それはいつもに増して日差しの強い金曜日の放課後のこと。
「ほんっとうに、ごめんなさい!」
「いやいやいいッスよ!急に声をかけた俺も悪かったんスから!」
タオルでごしごしと顔を拭きながら、気にするなというふうに空いた左手でひらひらと振りながら言う目の前の男の子に、それでも私は申し訳なさがいっぱいになってしまってもう一度、ごめんなさいと頭を下げた。
なぜこんな状況になっているのかというと数分前に遡る。
今日は夏休み前最後の水遣り当番で、いつもの通り花壇へと向かった。
用具入れから出してきたじょうろに外水道から水を入れる。水道の蛇口にはホースがついていて、いちいち外すのが面倒な私はいつもホースを通して水を入れていた。
蝉の声がうるさい。
じわじわと照りつける太陽の熱は私の額に汗をにじませた。耳をかすめる大音量の合唱と熱に、ほんの少しだけくらりとした。
その時だった。
唐突に真後ろから声をかけられたのは。
「汐崎先輩!」
「!?」
びっくりした私はホースの口をぎゅっと握りつぶしてしまった。勢いよく飛び出した細い水の飛沫にさらにびっくりしてあろうことかホース自体を手放してしまった。
それがいけなかったのだ。もともと、とぐろを巻いていたホースは私の手を離れた途端、水の勢いでのたうちまわった。そして、
「おわっ」
「!わー!ごめんなさい!」
私の背後にいた人影から声があがり、反射的に振り返って状況を知って慌ててホースをつかみ直し、水道の蛇口をひねった時には時すでに遅し。
上半身びしょびしょに濡れた男子生徒がそこには立っていた。
「いや、ほんといいッスよ。このくらい濡れたうちに入らねーし、すぐ乾くし」
「でも風邪なんてひいちゃったら…」
「このくらいじゃ風邪なんて引かねーッスよ!今夏ッスよ?」
男の子はけらけらと笑うが、未だに申し訳なさが残る私。
しかし、そういえば男の子の方から私に話しかけてきたのだったということを思い出した。
「…えっと、そういえば私に何か用だった?」
「あー、そうそう!俺、切原赤也っていいます!」
立海テニス部、噂の2年生エースっていうのは俺のことッス!と、まだしっとりと濡れる天然パーマの髪はそのままに、ふふんと胸を張った。
切原、という名前は聞いたことならある。今年のテニス部レギュラーで唯一の2年生、切原くん。そういえば、よく見れば何度か柳生くんと話しているのを見たことがあるような気がしないでもない。
…その噂のエース切原くんは私に何の用があるというのだろうか。
「切原くん、それで、何か…?」
「ちょ、エースってとこには何も反応してくれないんですか?!」
「いや、切原くんの噂は私も聞いたことあるし、知ってるけど…それより用件は?」
「うー…まあ別にいいんスけど…はあ」
…一体どんな反応を私に求めているのか知らないが、ちょっとだけ不満そうに頬をふくらませた切原くん(ちょっとだけ可愛いと思ってしまった)は、すぐに気を取り直したようにニィっと笑った。
「いやー別に大した用もないんスよ。ちょっと先輩のことが気になったんで、声かけてみただけッス!」
「…それだけ?」
「そうッスよ!」
にこにこと笑う切原くん。
はて、
「私と切原くんて、今日が一応初対面だよね?」
「そうッスよ!」
…なぜ初対面で気になったのかがよくわからない。相変わらずにこにこと笑っている切原くん。その笑顔が何かを企んでいるような、悪戯っ子の顔に見えるのは気のせいだろうか。
そもそも、どうして私の名前を知っているのだろう。
私が切原くんのことを知っている、というベクトルならわかる。彼は多少なりとも有名人であるからだ。比べ私はただの一生徒であり、部活にも所属していないためそも<後輩>という存在がいないのだ。
…テニス部の誰かに聞いたとか?いやでも、私と接点があってかつ多少話をする間柄なのは委員会が同じ幸村くんとか、同じクラスの柳生くんくらいだけれど、私のことを話すメリットはどこにあるのだろうか。
…あ、そういえばまだいた、私のことを知っている、テニス部員。
「あっ!そうだ、汐崎先輩。ちょっと聞きたいんですけど、先輩って…」
「おーおー、水も滴るいいワカメじゃのぉ、赤也」
切原くんが何かを口にしようとしたその時、またもや私の背後から声がした。考え込んでいた所為か、人の気配にまったく気づかず、思わず肩が揺れた。
「げっ、仁王先輩」
「プリッ」
振り返った私と目があった仁王くんは、しかしすぐに切原くんに向き直りながら私に並んだ。
「先輩にたいして随分な反応じゃのー赤也?で、名字と何を話しとるん?面白そうじゃけ、俺も混ぜてくれん?」
「い、いや全然大した話してないッス!」
ねえ、先輩?と話を振られて、大した話をしていないのは本当なのでこくりと頷いた。頷くことしかできなかった。
仁王くんが突然現れたことに驚いていうのもあるが、その前にさきほど思い浮かべた人物が素晴らしいタイミングで現れたことが鼓動に相乗効果を発揮していた。
私のことを知っているテニス部員として思い浮かんだ顔。
委員会が一緒の幸村くん。
クラスメイトの柳生くん。
…そして、仁王くん。
「ほー、そうか。…で、赤也」
「な、なんスか?」
「真田が探しとったぞ。おまんまた英語の小テストで赤点とったじゃろ?真田がカンカンになっとったぞ」
「! なんで副部長がそのこと知ってるんスか?!」
「早く逃げるなり、早々に言って謝るなりしたほうがいいんじゃなか?まあ罰の重さを考えれば後者をおすすめするがの」
「ひー!お、俺行ってきます!」
仁王くんの言葉に血相を変えた切原くんは、パッと駆け出そうとした。でも彼はすぐに足を止めてこちらを振り返った。目が合うと切原くんは先ほどのようににぃっと笑って、
「汐崎先輩!俺のことは切原くんじゃなくって下の名前で呼んでくださいッス!」
「…え?…えっと、赤也くん?」
「ひひ、それじゃあまた遊びに来るッス!」
「あ、うん、またね…?」
手を振りながら今度こそ去っていく切原くん…いや、赤也くんの後ろ姿に、手を振り返しながら、首をかしげた。なんだか、犬になつかれた気分だ。
「汐崎」
ふっと、仁王くんが口を開いた。…仁王くんが真横にいるのを少し忘れていた。思い出すと、仁王くんがいる側の半身が少しだけこわばった。
「…えと、なに?」
「いつの間に赤也と仲良くなったんじゃ?」
「仲良くなったというか、さっき唐突に話しかけられたというか…」
「ふーん。で、何の話してたんじゃ?」
「何っていうか、自己紹介しかしてない…ていうかなんか言いかけてたけど、仁王くん来たから」
「…ならええ」
「?」
不思議に思って仁王くんの顔を覗き込むが、相変わらず仁王くんは読めない表情をしていた。いわゆるポーカーフェイスとでもいうのか。
仁王くんの質問の意図も読めないが、赤也くんがなぜ私の名前を知っていたのかということもわからない。
あれ、そういえば。
「…ねえ、仁王くん」
「ん?」
「赤也くんもだけど、そういえばなんで仁王くんは私の名前知ってるの?一回も同じクラスになったことないよね?」
仁王くんも、なぜか私の名前を知っていた。
別に知っているからどうというわけではないけれど、ふと気になってしまった。
「………」
仁王くんはすぐには返事をしてくれなかった。
二人のあいだの静寂は蝉の声がかき乱していく。じりじりと照りつける太陽は相変わらず暑い。
「…企業秘密じゃ」
やっとのことで口を開いた仁王くんは、ニィっと笑うと人差し指を唇の前にあてた。赤也くんが浮かべていたのと同じ、悪戯っ子の笑顔。…唇にあてたれた指が妙に色っぽく見えるのは、仁王くんだからか、それとも私が夏の暑さにあてられたのか、それはわからない。
仁王くんが空を振り仰ぐ。つられるように見上げた空は、季節を象徴するように眩しかった。
「…夏、じゃな」