「汐崎さん」
柳生くんに呼び止められたのは、帰りのホームルームが終わってすぐのことだった。水やりに行こうと、とりあえず鞄は置いたまま教室を出ようとしたところだった。
「なに?柳生くん」
「汐崎さんは、美化委員でしたよね?」
「うん」
「実は先ほどプリントを預かりまして…これです」
差し出されたB5サイズの紙を受け取る。ふと何かが頭の中をかすめた気がしたがそれがなんなのか言葉に変換する前にそれは霧消してしまい、一瞬にしてないものとして消えていった。レンズ越しに柳生くんの目を見て礼を言う。
「わざわざありがとう」
「いえ。それでは」
私の礼の言葉に、軽い会釈を残して彼は去っていった。おそらく部活に向かうのだろう。
柳生くんから受け取ったプリントは、今月の委員会の資料の補足だった。内容は8月中の水遣り当番について。登校日ではないので、基本委員会担当の先生がやってくれるのだが、先生が来られない日の当番を決めるのを忘れていたらしい。出られる日があれば担当教員まで連絡するようにという指示だった。
「…んー」
そういえば7月の担当だけ決めて、夏休み中の担当を決めていなかった気がする。
委員会の他の面々の顔をぼんやりと思い浮かべながら考える。この学校での委員会活動は強制参加ではないものの、先ほどの柳生くんのように部活動と両方に所属する生徒が多い。そんな中で夏休みまでわざわざ委員会の仕事なんてしたくないだろう。
私もできれば進んでやりたいほどではないけれど、部活にも入っていない私はどうせ家にいてもぐだぐだしてしまうだろうし、勉強するついでに見に来ればいいだろう。
「失礼します」
職員室の扉を開けて、美化委員担当の先生を探す。すぐにその姿は見つかり、誰もいなければ該当日は全部出ることを伝えると、先生は目に見えて喜んだ。どうやらまだ誰も言いに来ていないらしい。予想は当たっていた。
「その代わり、図書室はちゃんと時間通り空けといてください…って、司書の先生に頼んでおいてください」
「わかった、頼んでおくよ。ありがとうな汐崎」
「どーせ暇なんで。失礼します」
ぺこりと形式的に会釈をして、その場を後にする。職員室を出て扉をしめ、さて水遣りに行くかと振り返る。
「こんなところで奇遇じゃの、汐崎」
「…あ」
この数日、見覚えのありすぎる姿がそこにあった。
「…どうも」
「なんじゃ呼び出しでもくらったんか?」
にぃっと笑った仁王くんは、いつの間にか私の横に並んで歩き出す。あまりにも自然に近寄ってきたので、逆に何も反応することができなかった。
「呼び出しっていうか…夏休み中の委員会のことでちょっとね」
「ほう。…おまんどんだけ委員会が好きなんじゃ?」
「別に好きでも嫌いでもないよ」
「嫌いだったらわざわざ自分から仕事を引き受けたりせんだろ」
「…聞いてたの?」
あたかも、私と先生のやりとりを知っていたような口ぶりに訝しむと、「プリッ」またあの妙な感嘆詞で誤魔化された。
「ということは、お前さん夏休みも学校に来るんじゃな?」
「まあ、そうだね。毎日は来ないけど」
「そーか」
一拍の間を空けて、
「じゃあ夏休みも会えるかもしれんな」
「!」
さらっとそんなことを言うものだから、内心私の胸の内で何かが跳ねた。特に何の他意もなんだろうけれど。
(って、私は一体何を考えているんだ)
「熱中症にならんように気をつけんしゃい」
「…それはそのまんま仁王くんに返すよ。テニス部の方がハードでしょ?頑張ってね」
「おー」
くしゃり。
一瞬、頭の上にわずかな重み。髪に触れたそのぬくもりに、頭を撫でられたのだと気づく。
「じゃあな」
「あ、うん…」
ちょうど廊下の角に差し掛かり、仁王くんはいたずらが成功したみたいな笑顔を浮かべ、そのまま階段を下りて行ってしまった。しばしその場に立ち止まる。触れられた髪にもちろん神経なんて通ってるはずはないのに、意識がそこへ集中してしまっている。
「…イケメンって、ずるいよなぁ」
顔が良いからこそ許される行為というものは確実に世の中に存在するのだと、その時私は改めて思い知ったのだった。