頬を撫でた肌寒さに、目を開ける。広がる空はまだ青く、でもいつかの眩しさは感じられなかった。
懐かしい夢を見ていた気がする。
「こんなとこにおったんか。サボり女」
錆びついた重たい音が、屋上の扉を開ける音だと気付いたと同時に飛んできた言葉は、私に向けたものだった。ここには私しかいないはずだったから。
「人をサボり魔みたいに言うなやアホ」
「どっちがやドアホ」
口の悪さは相変わらず。あきらかに不機嫌そうな表情を張り付けたユウジの顔に、ちょっとだけ笑ってしまって、それに気づいた彼はますます眉間の皺を深くする。
「…もう6時間目終わったで」
「…え…あ、そう…」
てっきり、もう一度開かれた口から飛び出してくるのは怒声だとばかり思っていたから、なんだか拍子抜けだ。無意識に身構えていた肩から気が抜けていくのを感じた。6時間目…ああ、私の好きな理科だったのに、丸々休んでしまった。5時間目は大嫌いな古文だったから、別にいいけど、ちょっと勿体ないことをしたような気分になってしまう。
屋上の空は広く、普段私が埋没する喧騒も遠くに感じる。HRも終わって、みんな部活の時間なのだろう。ボールを打つ音と誰かの掛け声が微かに聞こえた。ハッとして、もう一度視線を向ければ、ユウジは未だ同じ場所に突っ立っていて、こちらをじぃっと見ている。私は口を開いた。
「ユウジ…部活は?」
「はァ?」
今度こそ、怒気の孕んだ疑問符を投げつけられ、委縮する。ユウジは信じられないとでもいうような顔で、続けた。
「もう引退したっちゅーねん。自分寝ぼけとるんか?」
「…ああ、せやったね」
引退。そうか、だからこの時間にこんなところにいるのか。口が悪くてヤンキーみたいな顔していたって、部活の開始時間に遅れたことのないユウジ。もうこの学校でユウジがラケットを握って黄色いボールを追いかけることもないのかと、今さらながら理解する。引退したという話はユウジ本人から聞いたはずなのに、どうにも現実味がなくて、ちゃんと聞いていなかった。寝ぼけていたのかなんて言われても、否定しきれない。
さて、授業も全部終わってしまったことだし、教室に荷物を取りに行って帰ろう。ユウジはどうするんだろう。もう帰るんだろうか。それとも小春ちゃんとこ行くんだろうか。そんなことを考えながら立ち上がる。スカートについた砂埃を適当に払い落とす。
「なぁユウジ」
「…なんや」
「ユウジは高校行っても、テニス続けるん?」
「さぁな」
「じゃあ小春ちゃんは」
「さぁ?わからんけど、まあ全国大会も終わったし、とりあえずはコンビ解散やな。ま、それでも小春と俺の間柄やし、疎遠になるっちゅーことはないと思うけど」
小春ちゃんの話題だと急に饒舌になるな。今度ははっきりと笑ってしまった。何笑っとんねんキショイ。そう言うユウジが本気で怒ってないとわかるのは、隣で過ごしてきた時間が長い所為だろうか。
「おい」
「……」
「名前」
懐かしい夢を見た。広がる空は青く、眩しかった。隣にはユウジがいて、幼い小指で幼い約束を交わした。あれからずっと、私はユウジの隣にいられると思っていた。隣にいると思っていた。
大阪から引っ越すことを知らされたのは、昨日のことだった。
「泣いたら余計ブスなるで」
「…うっさい」
いちいち指摘しないでよデリカシーのないオクラ野郎。滴がコンクリートを濡らす前に乱暴に目元をこする。引っ越すことは、仲良しのみっちゃんにもなっちゃんにもまだ言っていないけれど、ユウジはきっと知っているのだろう。知っていなきゃこんなところまで私を探しに来たりしない。伊達に十数年来の幼馴染はやっていないのだ。きっとオカン伝いでとっくに聞いているはず。
ごしごしと目元をこすりまくっているおかげでぶれまくる視界の中、ユウジが大きなため息をついたのが見えた。
「…ったく、ほんまにしゃーないわ」
次の瞬間、頭上に軽い感触。
「…え」
「小春との最後のコントに使お思とったやつやけど、自分にやるわ」
「え、ちょ、なに」
「名前」
いつになく真剣な声色に、困惑しながらも顔を上げた。頭の上に乗せられたそれは透き通るようなレース。そして、ユウジの口から出てきた言葉に、無理やり枯らした雫が再び両の目の縁から転げ落ちていく。
「忘れたとは言わせへん。東京でもどこでも、絶対迎えに行ったるから、黙って待っとけ」
ユウジらしくない台詞に、結局涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私は笑ってしまった。笑うんか泣くんかどっちかにしや、ブス。そんな憎まれ口を叩く当のユウジの耳は見事に真っ赤で、それに気づいてしまった私はいよいよ笑いが止まらなくなる。
広がる空は青く、いつかほどの眩しさは感じられないけれど。視界を縁どるレース越しの空は、なぜかとても懐かしく、そして綺麗で、きっと私はずっとずっと忘れないだろうと思うのだ。
『やくそくやで。名前はずっとおれといっしょにおるんや。そんでいつか、』
そうよあなたは魔法を使う
(T.S as 一氏ユウジ)