周囲を包み込む歓声は、まるで毒を浴びせたかのように俺の背筋を粟立てた。黒に塗りつぶされた表情の見えないギャラリーが上げる声の層が、一面を覆い尽くす。そのすべてが自分、正しくは自分たちへ向けられていることはわかった。俺はその場に立ち尽くすのみで、ただこみ上げる吐き気に顔をしかめた。ネットを挟んで対峙するのは、見覚えのありすぎるトリコロール。声の波が一瞬、遠ざかる。どこかでボールが落ちる音がやけにはっきりと耳に届いた。ラケットを握る手は異常なほどに汗ばんでいて、それすら不快指数を積み上げていく。ゲームセット。コートに立っているのは、俺ではなかった。何度も何度も見てきたその背中が振り向く。しかしその表情は逆光に阻まれて見えない。どうにも息苦しかった。まるで生温い水中を漂うように、覚束ない足元。ウォンバイ。これを待ち望んでいたはずだった。俺が欲していたもののはずだった。けれど不快感は止まらない。アイスブルーが急速に色褪せていく。あの人が何か言っている。霞んでいく向こう側、言葉にならない歓声があの人の声を遮る。汗で滑ったグリップが、地面に叩き付けられて跳ねた。『     』誰かの声が聞こえた気がした。勝つのは、

「…し…よし、日吉」
「……ん」

 ぐるりと世界が暗転して、そして自分の体が揺すられていることに気付くと同時に意識が浮上した。両腕に残る鈍い痺れ。いつの間にか腕を枕に眠っていたようだった。

「日吉、起きた?」

 覗き込んできた顔を、未だぼんやりとする視界で認識する。もう、放課後だよ。その言葉を咀嚼して、飲み込んだ瞬間、突然頭の中が覚醒する。両腕の下には教科書とノートがそのままになっていて、いかに自分が長いこと眠りこけていたのかを知る。

「あ、ああ…悪い」

 なんとなく決まりが悪くなって小さく謝ると、名字はそれを礼と捉えたらしく、どういたしましてと返ってきた。
 見渡すと、教室にはすでに俺と名字以外の人間はいないようで、それがなぜか異様な光景に見えた。窓の外から聞こえる誰かの声すら現実味がなぜか持てず、まだ夢の中にいるのではないかという錯覚に襲われる。
 ふと、名字がまだ俺の方をじっと見ていることに気付いた。もしかしたら、何か用件があって俺が起きるのを待っていたのかもしれない。なんだ、と声をかけると想像していた台詞は返ってこなかった。

「なんだか、険しい顔してたよ」
「…あ?」
「寝てるとき」
「……」
「夢でも見てた?」

 …こいつ、人の寝顔なんてみたのか。そんなことがよぎったのは一瞬で、フラッシュバックしたのは、あの光景だった。

「…嫌な夢だ」

 気付くと、口を開いていた。

「…ふうん?」
「…ウチのテニス部が、全国優勝する夢だった」
「……」
「俺が望んだはずの、結末だったんだ」

 それを望んでいたはずだった。俺たちは全国のトップに立つために、これまで走ってきた。頂点に立ったことで、夢とはいえ俺たちが、俺自身が、欲してやまないものを手にしたはずだった。けれどあの夢で俺を取り巻いていたのは純粋な歓喜でも、清しい達成感でもなく、違和感と不快感だけだった。あの人は目の前で完璧な勝利をおさめていたのに、俺は。
 名字は断片的な俺の言葉を、ただ聞いているようだった。…ああ、俺はまだ少し寝ぼけているのかもしれない。名字はただのクラスメイトだ。ただのクラスメイトの女子に、俺は何を自分がみた夢の話などしているのか。我に返って口を噤んだ時には、だいぶ喋ってしまった後だった。

「悪い。お前に話すようなことでもなかったな。…起こしてくれて、助かった」

 あれは確かに悪夢で、後悔の権化だった。あの悪夢の中、俺の中を支配していたのは関東大会、そして全国大会の敗戦の記憶。吐き気のするほどにこびり付いたそれと、完全に相反する周囲の歓声は、あの世界をぐちゃぐちゃに塗りつぶしていた。名字に起こしてもらわなかったら、いつまであの渦の中心にいなければならかっただろう。考えるだけで、ゾッとした。
 冷えた背筋を無理やり考えないように、荷物をまとめる手を早めた。部活の活動日ではない今日は、いつもであれば自主練に出るところだが、今日ばかりはそんな気分にはなれない。
席を立ったところで、名字がもう一度俺の名前を呼んだ。日吉。その声はどこかで聞いたことがあるような気がした。

「それ、逆夢にしなくちゃ」
「…は?」
「だから、」

 再び蘇る、あの光景。急速に色褪せていったあの景色は、名字の言葉で少しずつ塗り替えられていくようだった。

「日吉が、そんな顔しなくてもいい勝ち方、来年はかなえなくちゃ」

『お前だけの氷帝コールを見つけてみろ』

 その時、思い出したのは、あの人の言葉だった。夢の中でのあの人の唇の動きと、その台詞が一致する。ああ、なんでこんな肝心なことを忘れていたのか。
 ずっとあの人の姿に憧れてきた。下剋上、などと謳って追いかけてきて、結局あと少しのところで追いつけなくて。けれどあの人は、確かに俺に言葉を残していた。危うく、あの焦がれてやまない後ろ姿を見失うところだった。

「…そうだな」

 名字に頷いて見せると、安心したように少しだけ顔を綻ばせた。

「日吉がどんなものを背負っているのか、私にはわからないけど…それでも、日吉がこれまでたくさん努力してきたってこと、私は私なりに見ていたつもりだよ」

 ただのクラスメイトだと思っていた奴からの意外な一言に言葉を失っていると、名字は可笑しいものでも見たように口角を上げた。その笑顔に、完全に毒気を抜かれてしまう。

「偉そうなこと言ってごめん。テニス、応援してる。がんばって」

 そう言い残して、名字は一足先に教室を出て行ってしまう。その姿が廊下へ消えていくのを見送ってから、ようやく俺も教室を出る。
 自然と、足はテニスコートへと向かっていた。ボールがコートを叩く音が聞こえる。きっと鳳や樺地たちも来ているのだろう。その音に、不快感は微塵も感じなかった。
来年こそ、俺がこの手で掴み取りたいものがある。柄じゃないが、もう少し夢を見て歩いてもいいのかもしれない。

『がんばって』

 ふと、あの夢で聞いた声の正体が、なんとなくわかったような気がした。あの声がこれまでの俺を肯定してくれるのなら、またがむしゃらに走り出すのも悪くないかもしれない。







(D.I as 日吉若)


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -