学校の校舎裏にある花壇の前、右手に持ったじょうろの水がなくなったのを目で確認して立ち上がる。
今週は美化委員の仕事の一貫である水やり当番だ。ここのところ暑い快晴の日が続いているためか、前日にたっぷり水をやっても翌日にはきれいさっぱり乾いている。
(でも、たしか幸村くんがあまり水をやりすぎてびしゃびしゃになるのもよくないとか言ってた気がする)
委員会の席でいつか隣になった男子生徒の言葉を思い出す。ふと顔を上げれば花壇の一番裏手に咲く、数週間前に見たときよりも随分と背丈の伸びてきた向日葵の花に目がいく。昼間の太陽を見上げるようにみんなしゃんと立っている。試験期間も終わり、夏休みまで秒読みとなり今週から午前授業だ。校庭の方からはどこかの部活の掛け声が聞こえてくる、そんな午後。
じりじりと照りつける太陽の光。夏の日差しは少々肌に痛くて苦手だ。夏服の袖から伸びる腕に刺さるそれは果たして、朝塗った日焼け止めクリームで本当に防げているのか疑問た。途切れることを知らない蝉の声もまた、この暑さに拍車をかけているように思えてくる。
花壇の淵にのせていた所為で少し土のついたスカートの裾を軽くはたきながら、じょうろを用具入れに戻しに、校舎の方へと向かう。
「―――ーーッ!」
その時、遠くで誰かの声がした。それに付随して誰かが走ってくる足音。こちらに近づいてきているような、
「!きゃっ」
「…ッおっと、すまん」
そのまま校舎の角を曲がろうとした時だった。ちょうど死角になっていたため、向こうから現れた誰かとぶつかりそうになってしまった。まず目に入ったのは橙色に黒いライン。そこから少し視線を上げれば、口元にホクロ、そしてしっぽのように首の後ろに下がる銀の髪…
「…に、」
「仁王ーッ!どこだー!?」
「!」
「…しつこいのう」
先ほどから聞こえていた誰かの声は、今目の前にいる彼…仁王くんを呼ぶ声だったようだ。そしてその声とおそらくその声の主のものであろう足音が徐々に近づいてきていた。
「ちょいと失礼するぜよ」
「っえ?!ちょっと!」
「プリッ」
自分を呼ぶ声にチラッと元来た方を振り返った仁王くんは、何を思ったか私の右手を掴んだ。その拍子に手に持っていたじょうろは地面へと落ちる。それを拾う間もなく、仁王くんはよくわからない感嘆詞?を発すると、そのまま走り出した。ちょうど歩いてきた花壇の方に戻る形になる。思考回路がまったく追いつかないまま半ば引きずられるように足を必死に動かした。
仁王くんに連れられるまま、花壇の元まで戻ってきてしまった。
何故か仁王くんは迷うことなく花壇の裏手へとまわった。ちょうどそこには学校の敷地内外を隔てるコンクリートの壁と、向日葵達の間に人一人分の隙間があり、そこに入り込むと仁王くんはすとんとしゃがみこんだ。手を掴まれたままの私も、それにならい腰をおろした。
ザッザッと、砂を踏む音が間近まで迫ってきた。
「…ったく、仁王のやつ、逃げ足が無駄にはえーんだよ。…おーい、仁王ーッ!」
向日葵の葉の隙間から向こう側を覗くと、橙色の、おそらく仁王くんと同じテニス部のだと思われるユニフォームを着た男子が少し足を止めて一息ついて、しかしそのまますぐに走り去っていた。顔が見えなかったから、誰かまではわからないけれど、私が顔見知りである部員でないことは確かだ。
(でも呼び捨てにしてたってことは、3年かな)
「…ブンちゃんも本当にしつこいのう」
足音が遠ざかると、仁王くんがふっと息をついた気配がした。
「悪かったな、巻き込んでしまって」
「!えっ、あ、ううん…」
声をかけられてそちらを振り返れば、思っていたよりも二人の距離が近いことに気づき、肩がびくりと揺れる。
テニス部の人気は知っていた。この学校に通っていてそれを知らない人なんていないんじゃないかというほど、それは常識的な知識みたいなもので、しかしなるほど、確かに間近で見れば美形である。
現在、同じクラスの柳生くんや真田くんや同じ委員会の幸村くんは多少なりと接点はあったが、他に関しては名前と容姿を小耳に挟む程度であまり興味がなかった。ましてや同じクラスになったことのない仁王くんとはもちろん、実質これが初対面のようなものだ。
ふと、まだ手を掴まれたままということに気づいたが、その手はすぐに離されることはなく、先に立ち上がった仁王くんによって引っ張り立たされる。
「あ、りがとう」
「ん。あと、これな」
「あっ」
彼が逆の手で差し出してきたのは先ほど落としたじょうろだった。
「いつの間に拾ってくれてたの?」
「ピヨッ」
「…ぴよ?」
…彼の発する感嘆詞はやはりよくわからない。首をかしげながらもそれを受け取る。
向日葵とコンクリートの壁に挟まれたここは私からするとちょうど太陽の日差しが当たらず影になっていた。しかし、私よりも背の高い仁王くんは向日葵達よりもほんの少しだけ高い。きっと、さっきしゃがんだのはこの為だろう。ツンツンと立った、しかし柔らかそうな銀髪に光が当たってキラキラと光っているようだった。
「どうかしたんか?」
「あっ、なんでもない!」
思わず見とれてしまっていたことに、声をかけられて気づきハッと我に返る。恥ずかしさに距離をとりたくとも、未だ右手は彼の手によって掴まれたまま。彼は慌てる私を見下ろし、何故かくつくつと肩を震わせた。
「お前さん、やっぱりおもしろい奴じゃの」
「え?」
「とりあえずここから出るか」
手をひかれるままに花壇の外へと抜ける。日差しの中へ出ると、ようやく右手が開放された。
「じゃあな」
「あ、うん」
そして仁王くんは少しだけ小走りで、先ほど追いかけてきた誰かと逆の方向へと去っていった。その後ろ姿に照りつける日差しと陽炎が、希薄な印象の彼をより一層そうさせているようで、先ほどの出来事は白昼夢だったのではないかと思えてくる。
彼の後ろ姿が見えなくなると同時に聴覚に突然再来した蝉の声によって、何かに引き戻されるような感覚に襲われる。いよいよあれは夢だったように思えてきたが、彼に掴まれていた右手に残る熱が自己主張を始めたことによって、私はあれが現実であったことをいやでも認識することになった。