久しぶりに訪れた、中等部のテニスコートは、吸い込んだ空気の色も匂いもすべてが少しずつ違っているような気がした。周囲を見渡して、それもそうかと納得する。
だってここに、あの頃と同じメンバーはもういないのだ。
「…あれ、名前先輩?」
ハッとして振り返ると、癖の強い黒髪。テニスボールの大量に入った籠を片手にそこに立つ彼は、振り向いた私の顔を見るや、表情を綻ばせた。
「やっぱり!名前先輩、お久しぶりッスね!」
「赤也…うん、久しぶり」
軽い足取りで近づいてきた赤也は、私の記憶よりも幾分か身長が伸びていて、私は少しだけ彼を見上げる格好になった。先輩、背縮みました?なんて、同じようなことを考えたらしい後輩を軽く小突いた。
「先輩、全然顔出してくれないんですもん。あ、そういえばこの間は丸井さんと仁王さんが来ましたけど」
「ブン太と仁王が?」
「はいッス!」
「…へぇ。みんな顔出してたんだ」
「幸村さんとか、他の先輩たちもたまに来てくれるッスよ」
でもまだ俺、幸村さんに勝てないんスよねぇ…と口を尖らせる赤也は、一年前と変わらないようで、確実に違っていた。私は咄嗟に目を伏せた。
「…で、切原部長はなんでボール運びなんてしてるの?」
「う〜名前先輩に『部長』って呼ばれるとなんか変な感じ…」
そう口では言いつつも、赤也は照れ臭そうに、そして嬉しそうな表情をした。私は、そんな赤也を知らない。知るのが怖くて、私は今までここに足を運べずにいた。
「今日は俺が1、2年の相手するって約束なんスよ。レギュラー練のボール使うわけにもいかねーし、ウォーミングアップさせてる間に、ちょっと行って来ようかなぁって」
「そう」
「切原部長ー!」
コートから赤也を呼ぶ声が聞こえる。当然のように私から視線を外しそちらを見た赤也は片手を上げてそれに応える。
赤也は、もう幸村を部長とは呼ばない。その代名詞を受け継いだのは、紛れもなく赤也で、今の立海大付属中テニス部部長は、切原赤也なのだ。
「あいつ、1年だけど、結構センスあるんスよ」
「…そう」
「まっ、まだまだ俺には届きませんけどね!」
ハハッと笑う赤也につられて笑う。
成長した赤也は、ちゃんと部長としてこのコートを守っていて、でもそれが寂しいと感じてしまうのは、一足先にここを去ってしまった私の勝手なエゴだ。今でも思い出すのは、あの夏の終わり、血が滲むほど強く唇を噛みしめて、大粒の涙をこぼしていた、あの後ろ姿。けれど、あの光景の中でずっと立ち止まっていたのは私だけで、みんなそれぞれまた歩き出していた。
ブン太や仁王が、中等部に顔を出していたことも知っていた。幸村が、久しぶりに赤也と打ち合いができたと、嬉しそうに話してくれたのも記憶に新しい。名前は行かないの?と訊ねられて、曖昧に笑って誤魔化した私に、幸村はそれ以上何も追求してはこなかった。ただ、一つだけ言い残してコートに去っていく、元部長の背中を、私はただ見ていた。
「赤也は名前に懐いていたから、きっと会いたいんじゃないかな」
「じゃあ、そろそろ行くッス」
「あ、うん」
「次は他の先輩たちと来てくださいよ!今度こそ、試合して絶対勝ってみせますから」
造作もなく再びボールの入った籠を持ち上げた赤也はにぃっと笑って、踵を返す。その背中を見送りながら、私は考える。
私は、今でもあの夏に囚われている。あの涙を覚えている。だからこそ、私はもう二度とあの涙を見たくないと願う。もう、あの時と同じではないけれど、違うからこそ、今度こそ赤也には笑ってほしい。
「赤也」
自分の力で歩き出した後輩に、私の言葉は不要かもしれないけれど、私は思わずもう一度彼を呼び止めた。
「なんスか?」
振り返った彼は小首を傾げて、言葉の続きを促した。
「赤也は、強くなったね」
きょとんと大きく瞬いた彼の両の眼は、すぐに三日月のように細くなった。口角を綺麗に上げた赤也は、私の大好きな明るい声色で答える。
「当たり前ッスよ!」
そして今度こそ去っていった彼の肩には、ジャージが揺れていた。頼んだよ、と幸村から言葉少なに託された思いを、赤也はその背に背負っていた。きっと赤也は解っている。彼もあの夏を忘れてなどいない。けれど、常勝はもう義務ではない。
今度こそ、試合して絶対勝ってみせますから。
もう、次の夏は目の前だ。
刹那をおぼえている
(M.H as 切原赤也)