「凛」
自分の名前を呼ぶその声の主は、振り返らずとも平古場にはすぐにわかった。いつもの強気な声ではなく潮騒に容易くかき消されそうなそれは、確かに耳に届いたけれど振り返ってその顔を見る気にはどうしてもなれず。平古場は視線を海の方に投げたまま、無視を決め込むことにした。
「凛ってば」
控えめに、けれど少しだけ近づいてきた声。無視を決め込んでみたものの、結局逃げられないと観念して振り返るよりも早く、その人物は視界に入り込んできた。
「…んだよ、」
平古場はそこで言葉を切って、その後の台詞は無意識に飲み込んでしまった。…どうしてそんな顔をしているのかと。防波堤に座り込む平古場と向かい合うように立った名前は、こらえるような険しい色をその目元に残していた。
名前がどうしてこんなところまで自分を探しに来たのか、平古場はわかっていた。何も言わないまま、口を閉ざしてしている名前からの視線はほんの少しだけ居心地が悪く、再び海の方へ視線を戻した。ここから、何か面白いものが見えるわけではない。ただ、この海をまっすぐ行くと、内地なんだなぁと平古場はふと思った。
「…うちなーのやつらは、じゅんにちゅーばーよ」
「……」
「まぁ、どうせわったーは、」
「っ、でも、凛たち頑張ってたじゃない!」
それまで静かだった空気が、一瞬だけ張りつめたかと思うと、突然名前が声を荒げた。頬を引っ叩かれたようにハッとして、振り返る。平古場越しに海を映した名前の目はやはり何かをこらえているようだった。
「…早乙女先生のスパルタ通り越した練習メニューにだって、みんな必死について行って、それでレギュラーになって…」
名前がそんなことを挙げるたびに、平古場の頭の中には思い出にするにはいささか近い過去の景色が、紙芝居のように流れていった。
「…晴美チャンのこと先生って呼ぶ奴、久しぶりな気ぃすんやぁ」
「茶化さないで!」
なんとなく気恥ずかしくなって、名前の言葉の主旨と少しずれたところを指摘すると、名前の声には明らかに怒気が追加されて返ってきた。平古場はその様子に目を見開いた。名前がそんな風に怒るところなど滅多に見たことがなく、そしていつも感情の理由が比較的わかりやすい名前が、どうして今自分に怒っているのかわからなかったからだ。
「名前、ぬーしてわじゆんばぁ…?」
「怒るよ!怒るよ、だって…」
平古場は困惑した。名前の両の目から大粒の雫がこぼれ落ちて、防波堤のコンクリートを濡らす。
「悔しいじゃない」
くぐもった鼻声は、それでも名前の心を強く映すようで、平古場の耳にはっきりと届いた。
「ぬーんちやーが泣ちゅんばぁ」
「だって…だって凛が、泣かないから」
名前の方へ伸ばしかけた手は、その言葉で動きを止めた。息をつまらせた平古場に名前は気付いていないかもしれないが、彼女はそのまま言葉をつづける。
「悔しい時は、悔しいって言ってくれなきゃ、私だって、凛に勝ってほしくて…ずっと」
言いたくて、頭に浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出したようなそれは、嗚咽と混ざってひどく聞き取りづらくなっていたけれど、平古場はそれを黙って聞いた。名前の台詞が途切れて、二人の間に潮騒が戻ってくる。そして平古場はようやく、伸ばしかけていた手で名前を引き寄せた。
「…じゅんに、やーはなちぶさぁやさ」
なんの抵抗もなく、軽い衝撃と共に名前の体は平古場の胸板とぶつかった。うっさい、と曇った声が心臓の真上あたりで小さく響くのを平古場は感じた。あやすように背中に腕をまわすと、自分のカッターシャツを掴む手の力が少しだけ強まったのを感じる。
平古場は、わかっていた。名前がずっと自分たちのことを見ていてくれたこと。泣けない自分たちの代わりに、涙を流してくれていること。こんな、自分の腕の中にすっぽり入ってしまうような小さなやつが、チームメイト全員分の思いを代弁しようとしているのだと思うと、健気すぎていつものように茶化す言葉も見つからなかった。
「ひれーんだ、全国は」
呟くように発した声は、半ば独り言のようだったが、名前と自分にだけ聞こえていればいいと、平古場は思った。
「やしが…悔しかったさぁ…じゅんに」
吐露した本音は、潮の匂いに乗って東の海へ飛んでいく。それを感じながらも、平古場はやっぱり涙を流せなかった。けれど、再びしゃくりあげ始める名前の肩を抱えていると、まるで自分が泣いているような気分になってくる。潮騒の音が遠い。もう、夏が終わるのだと平古場は思った。後悔は一つもないなんて綺麗事を言うつもりは決してないけれど、これまでの日々がなかったことになればいいとも思わない。少なくとも、自分たちの代わりに泣いてくれる存在がここにいるのなら、それでもう十分な気がした。
きみは綺麗に目蓋を閉じる
(T.S as T.S.平古場凛)