柳くんが去り、残されたのは、勢いで椅子から立ち上がりかけた私と、そんな私に少し距離を置いて立ち止まっている仁王くん。雨が窓を叩く音だけが響く。

「…今日は、ここにおったんじゃな」

 先に沈黙を破ったのは、仁王くんだった。

「…うん。この雨じゃ水遣りも必要ないし」
「だろうな。俺らも練習中止じゃ」
「さっき柳くんも言ってた」
「…そーか」

 ペタペタと上履きを鳴らして歩き出した仁王くんに、私も金縛りがとけたように、中腰の状態からストンと席に座り直した。仁王くんは肩にかけているラケットバッグを立てかけると、私の斜め前の椅子を引いて座った。

「宿題か?」
「ああ、うん。家だとだらけちゃうから」
「真面目やの」
「そうかな?」

 おん、と仁王くんは頷く。図書館で勉強なんてしたこともなければ、しようと考えたこともない。そう続けて仁王くんは眩しそうに目を細める。まあ、仁王くんならそうだろうね。そう思いながら私は苦笑する。

 しかし、集中力はもうどっかに行ってしまったようだ。まだ雨は止まなさそうだけれど、今日はもう帰ろうかな。そう思い、ノートと問題集をたたむと、仁王くんが何やら意外そうに声を上げた。

「ん?続きやらんのか」
「あー…集中力切れちゃって」
「ふうん」

 出しっぱなしにしていた消しゴムやボールペンもペンケースにしまい、鞄の中に放り込む。

「…なあ」

 おもむろに、仁王くんから声をかけられる。私はその声に特に何も思うところもなく、返事をする。

「何?」
「参謀と仲良かったん?」

 参謀?内心で疑問符を浮かべる。
 私の表情を読んだのか、「柳のことじゃ」と言い直した。

「いや…さっき初めてしゃべった」
「…そのわりには随分しゃべっとったのう」
「?」

 仁王くんの声色が心なしか低くなった気がして、顔を上げる。交わった視線の先にある彼の瞳からは、どうしてだか何も読み取れるものがなかった。普段から飄々としてつかめない印象はあったけれど、それとはまた違う気がするのだ。
 そんな仁王くんに戸惑っている自分に気付いて、その事自体に戸惑っていると、仁王くんが再び口を開いた。

「赤也のやつが話しかけた時もそうじゃったな」
「…赤也くん?」

 どうして赤也くんの名前が出てくるのだろう。癖っ毛の彼の顔を思い浮かべながら首をかしげる。
 仁王くんは腰掛けた背もたれに背を預けた。ギィ、と椅子が悲鳴を上げる。

「幸村とも喋ってたじゃろ」
「えっ…まあ、去年から委員会一緒だし…」
「ジャッカルは?」
「去年同じクラスだった」
「柳生や真田は?あいつら同じクラスじゃろ?」
「うん。まあたまに話すかな」
「丸井は…」
「丸井…えっと、テニス部の丸井くん…?」

 半ばまくし立てるようにテニス部の面々の名前を口にする仁王くんの言葉に答える。答えながら、自分がこれまで全く関わりも何もないと思っていた、今のテニス部レギュラー陣と意外と面識があることがわかった。仁王くんの口から最後に出てきた丸井くんとは直接話したことはないけれど、去年桑原くんのところによくやってくる赤髪の男子がその彼であることくらいなら知っている。
それにしても、

「さっきからどうしたの?」
「…いや…」
「仁王くん?」

 仁王くんはふい、と視線を落とすと片手で顔を覆った。銀髪の長い前髪が、彼の節張った手の甲にさらりとかかる。私たちの間に、不自然な沈黙が下りる。

 …なんだか、らしくないように思えた。

 仁王くんからこんなふうに一度にいろんなことを聞かれたのは初めてだった。そもそも彼自身がどこか掴めない印象を持っているから、私も彼を知らないし、彼も私を知ろうとしているような素振りは見せなかったような気がする。

 …ああ、そうか。

(私、仁王くんのこと何も知らないんだ)

 当たり前だ。だって仁王くんと初めて言葉を交わしたこと自体、つい先月のことなのだ。どうしてだろうか、随分と前から仁王くんの事を知っているような気になっていたけれど、それは外から見た『テニス部の仁王雅治』でしかないのだ。私自身、初対面の相手にも大して人見知りしたりしないし、仁王くんも人の懐の隙間に入り込むのが上手いから、どこかで欠落していたのだろう。私と仁王くんの間に、互いを知る機会も関係も、存在なんてしていないのだと。
 『テニス部の』という肩書きを持つ『仁王雅治』は、そこに私自身との関連性がなくとも、イメージだけが先走ったその偶像は完成してしまう。もしかしたら、私はまだその偶像だけで彼を見ていたのではないかという気がしてくる。

 らしくないなんて、どの口が言えることなのだろう。

「仁王くん」
「汐崎」

 声が被る。しかし仁王くんはすぐに顔を上げようとはしなかった。息を飲むように詰まったセリフの、互いに互いの続きを促すような沈黙のあと、ようやく彼は顔から手を離して顔を上げる。
 そして合った視線は、見慣れた仁王くんのそれだった。

「変なこと聞いて悪かった。忘れてくれ」

 ヘラ、と笑った仁王くんは、確かに見慣れた彼自身なのに。

「…ううん」

 その時、仁王くんがあっと小さく声を上げる。何事かとその目が見つめる先をたどると、窓の外が明るくなっていることに気づく。

「もうじき雨上がりそうじゃな」

 思ったより、雨宿りの時間が短く済んで助かった。そう言って仁王くんは笑った。 
 そんな仁王くんに、心の中で訊ねる。ねぇ、仁王くん。君は雨宿りのためだけに図書室になんてやってきたの?その疑問に含まれるのは、ただの希望的観測でしかないのかもしれないけれど。

「…仁王のやつは」
「あまり女子に自分から話しかけるようなやつではない」

 柳くんの言葉。
 もしかしたら、柳くんのあのノートには、私が知らない仁王くんのことが書き記されていたりするのだろうか。柳くんが指で弾いたページに、一体何が書かれているのか、それを知りたいと思ってしまうのは。

 先ほど初めて言葉を交わしたばかりだというのに、私は心の中で柳くんに訊ねたい思いでいっぱいだった。彼なら、私の今の感情の意味を教えてくれるのだろうか。そのノートに答えは書いてあるのだろうか。

 もしかしたら簡単な計算ミスみたいな見落としかもしれないけれど、今の私にはわからないことだらけだ。


 ――ねぇ、仁王くん。どうやら私は、君のことを何も知らないみたいだよ。

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