前日の午後に降った雨のせいか、一段と蒸し暑い日だった。花壇の水やりを済ませて校舎に逃げ込む。司書の先生がちょうど在室中だったらしく、数学のテキストを鞄から出していると「頑張っているね」と声をかけられた。相変わらず、閉められた窓の向こうからかすかにどこかの運動部の掛け声と、吹奏楽部の演奏が聞こえる。

「今の時期はどの部活も大会だから大変ね。あなたは部活やってないの?」
「あ、はい。今日は美化委員の仕事で…」
「いつもえらいわぁ。今日は暑いから、もう少し涼しくなったら帰るといいわ。司書室にいるから、冷房寒すぎたら声かけてね」
「ありがとうございます」

 私が図書室に入り浸っているのに気づいていたのか…司書の先生はにこやかに立ち去っていった。丁度良く冷房の効いた室内は、夏の強い日差しも薄いカーテンで緩和されてとても居心地がいい。おかげで夏休みの課題も随分とはかどっているので、今更ながら、委員会の仕事がある日は必ず図書室をあけておいてくれるという約束を守ってくれた先生方には感謝しかない。

(今日は準決勝……)


「明日から全国大会なんだ」

 数日ぶりに下駄箱で鉢合わせた幸村くんに何気なく言われた一言で、テニス部の大会の日程を知ることになったのは、つい3日ほど前のことだった。

「えっ、そうなの?」
「やっぱり、汐崎さんって学校新聞みないんだ」
「……なんかごめん」
「いいよ。そうだろうと思ってたから」

 クスクスと笑う幸村くんになんとなく気恥ずかしくなり、忘れ物があると小さな嘘をついて一番手近な掲示板に駆け戻ると、そこには案の定テニス部の大会日程が載っていた。いつの間に決まったのか、トーナメント表が横に貼りだされていて、まるで優勝が必然かのように、『立海大付属』から一番上までひと際太い線がジグザグと上っていて、終業式の真田くんの後ろ姿が脳裏をよぎる。慌てて昇降口まで駆け戻ったけれど、幸村くんの姿はすでにそこにはいなかった。


(せめて応援の一言でもかけてあげればよかったな……)

 後悔したところでどうしようもないのだけれど、そんなことを思ってしまう。私の応援で、何の足しになるかはわからないし、なったところで余計な重しになるのも嫌だけれど…。
 詮無いことを考えても仕方がないので、目の前に広げた数学のテキストに集中することにする。とりあえず数学に関しては今日中には休み中の課題は片付きそうで安心した。

「課題でわからないところがあるなら聞いてみればいいんじゃないか?あいつは数学が得意だったはずだ」

「……」

 先週の雨の日の柳くんの言葉が耳の奥をかすめた気がしたが、とりあえず私は聞かなかったことにしてノートにペンを走らせた。





(終わったー……!)

 最後の1問を解き終わったところで大きく伸びをする。途中別の科目の課題に手を伸ばしたりもしたが、なんとか目標の数学をやっつけたので、気持ちはとてもせいせいしている。外はまだ明るいけれど、カーテンの隙間からもれる光はいつのまにか少しだけ赤みがかってきていた。

 荷物を仕舞い終え、一応司書室に顔を出して帰ることを告げると、先生はやっぱりにこやかに気を付けてねと手を振ってくれた。高校に上がったら図書委員でもいいな、なんて単純にも思ってしまう。

 いつのまにか吹奏楽部も練習を切り上げたのか、校舎の中はひと気がなくてがらんとしていた。自分の上履きの音がいつもより少しだけ大きく響くのがちょっと気になって、足早に昇降口へ急ぐ。途中、例の掲示板の前を通りかかり、無意識に足が止まっていた。
 目がトーナメント表を下からなぞる。今日は名古屋の学校と試合だったのか…。結果はどうだったんだろうか、勝てただろうか。

「響子って自分に関係ないこと全然興味ないじゃん?なのに大会の日程覚えてるなんてめっちゃ珍しい気がするんだよねぇ」

 ……たまたま、前日に幸村くんに会ったから頭の片隅にあっただけで、別に他意はない、たぶん。友人の言を思い出してなんとなくもやもやしながら踵を返す。下駄箱に到着してローファーに履き替えながら上履きを拾い上げようとした時、昇降口の扉が重く軋んだ音を立てたので、反射的に顔を上げた。

「……え」
「やっぱり来とったか、汐崎」

 銀色の髪の毛が、後ろから射し込む西日を反射してちらちらと光っている。一瞬呆けたようにその顔を見つめていたが、無意識に自分の左手が閉めた下駄箱のがちゃんという音でハッと気が付いた。

「仁王くん、今日、大会は」
「勝ったぜよ」

 すう、と目を細めて仁王くんは答える。あまりのもあっさりと勝利報告をされてしまい、気の利いた言葉が全く思いつかなくて、「お、おめでとう……?」と返すと「なんで疑問形なんじゃ」とつっこまれてしまった。

「汐崎は大会の日程知っておったんじゃな」
「……この間幸村くんに教えてもらって」
「……へぇ」

 つかつかと仁王くんが近づいてくる。

「仁王くん、これから校舎の中に用事?今日先生たち何人かしか来てないと思うけど……」
「いや……どちらかというとおまんに用があって」
「……私?」

 B組の下駄箱の方に行くから、てっきり上履きを出すのかと思ったらそういうわけではなかったらしい。私の真横までやってきた仁王くんは、自分のクラスの下駄箱に背を向けて私の方を見た。

「今度の土曜、決勝なんじゃ」
「うん」
「……それで、その…」
「うん?」
「…応援、しとってほしいんじゃ。その、汐崎に」
「え、うん。それは、自分の学校だもん。もちろん、」
「そうじゃのうて」

 歯切れ悪く応援してほしいなんて言うから、仁王くんでもそんなこと言うんだと思っていたら、なぜかちょっとばかり強く否定されてしまった。きっと私の頭の上には、漫画的表現をするならば?マークが沢山浮かんでいることだろう。たぶんそれが見えただろう仁王くんがあっ、と小さな声を上げた。

「……すまん。そうじゃ、なくて」
「うん」

 とりあえず、仁王くんが言いたいことがまとまるのを促す意味も込めて頷く。少しだけ視線をうろうろさせた後、何やら意を決したように口を開いた仁王くんの横顔は、西日に照らされて少し赤くなっているように見えた。


「俺を、応援してほしい」


 今度は私が口ごもる番だった。えっと、それはつまり…?予想外の言い直しに、頭の中が混乱している私は、先ほどまで歯切れの悪かった仁王くんの口から堰を切ったように言葉が次々に出てくるのを黙って聞くことしかできない。

「幸村でも、赤也でも、ジャッカルとか柳生とか真田でもなくて…」

「俺が試合に勝てるように、汐崎に、応援しててほしい」

 どこか掴めない印象だと思っていた。そのくせして、人のパーソナルスペースにしれっと入ってくる人。それでも、私は仁王くんのことをよく知らないと思っていた。知らないと思っていたのに、こうも具体的に言われてしまうと、いやでも頭は理解してしまう。つまり仁王くんは、私に、仁王くんだけを、応援してほしいと…?

「会場にまで来てほしいとか、そういうことじゃ、ないんじゃけど」
「…うん」
「うまく言えんけど……とにかく勝つから」

 仁王くんと、まっすぐ目が合う。私、今どんな顔してるだろうか。頷いた声がちょっと震えてしまった気がして、それすらも体温を上げる要因になっているような、

「それだけ、伝えたかった」

 引き留めて悪かった。気を付けて帰りんしゃい。
 昇降口の扉が重く軋んだ音を立てた瞬間、ハッと気づくと、遠ざかっていく銀髪が陽炎の中でゆらゆらしていた。今追いかけたら余裕で追いつく距離だったけれど、ローファーを履いた足は、コンクリートにくっ付けられたみたいに動いてくれない。やたらと跳ねまわる心拍数を少しでも抑えようとワイシャツのおなかのあたりを握ると、手汗がひどいことにも気づいてしまった。


 あの柳くんの例のノートに書かれているであろう私と仁王くんの間の距離についての答えが欲しいと、現実逃避のように私の脳内をよぎる。もう少し、図書室で涼んでから帰ればよかったとも思った。

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