに任せる」 それだけ言うと二つ目の声の主――『赤司』の声が遠くなる。 「あぁ、お送りいたします、社長」 「本日は誠に……」 赤司の後を追っていったらしい複数の足音と、雑多な声――それらは、『彼』にも聞き覚えのあるものだった。 「……ちゃんと覚えておいてくださいね。今のが君の、『お父さん』ですよ」 子守唄の主――『黒子』が、苦しそうに呟いた。 人を超えた人をつくる。そんなプロジェクトが立ち上がったのは、今から十年以上も前のことだ。 優れた遺伝子を元に、知能・体力・直観――人間がほとんど失ってしまった本能まで、全てにおいて、人の限界を超える存在をつくりだすのだという。 白羽の矢が立ったのは――いや、“立つことを許した”のは、赤司征十郎という、ひとりの青年だった。 日本でも有数の資産家に生まれ、文武両道、外見にも恵まれた、まさに誰もが理想とする人間。史上最年少で学資を取得し、若くしていくつもの事業を成功させ、まさに天才の名を欲しいままにしていた赤司は、プロジェクトチームからの依頼を受けた際、二つの条件付きで遺伝子の提供を承諾した。 一つは、実験が成功し『完璧な人間』が出来上がった暁には、赤司家の跡継ぎとして自分が引き取るということ。 そしてもう一つは――… 「……ん……」 うつらうつら船を漕いでいた黒子は、小さなアラームの音で眼を覚ました。 『彼』に、ミルクを飲ませなくては。 普通の赤ん坊と違って、『彼』はほとんど泣かない。楽といえば楽だが、それ以上に心配だった。 空腹や具合の悪さを泣いて訴えることがない分、よくよく気を付けて見ていてやらねば。 「さぁ、ミルクの時間ですよ」 哺乳瓶を赤ん坊の小さな口元に持って行くと、左右色違いの切れ長の瞳が笑みの形に細められた。まるで、「ありがとう」と礼を言っているようだ。 「……もしかしたら君はまだしゃべれないだけで、もう色々なことが分かっているのかもしれませんね」 特別な遺伝子からつくられた、特別な子供だ。もう少し成長して知能指数を測れば、どれほどの数値を叩き出すことだろう。 「……ゆっくり大きくなってくださいね。じゃないと、すぐに会えなくなってしまう……征十郎君」 「征十郎、ね」 「……っ!」 突然後ろから抱きしめられ、黒子は大きく肩を揺らしながらも、咄嗟に腕の中の赤ん坊を強く抱きしめた。 「さすが『母親』、といったところか」 「……赤司君、驚かさないでください」 プロジェクトに必要不可欠な遺伝子の、そして黒子はハッキリ聞かされていないが、恐らくは多大な資金の提供者である赤司である。ラボへ自由に立ち入る権利を持っていたが、こんな深夜に一体何の用があるというのだろう。 「……『息子』さんに、会いに来たんですか?」 「やめてくれ、オレはまだ『彼』を、息子だと認めたわけじゃない」 「……でもせめて、一度だけでも抱いてあげてください。それに、名前も……」 「名前ならもうあるじゃないか……まさかオレの名をそのままつけるとは思ってなかったよ」 「……だって」 ――君に、そっくりだから。 切なそうに呟く黒子は、やや中性的な印象が強いとはいえ、誰が見ても青年だ。だが、幼子に慈愛の眼差しを注ぐその様は、宗教画に出てくる聖母そのものだった。 「……聞かされているかい?お前が生まれてくる子供の世話をすることを、オレがプロジェクトに協力する条件に出したこと」 「……はい」 己を抱きしめる赤司の手が下腹部を這うのを感じ、黒子は慌てて赤ん坊をベッドに戻した。 「……赤司君」 咎めるように名を呼ばれ、しかし赤司は黒子を更に強く抱きしめると、そのまま強引に唇を奪った。 「……い、や…っ」 「……黒子…っ」 己を拒絶する言葉を封じてしまおうと口づけを深くし、乱暴に床の上に押し倒す。 赤司らしくもない粗野で強引な行動に、黒子の瞳から一粒の涙が零れ落ちた。 「……何で、こんなことするんですか……?」 「黒子……」 「どうして、放っておいてくれないんですか……ボクの気持ちを、拒絶したくせに!」 学生時代を共に過ごした、赤司と黒子。 その頃から、黒子は赤司のことを特別に想っていた。 人工的に出産が可能な時代だ、同性であることは大して障害にはならなかったが、赤司は決して、黒子の想いを受け入れることはなかった。 「……一度だって、好きとも、愛してるとも言ってくれなかったくせに。こうやって何度も何度も抱いて……ズルいです、君に触れられる度、ボクが、どんな思いで……っ」 完全に上から抑え込まれ、全てをさらけ出した状態。それでもどうしても泣き顔を見られたくなくて、黒子はせめてもの反抗に、ギュッと強く瞳を閉じた。 また新しい涙が、黒子の白い頬を伝う。赤司は愛おし気に目を細めながら、塩辛い水滴に口づけた。 「……赤司、く…っ」 「……ごめん、黒子。オレはどうしても、オレのことが信じられないんだ」 黒子の髪を、頬を、首筋を優しく撫でながら、赤司は淡々と言葉を紡ぐ。しかしその紅の両目を染める悲しみと絶望の色に、黒子は思わず言葉を失ってしまった。 「……オレは、不完全な人間だから。どれだけ努力しても、完璧になれない。……お前を受け入れる勇気が、どうしても持てないんだ」 ――お前を傷つけてしまうのが恐い。いつかお前を失ってしまったらという恐怖に耐えられない。オレは、弱い人間だから。 赤司の、何とも身勝手な告白。しかし、赤司を想う気持ち故、黒子は言葉を挟むことができなかった。 赤司が自分をどれだけ想ってくれているか、分かってしまったから、「そんなことはない」と、安易に否定することができなかった。 「……だからオレは、プロジェクトに協力したんだ。もしオレが、『完璧』な存在をつくりだせたら……その存在を、お前が慈しんでくれたらと、そう願って」 そこで再び、赤司は黒子にキスをした。 今度は抵抗されることなく、赤司は甘えるように、深く深く小さな唇を貪った。 「……ぁ…っ」 「……黒子」 「……好き…赤司……く……っ」 乱れる息の合間、黒子は泣きながら赤司への想いを口にした。 「……黒子」 赤司が、その想いに言葉で応えることはない。ただ、震える体を、強く抱きしめた。 ――唄が聞こえる 優しい優しい、子守唄。 『彼』――赤司征十郎の遺伝子よりつくられ、同じ名で呼ばれるその存在は、左右色違いの瞳を開くと、声の主を探して視線を彷徨わせた。 だが、いつもそばにいてくれる優しいぬくもりは、『彼』の手の届かぬ遠い場所にいた。 扉が開けっ放しになっている隣室。薄暗闇の中に、ぼんやりと白いものが浮かび上がる。 肌を晒した黒子の膝に頭を預けている男は、『彼』と同じ赤い髪をしていた。 いつも『彼』を抱きしめてくれる白い手が、その髪を撫でる。 いつも『彼』に微笑みかける空色の大きな瞳が、男を見つめている。 そして今も聞こえる優しい子守唄もまた、その男の為のものだった。 (――テツヤ) 『彼』の中に、生まれて初めての憎悪が湧き上がった。 その優しくて綺麗な人は、僕のモノだという、狂気にも似た独占欲。 (――お前なんて、テツヤを悲しませるだけじゃないか) 黒子がひとりで涙を流していたことを、培養液の中にいた『彼』だけが知っている。 (――待っててテツヤ、僕は、すぐに大きくなるから。そうしたら、もう誰にもお前を傷つけさせない。僕が、テツヤを護ってあげる――誰にも、渡さない) 幼子の決意は純粋だ――そう、恐ろしい程に。 (お前は僕のものだよ、テツヤ) 愛と悲しみと狂気が生まれたその夜。 深夜の空気に溶け込むような子守唄は、やはり悲しくなるほど優しいものだった。 |