まだ、夏の暑さが残る日だった。けれど、夕陽の存在が色濃くなる時間が早まっていくのを日に日に強く感じる。そんなことを考えながらフェンスの影を踏みながら歩く。つい、この間まで毎日のように足を運んでいた場所へ向かっているはずなのに、随分と久しく来ていなかったように感じる。理由は、なんとなくわかっているけれど。

「…名字さん?」

 フェンス越しに真っ先に目が合ったのは日吉だった。彼の頬を滑り落ちる汗が、夕陽を反射してきらりと光った。呼ばれた名前に呼応して小さく手を振ると、日吉は静かな足取りでこちらに近づいてきた。

「どうかしたんですか?」
「ちょっと、様子を見に。頑張ってる?」
「まあ、そうですね」

 見ての通りです、と日吉の目配せに、もう一度コートを見渡す。橙色に照らされたテニスコートには、まだたくさんの部員が残っていた。ガットがボールを叩く音、人工芝をシューズが踏む音、部員たちの掛け声。何も変わっていないようで、その実何もかもが変わってしまったのだということも、ちゃんとわかっている。

「あの人なら、部室だと思いますけど」
「…そう。ありがと」

 どうやら、日吉には私がここに足を運んだ理由も本当は解かっていたらしい。察しの良い後輩の一言に、踵を返す。…ここに彼がいないのも、なんとなくわかっていた。それでもついこの場所に、まず足が向いてしまう。みんなの様子を見に来たというのも本当だけれど、一度背を向けた私は遠ざかっていく聞きなれた音たちに振り返ることができない。しばらく日吉の視線が背中を追いかけてくる気配があったが、私の足は止まらない。

「…跡部」

 部室の扉を開けると、正面の窓から濃い夕陽が射し込んでいた。それを背にソファに腰掛けるシルエットを、橙色が縁取っている。
 ゆっくりと視線が合う。鈍いアイルブルーが眩しいものを見るように細められ、彼は静かに口を開いた。

「…見てきたんだろ」
「うん」
「どうだった」
「…跡部も見たんでしょ?みんな、ちゃんと前を向いてる」
「そうだな」

 私は今、一体どんな顔をしているだろうか。同じクラスで、毎日顔は合わせているはずなのに、随分久しく会っていなかったような感覚。全部同じだ。この理由ももう、わかっているのに。

「…名前」

 ふいに、跡部が私の名前を呼ぶ。下の名前を呼ばれたのは、初めてのような気がしたけれど、私の中の記憶が浮き上がって弾ける。
 
『…名字名前』

 あれは2年前、夏のはじまりの夜だった。フルネームで呼び止めた声を、もうずっと忘れていたつもりだったけれど、まだ鮮明に覚えている。



「こんな時間に、何一人で出歩いてんだ」

 テニス部のマネージャーを始めて2か月。夜道で出会った、今より幾分幼い跡部景吾はそう言って顔をしかめた。私は彼の頬の汗が、街灯を反射しているのを、何だか他人のような気分で見ていた。同じ部活に所属しているはずなのに、ちゃんと隣に立ったのはその時が初めてだった。

「跡部くんこそ、こんな時間に危ないよ」
「俺とお前を一緒にするな。お前は女だろう」

 その時はまだ、彼が私をフルネームで呼ぶのと同じ距離感で、私は彼を「跡部くん」と呼んでいた。
 ロードワークの途中だったらしい彼は、不機嫌そうな顔を隠そうともしなかった。初めて見るその表情に、少しだけ驚いた。テニス部に所属して2か月、その間私が見てきた彼の表情はいつだって自信に飾られた不敵なものばかりだったから。

 結局、彼はコンビニ帰りの私を、家の前まで送り届けてくれた。

「俺が走り込みしてたこと、他の奴らに言うなよ」

 最後にそれだけ言って走り去る跡部の後ろ姿を、私はただ見送るしかできなかった。「送ってくれてありがとう」…そんな言葉も言わせないスマートさで、彼は去っていった。私の家の玄関先に到着するまで、ぽつりぽつりと会話はあったように思うが、どうしてだかそれらはぼんやりしていて、しかしこの台詞だけはくっきりと覚えていた。そしてその時、それまでの彼への印象が少しだけ変化して、その少しだけの隙間に小さく光る感情が芽生えた瞬間であった。
 あっという間に遠ざかる背中。それをコンビニのビニール袋片手に見つめることしか出来ない私と、努力を人にひけらかすことを嫌う跡部との、最初で最後の小さな“秘密”。

 …まだ覚えているのは、私だけだろうか。



「名前」

 眩暈がするような甘い声に、一歩、一歩、その距離を縮める。橙色が眩しくて、跡部の表情はよく見えない。あともう少しで触れられるところで、先に指先が延びてきて、私の腕が絡めとられる。3年間、同じ部活だったのに、初めて触れた指先は、冷たかった。引かれるままに体が傾いて、気がつけば冷たい両腕は私の背中に回っていた。

 …私だけがまだ、あの夏に囚われ続けている、そう思っていた。あの夏を、あの熱を私はまだ覚えている。“あの”なんて指示語を使うほど、昔の話ではない。それでも、今思い返せば、私にとっての“夏”は、2年前のあの夜からずっとずっと続いていたような気がした。
 忘れられるはずがない。私と彼の小さな“秘密”。それから夏は私の特別になり、だからこそ、足音を立てて近づいてくる冬が、もうすぐそこにいることを、未だ信じられずにいる。
 私の思いは、あの夏に置き去りにされたままだ。

「悪い…今だけ、」
「うん」

 今だけ、そう、今だけだ。跡部景吾が立ち止まるのは、今この瞬間だけだ。大丈夫、跡部はまた自分の力で歩き出せる。私は知っている。あの夜、遠ざかっていった背中を思い出す。…大丈夫、大丈夫。

(大丈夫。この人はまた、走り出せる)

 ずっとなかったことにしてきた。これからもそうしなければならないことを、ちゃんとわかっている。そうでもしなければ、私は私を嫌いになってしまう。彼の邪魔をするために、隣に立ち続けることを選んだのではない。

 夏のはじまりのあの夜、私の右手に提げられたビニール袋がガサリと揺れる。私だけがずっと覚えていればそれでいい。
 そうして、長い夏に囚われ続けるのは、私だけでいいのだ。

 跡部景吾が再び走り出すことを、私は心の底から望んでいる。そのためなら、私は酸素だって要らない。呼吸ができなくたって、暗い夜の底に溺れて沈んだっていい。それでこの人がまた前に進めるのなら、私は何だって差し出せる。そうやって、今までやってきた。
 いつのまにか、あの夜の“秘密”は、私が彼の背中を押すための、一方通行な“約束”になっていった。跡部景吾が立ち止まらないように、些細な障害もなく前に進んでいけるように、今までだってやって来られたのだ。
 だから、

(だから、今だけ)

 返事の代わりに、夕陽に照らされている背中に、そっと手を添える。呼吸をすることも憚られて、静かに目を伏せる。目蓋を閉じればすぐに視界は橙色に染まった。
 今だけ、がずっと続けばいいと囁くのは、私のわがままだ。叶うならば彼に許されたい、けれど他でもない私が許さない望みだ。いつの間にかどんどん膨らんでいたあの夜の小さな光はどうしようもない望みになっていた。けれど私はそれの殺め方を知っている。呼吸を止め、そして全てを喉の奥に押し込んで、私は誰にともなく祈るのだ。


 一緒に立ち止まるのは、今だけでいい。だからどうか、この胸に燻る、この感情の名前を、

 …どうか最後まで、知らないままでいてね。





(S.O as 跡部景吾)


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