サークルに所属していない私は、よく帰り道が一人になることがある。今日もまさにそれだ。
 いつも一緒にいるアヤちゃんは、サークルの飲み会だとかで講義が終わるや否やさっさと中心街へ繰り出してしまい、それを見送る側の私は今日も重たい鞄を肩にかけながら駅までの道のりを一人歩いていた。
 毎回毎回、捕まる横断歩道で足を止める。いついかなるタイミングで学校を出たとしても必ずと言っていいほど足止めをくらうこの信号をいかにして回避するか、去年は躍起になっていたっけ…。随分と昔のことのように思い出すが、たった一年前の話だ。この街にきて一年しか経っていないはずなのに、随分と昔からここにいるような気すらしてくるのだから不思議な話だ。
 いつのまにか固定となった同じ車両の乗り場で足を止める。降車駅で階段が近いからとか、もっともらしい理由もないのに、いつも同じところで電車を待つ。春独特のやわらかい風が静かに通り過ぎるのを感じた。向かいのホームの屋根との隙間から除く空が、夕陽の所為で綺麗なオレンジ色に染まっているのをなんとなしに見上げる。
 その時だった。

「よー、中森」

 真横に人の気配がしたと思ったそれと同時、その人影はこちらの顔を覗き込むようにしながら声をかけてきた。思わず、大げさなくらいに体が弾んだ。

「?!う、わあっ」
「わっ」

 思わず口から飛び出した私の声を真似るかのように、声をあげてにやりと笑う。半歩後ずさりながら、駅のホームで大声をあげてしまった羞恥やら突然のことに対する驚愕やらで混乱する心臓と頭をなんとか正常に戻そうと、深く一息吸い込む。

「ま、丸井くん…?」
「久しぶり」
「…そうだね…」

 心臓がバクバクとうるさい。完全に、不意討ちだった。

 ケラケラと目の前で笑う丸井くんは、先日見かけたその姿とばっちり一致した。ほらみろ、見間違いなんかじゃなかっただろうと、頭の中で誰かが言う。

 あっちこっち飛び跳ねそうな心臓よりも先に、若干の冷静を取り戻した頭で考える。少なくとも「久しぶり」と言葉を交わすほど親しかったわけではないはずなのに、なぜ丸井くんは声をかけてきたのだろうか。同じクラスになったことは、ある。しかし客観的に考えてもクラスメイト以上友人未満の異性に、普通話しかけてくるものなのだろうか。
 …いや、ただ単に私の考えが狭いだけなのかもしれない。私みたいに、積極性が少しばかり足りない人間からすれば不思議なことでも、丸井くんみたいな人にとってみれば、互いの間にある距離がどうであれ、知り合いに挨拶くらい基本だと、その程度の認識なのかもしれない。
 呆けたまま言葉を発しないままその顔を凝視していたことに気付いたのか、丸井くんが首をかしげる。

「どうした?」
「あ、いや、ううん。なんでもないよ」
「そう?…いやー、まさか中森がこんなとこで会うと思わなかったわ」
「うん、私も。丸井くんも東京に出てたんだね。てっきり立海大に内部進学したのかと思ってた」
「まーな。ていうか中森もな」

 さも当たり前のように真横に立った丸井くんはよいしょと肩にかかっていた荷物を背負い直した。その動作につられて視線を走らせる。

「丸井くん、まだテニス続けてるんだ?」
「ん?あー、まあな」

 私の視線に気づいたのか、ちらりと背負っている縦に長いバッグ見て軽い調子で頷いた。

「つっても、今日は後輩と打っただけで別にサークルとかじゃねーんだけど」
「あ、そうなんだ。てっきりサークルかなって」
「テニサーねぇ…あれ、うちの大学なんか特に名前だけで実質飲みサーだし」
「…そっかぁ」

 ほんの少しだけ意外だと思った。
 丸井くんはどちらかというと、彼の言葉を借りるならいわゆる『飲みサー』というものに所属しているものだと思っていた。どうやら違ったようだけれど。

「ああ、そういえばさ、中森…」
「丸井せんぱーい!」

 何か言いかけた丸井くんの言葉を遮るように、どこからか彼を呼ぶ声が聞こえた。いつの間にかホームは人で溢れていて、その声の主をすぐに見つけることができない。私自身がそこまで視力がよくないというのもあるのだろうけれど。丸井くんはその声だけで誰のものかわかったようで、すっと振り返ると黙って手を上げた。

「丸井先輩、置いて行くなんてひどいッスよ〜」

 少しして、若干息を切らしたように一人の男子が駆けてきた。先輩、と言っていたから、もしかして今日一緒にテニスしに行っていたという後輩なのだろうか。
切れた息を整えながら、視線で気づいたのだろうか、私の存在を認識したその人はちらりと私に一瞥した。

「…先輩、この人誰っすか?」
「…ああ、俺の友達」

 友達。
 胸の内を、あたたかいような、むず痒いような、何かが駆け抜ける。ほんの少しだけ、泣きたいとも思ってしまった。いろんな感情がごちゃまぜになって、最終的に表面に出てきたのは苦笑だけだった。

「どうも、中森です」
「で、さっき言ってた後輩の」
「…切原赤也ッス」
「!」

 ああ、もしかして。

「こいつも立海出身でテニス部だったんだけど……あ、」
「うん、覚えてるよ」
「…そうか」

 私の反応に気づいた丸井くんは、けれどそれ以上何も言わないでいてくれた。
 立海テニス部。
 丸井くんと私の間の微妙な関係は、そこにも微妙な軌跡を残している。…ああ、もしかしたら、それがなければ彼がこうして声をかけてくることもなかったかもしれない。

「ん?『も』ってことは、もしかして中森さんも…」
「うん、中学も高校も立海です」

 切原くんは私たちのあいだに流れた空気などまるで感じていないようだった。彼の言葉に私が頷くと、先程までの無愛想さはどこへ行ったのかパッと表情を明るくした。

「じゃあじゃあ俺のことも知ってたんスね?!」
「切原くんみたいな有名な後輩、知らないわけないよ」
「そうッスよねー!」
「あんまり調子に乗んじゃねーよ赤也」

 雰囲気ががらりと変わった切原くんに丸井くんが容赦なくツッコミを入れる。頭を押さえて大げさに痛いと騒ぐ切原くんの声。一気に場の空気が明るくなった気がした。
 なんとなく、この雰囲気が懐かしいと思ってしまった。切原くんとは、実質初対面だけれど、彼のことはよく話に聞いていた。その話には丸井くんもよく登場して、本当に楽しそうだなといつも思っていた。私がその場面に出会うことは、中高の間一度もなかったけれど、何度も聞いた話の中で容易にその姿が、まるで目の前でじゃれあっているのを見ているように思い出すことができる。

――まもなく3番線に電車がまいります。黄色い線の内側まで…――


 アナウンスが流れる。私の思考もそこで一度途切れた。
 まだ隣でやいやいとやっている二人は、たぶん私の表情には気づいていない。そのまましばらく気づかないでいてほしいと思った。
 記憶というのは厄介だ。オレンジ色に染まりきった空が、なおのことそれを明確に思い起こさせる。そっと足元に視線を落とす。まるであの日の声が聞こえるようで、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。しかしタイミングよくホームに滑り込んできた電車によって、それは霧散していった。それが良かったのかそうではないのかは、わからないけれど。未だくすぶる感情の火種から無理やり目を背け、丸井くんたちの背中を追うように電車に乗り込んだ。



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