「汐崎響子、だな」
「…え?あ、はい」

 窓を打ち付ける雨の音をBGMに夏休みの課題を広げていると、突然フルネームを呼ばれた。にらめっこしていた問題集から顔を上げると、切れ長の目と目が合う。…いや、正直に言うと細目すぎて本当に目が合っているのかよくわからない、が。
 もはや休み中の指定席となりつつある机の正面に立つその人は、ふいにその細長い体を折って、向かいの席に腰掛けた。他にも空いている席あるのにも関わらず。

「ええと、何か…?」
「いや、失礼。…F組の柳蓮二だ」
「…柳くん?テニス部の?」
「ああ」

 頷いた彼は小脇に抱えた一冊のノートを広げた。ちらっと見えたそこには、遠目には内容がよくわからない細かい文字が書かれている。柳くんは胸ポケットにさしてあるペンを右手に持ったところで再びこちらに顔を向ける。

「今日は委員会の仕事ではないのか?」
「え?」
「確かお前は美化委員だったな。そして休み中の水遣り当番もあると思ったのだが」

 …なんでこの人、私が美化委員だって知ってるんだろう。もしかして幸村くん?いやでも幸村くんが私のことをわざわざ人に話す理由なんて…。

「別に精市に聞いたわけではない」
「あ、そう…」

 どうやら違ったらしい。って、なんで私が考えていることわかったんだろう。

「…えっと、今日は昼過ぎから雨って予報で言ってたから、行かなくてもいいかなと思って」
「なるほど」

 とりあえず先の質問に答えると、柳くんは一つ頷いて、手元のノートに何かを書き留めた。ここからだとその内容は見えないけれど、私の今の発言に何か思うことでもあったのだろうか。

「テニス部も練習は中止?」
「ああ、この雨だしな」

 窓の外をちらりと見ると、雨は徐々に激しさを増しているように見えた。夏の昼間の雨は暑さを緩和するどころか湿気で蒸し風呂状態になりかねないのであまり好きではない。今私がいる図書室は冷房が効いているからまだいいけれど。

「大会も近いんでしょ?練習できないと大変なんじゃない?」
「我々は日々の積み重ねがあるから問題ない。むしろ大会前だからと言って煮詰めすぎるのも効率が悪い。予報では雨だと言っていたからな、練習自体は元々午前中だけのつもりだった」
「…そうなんだ」

 柳くんも天気予報はちゃんとチェックする人なんだね。
 そう言うと、まあそうだな、と柳くんは再びノートに何かを書き記した。

「…柳くん、聞いてもいい?」
「なんだ、課題か?」
「あ、いやそうじゃなくて。そのノート、さっきから何書いてるの?」
「ああこれか」

 私が頷くと柳くんは声色を変えるでもなく、「これはデータ収集用のものだ」と言った。

「データ?」
「俺はテニスの試合で相手のデータを元に戦略を立てる。そのためにデータを書き留めている」
「じゃあさっきから書いてるのは相手の選手のデータまとめ中ってこと?」
「…いや、汐崎のデータを取っていた」
「は?」

 予想外の答えに変な声をあげると、柳くんはフッと笑った。

「私、テニスしませんけど」
「それはそうだろうな。…汐崎響子、3年A組。部活には所属せず2年から美化委員を務める。小学生の弟が一人いて地元サッカークラブに所属している。その姉である本人はスポーツが苦手というわけではないが部活には所属するつもりはなさそうである」
「えええー…」

 つらつらと読み上げられたそれに、言葉にならない声が漏れる。ついさっき初めて会話をしたばかりなのに、私に弟がいることまで知ってるってどういうこと。社会で習った個人情報保護とはなんだったのか。

「まあ、これはちょっとした個人的興味におけるデータ収集だな」
「はあ…?」
「フッ…わけがわからないといった顔だな」
「そりゃあまあ」

 個人的興味って、なんだ。
 柳くんと初対面のはずなのに、さっきから疑問符ばっかり頭に浮かんでいる気がする。

「で、何かわかったの?」
「ああ。実に興味深いデータが取れた」
「…そう。よかったね」

 淡々と一切声色を変えずに語る柳くんに、考えることを放棄してそう返事をすれば、柳くんの眉が何やら意外なものを見るように少しだけ上がった。

 柳くんが何やら神妙な顔をしてノートを眺めている。そこでようやく私は自分の手元にある問題集の存在を思い出した。会話の応酬が途切れたのをいいことに、再びシャーペンを握り直して問題集に視線を落とす。羅列された数式を目で追いながら、頭の中で教科書に書かれている公式を思い浮かべる。

「…汐崎」
「なに?」

 ふと、視線を感じた時、再び柳くんに名前を呼ばれた。
 顔を上げると、柳くんの細い指が手元に伸びてきて、私が書いた数式の一部を差した。

「そこの問3、途中式で間違えているぞ」
「え」

 柳くんに指摘され見直すと確かに途中で簡単な計算ミスをしていた。通りで妙な答えになると思ったら。
 慌てて消しゴムを走らせていると、またもや柳くんがノートに書き込んでいる。

「今度は何のデータ?」
「…汐崎は数学が苦手、と」
「…計算で凡ミスするだけだよ。証明問題は得意だし」
「だろうな」

 負け惜しみに頷かれて鼻白んだ。まるでわかっていたかのような口ぶりに再び浮かびそうになった疑問符を慌てて打ち消した。

「ところで汐崎」
「今度はなに?またどこか間違えてる?」
「いや…仁王のことなんだが」
「…仁王くん?」

 突然彼の口から出た「仁王」という名前に一瞬鼓動が跳ねる。
 そんな私の内心とは裏腹に、柳くんはまったく変わらないトーンで言葉を続けた。

「最近仁王と親しいようだな」
「…もしかして私のデータ取ってたのって、それで?」
「さあ、どうだろうな」

 あからさまに誤魔化されたような気がするが、それはそれとして、首をかしげる。

「確かに、最近よくしゃべるけど」
「それは何故」
「何故って…向こうから話しかけてくるから?」
「ほう」

 ペラリと、柳くんがノートのページをめくる。ページをめくる手が止まったと思いきや、私からは見えないが、そのページを柳くんの指がトントンと軽く弾いた。

「…仁王のやつは」
「え?」
「あまり女子に自分から話しかけるようなやつではない」
「はあ…」
「そんなあいつが一人の女子生徒の側にやたら寄るようになれば、同じ部員として気になるだろう」
「…うーん?」
「現に赤也も来ただろう?」
「……」

 赤也くん。
 夏休みに入る少し前、初対面にも関わらず妙に懐っこく話しかけてきたひとつ年下の後輩の姿が思い浮かんだ。そういえば、今日の柳くんも初対面だし、最近本当にテニス部の人によく話しかけられているような気がしてきた。柳くんの言葉をそのまま解釈するとすれば、柳くんも赤也くんも仁王くんと話す珍しい女子を見に来たってことになるわけだけど、なんだかそれって動物園の珍しい生き物みたいな…そういうことなのだろうか。

「さて、これ以上邪魔をすると悪いからな。俺はそろそろ行く」
「…そう」

 席を立った柳くんの言葉に生返事を返すと、柳くんは含み笑いをしながら、もう一つ台詞を付け足した。

「もうじき来るだろうから、その課題でわからないところがあるなら聞いてみればいいんじゃないか?あいつは数学が得意だったはずだ」
「…え?あいつって…」

 その言葉にハッ、と顔を上げた時。

「汐崎」

 聞きなれた声が私と柳くんのあいだに割って入った。

「えっ」
「では失礼する」
「ちょ、柳くん!」

 その声を意に介した風もなく、柳くんは涼しい顔で去っていった。思わず呼び止めた声は虚しく空を掻き、その代わり、私の視界には先ほどまで名前の上がっていた銀髪がそこにいた。

「…仁王くん」

 雨の音が、一瞬だけ強まったような気がした。

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