ごぼり、あぶくがまたひとつ、私を置き去りにして去っていく。同時に首元にまとわりつく見えない真綿が、また少し窮屈になる。幼い頃離れてから久しく訪れていない母国の地。言葉に不自由しているわけでもないのに、けれどここでは私は異分子以外の何者でもなかった。眩しい照明に照らされた眼下に広がる光景と、熱気を帯びた歓声に頭の中がぐらりと揺れる。「日本のバスケもなかなかおもしれーぞ」隣に座るアレックスの言葉に曖昧に頷く。彼女は気にした風もなく、コートに視線を向けている。私もその視線をなぞるように再び眼下を見渡す。

「ああ、出てきたぞ」

 アレックスの声が耳に届くとほぼ同時、観客席の下の入場口から出てきた一団。その全員に平等にライトが照らされているはずなのに、私はすぐにその中から一人の姿を見つける。見つけてしまう。ごぼり。ごぼり。真綿はいつの間にか一本の糸になり、キリキリと私の首を締め付け始める。息が、出来ない。

「さて、どこまでやれるかな、タイガ」

 アレックスの口から出た彼の名前に、目眩がした。

 彼と出会ったのは、アメリカでのことだった。見慣れない男の子が、辰也と一緒にバスケをしている。偶然その場に通りかかった私は、その様子をただバスケットコートの白いラインの外から眺める。二人とも、楽しそう。二人は私に気づくことなく、ボールを追いかけ、走り、ゴールを目指した。タツヤがシュートを決める。大きく弾んだボールは、てんてんと私の元へ転がってきた。「わりぃ」ボールを追いかけてきた男の子は私に気づくと、そう言葉を発した。彼の口から出てきたのは、懐かしい母国の言葉だった。はい、とボールを手渡すと、両手で受け取りながら、男の子はキョトンと目を見開いた。

「…日本人?」
「うん。キミもなんだね。もしかして最近アメリカに来たの?」
「ああ」
「名前」
「Hi, タツヤ」
「お前ら知り合いだったのか」

 私は白いラインを踏み越える。あの頃の私と、ほとんど身長の変わらない小さな大我に一歩近寄って、右手を差し出す。一瞬びくりと肩を震わせた大我は、左手にボールを持ち替えて、ゆっくりと右手をこちらに向けた。その手をとってほんの少しだけ力を込めると、遠慮がちに握り返してくる気配がした。

「名字名前です。キミの名前を聞いてもいい?」
「…火神、大我」
「タイガ…カッコイイ名前だね」

 あの頃の大我の手は小さかった。けれど同い年の私の手よりは既に大きくて、辰也の細くてしなやかな指とは違う、暖かい手をしていたのを覚えている。これが、私と大我の最初の出会い。
 大我はそれからどんどんバスケが上手くなっていって、いつの間にか辰也と張り合えるくらいにまでなって、そんな彼らがボールを追いかけて笑う光景を、私は見ていた。時々私も混ぜてもらったりして、そしてアレックスに出会い、彼女にバスケを教わる彼らを、やっぱり私は一番近くで見ていた。

「オレはもう、タイガの兄貴とは名乗りたくない」

 大我と辰也はまるで兄弟のようだった。バスケットボールを追いかけ、チームを組み、時には別のチーム同士で、1対1で、楽しそうにバスケをする彼らは本当に仲が良かった。だから、辰也の言葉を聞いたとき、私はとっさに言葉を発することが出来なかった。言葉になりきれなかった息が喉を通り抜ける感覚が、不愉快だった。

「次、タイガのチームとの試合で負けたら、オレは」

 やめてよ辰也、聞きたくない。どこかで亀裂の走る音が聞こえた気がした。ごぼり、とそこから漏れ出ていくあぶくがひとつ。いつだって、私は彼らのゲームを横で見ていた。どちらが勝っても負けても、私はただそれを見て、応援していた。だって私は、二人がバスケをしているのが好きだったから。けれど、私はその次の試合を見に行かなかった。はじめてだった。亀裂が広がることを恐れて、私は逃げ出した。

 結局、その結末もうやむやになったまま。そして大我は日本へと帰ったのだと、のちにアレックスから聞いた。辰也はまだアメリカに残っていたけれど、彼と顔を合わせることもなくなった。逃げ出した私は、もう二度とそこへは戻れない。たとえ私が戻ったとしても、一度入った亀裂は戻らない。ごぼりごぼりとあぶくが消えていくのを、私はただ見ているだけだった。

 日本へ一緒に行かないか、とアレックスから言われて、私はここにやってきた。大我と辰也がバスケの試合をする。一緒に観ないか。その問いに私はなんと答えたのだったか。つい最近のことなのに、思い出せない。ただ、私はこうして日本のバスケの試合を観戦している、これが事実であり、答えであることに嘘はない。

「それにしても、良かったのか?タイガやタツヤに会わなくて」
「…いいの」

 アレックスは何か言いたげだったけれど、そうか、とだけ言うとそれ以上何も言わなかった。光が照らす先、大我の姿を私は見つめていた。その正面には辰也の姿。あの頃と同じだ。私はただ見ているだけ。違うのは喉にまとわりつく息苦しさと、彼の、彼自身の光。

 私は、二人に置いて行かれるのが嫌だった。できることなら今すぐにでも大我の背中へ駆け寄りたいのに、それはできなかった。今の私はもう、彼らが駆け抜けるコートへ入ることは許されない。光に満ちたバスケットコート。ごぼり、糸はいつの間にか一本のロープになって私の呼吸を不自由にする。足掻く私をあざ笑うように、大我の背中が遠くなっていく。私はあの頃、どうやってあの白線を踏み越えたのだろう。もうわからなくなっていた。

「大我」
「んだよ」
「私ね、大我がバスケしてるの、見るの好きだよ」
「急にどうした?」
「だから私、これからも  」

 試合開始のブザーが鳴る。私はおぼろげに思い出していた。まだ大我が辰也と笑ってバスケをしていた頃、大我と二人きりの帰り道。

「これからもずっと、大我と一緒にいたい。大我と、辰也と、私と、三人一緒に」

 目を見開いた大我は、すぐにニカッと笑った。夕日に照らされた、胸元のリングがキラリと光る。その時の私はそれがすごく眩しいと思った。

「オレも、名前とタツヤと一緒にいるの、好きだ」

 目の前で繰り広げられる試合、コートの中を走る大我はあの頃よりもずっとずっと輝いていて、あまりにも眩しい。彼はもうとっくに、私が手を伸ばしても届かないところへ行ってしまった。私は一人、取り残されたままで、私に残された酸素はあとどれくらいなのだろう。試合が一秒一秒確実に先へ進んでいくのを、私はただ薄暗いところから見ることしかできない。あんなに、二人のバスケが好きだったのに、苦しくて仕方が無かった。

「タイガ」

 光り輝くあなたの世界に、もう私の存在はいないのでしょう。「オレはもう、タイガの兄貴とは名乗りたくない」あの日、辰也が言った言葉が、今なら理解できる気がする。いつからか胸に抱いていた想いは、言葉にするまえに、私が私の手でなかったことにするのだ。
 試合が刻一刻と終わりへと近づいていく。私は最後に残った酸素を全て使い果たすつもりで言葉を発した。

「がんばれ、タイガ」

 ラインの向こう側へ行けない私にできることは、結局、最後まで見届けることだけなのだ。


(2014/03/04)


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