「――金ちゃん!」
コートに膝をついた金ちゃんの元へ、真っ先に駆け寄ったのは白石部長だった。
そして私は、部長の後を追うように観客席から次々飛び降りていく部員たちの背中を、見ていることしかできなかった。脚が地面に打ち付けられた棒のように動かない。心臓の奥が冷え切っていくのに、鼓動はバクバクとうるさい。
「…あいつ、めっちゃ怖い」
部長に連れられて戻ってきた金ちゃんは、うわ言のように呟いた。かける言葉が見つからず、唇を噛む私の右手を、金ちゃんの手が掴む。いつもバカがつくほどの力で人を振り回しているとは思えないほど、弱々しいそれに、私は俯きながら考えた。
…このまま、金ちゃんがテニスを嫌いになったらどないしよう、と。
「名前ー!」
声に顔を上げると同時に、背中に衝撃が走る。殺せない勢いのまま、地面に両手と両膝をつくと背中からもう一度「名前〜」私の名前を呼ぶ声。振り返らずともわかる。金ちゃんだ。
「金ちゃん…重い…」
「え〜名前が軽すぎるんとちゃう?」
言いつつ、退く気配を見せない金ちゃんは、さながらおんぶオバケのよう。もともと小柄な金ちゃんだけれど、それでも私より重いのはそもそも筋肉量が違うのだから当たり前だ。動けない私は地面に投げ出してしまったファイルに手を伸ばす。
「…おい金ちゃん。マネージャー潰したらアカンやろ」
なんとかファイルを拾った先で、見下ろす視線は財前先輩のもの。しかし、先輩は声だけ一言かけると、そのままコートに向かってしまった。せめて助けてから行ってほしかったです。
「名前〜だいじょうぶか?」
いつの間にか背中から退いていた金ちゃんは、言葉と共に勢いよく私を引っ張り起こしてくれた。勢い良すぎて腕がもげるかと思ったのは、もう言っても仕方がないので黙っておく。一応お礼を述べると、金ちゃんは嬉しそうに笑った。
「ワイ、今から試合やねん。せやから名前、見ててや!」
「1面コートのスコアは財前先輩にお願いしてあるんや。また今度な」
「えええ!ワイ名前がええ〜」
「そういわれてもなぁ…」
ちらりと手の中のファイルに視線を落とし、一度顔を上げる。金ちゃんの肩越しに、財前先輩がこちらを見て、心底面倒くさそうな顔をする。そして、名前がええ!と駄々をこねる金ちゃんの背後まで歩いてくると、財前先輩が口を開いた。
「名字、記録表」
「あっ、はい」
差し出された手に、ファイルから取り出した1面コート用の用紙を渡すと、なぜか財前先輩は「ちゃう」と私に返してきた。
「え、でも今日は1面をお願いし…」
「俺2面行く。はよ貸し」
「あ、はい…」
有無を言わさず、財前先輩は私が担当するはずだったスコア表を半ばひったくるように手に取ると、そのまま背中を向けて行ってしまう。
「なぁ!これで名前ワイの試合見れるんやろ?!」
「…まあ、うん、せやな…」
「よっしゃぁ!」
金ちゃんは顔を綻ばせると、はよ行こう!と私を急かす。そんなに急いでもコートは逃げたりしないのに。私の右手を包む力強さに、私はそっと息を吐いた。
「なぁ、金ちゃん」
「んー?」
金ちゃんは振り返らない。どんどんどんどん歩いていく。
「金ちゃんは、テニスが好き?」
1番コートにはすでに部員が集まっていた。人の波を見るたび、あの日観客席からの光景を思い出す。金ちゃんの弱々しい手を思い出す。「怖い」と、あの声を思い出す。
こちらを振り返った金ちゃんは、きょとんと目を見開いて、それからにぃっと口角を上げて見せた。
「好きやなかったら、名前に見せたいなんて思わへん!」
私が大好きな、眩しい笑顔はあの夏を経て、再び輝き出していた。あの日の私の憂いが霞んで消えていくようだった。金ちゃんが私の手を離す。不思議と寒くは感じなかった。ちゃんと見とってな!コートの中に駆けていく後ろ姿は、小さな太陽のようだった。
白石先輩たちが引退して、財前先輩たちがその後を受け継いで、来年は金ちゃんや私たちの番が来て、当たり前だけれど、いつか終わりが来る。だけど、金ちゃんが取り戻した輝きだけは、終わらないでほしいと願うのだ。彼が再び地に膝をつくようなことがあるなら、私はそれを支えたい。
スコア表を持ち直し、コートに視線を向ける。金ちゃんはもう、私を見ていない。見ているのはネットの向こうの相手だけだ。
「…金ちゃん」
高く上がった黄色いボール。私はその光景を焼き付けようと目を凝らす。
コートの中の彼は、ちゃんと笑っていた。
私は「永遠」の目撃者になりたい
(K.M as 遠山金太郎)