どれくらい、そうしていただろうか。

もしかしたら1分も経っていなかったかもしれないし、15分経っていたかもしれない。薄暗い視界にくぐもる自分の呼吸、頭の重さで若干の痺れを感じる両腕。ぼんやりとしていた思考回路がのろのろと再び動き出し、そこでようやく、いつの間にか机に突っ伏して居眠りをしていたのだということに気づく。

放課後の、私以外の人間の気配のない教室。今日はミーティングだけだからという彼氏を待つために勉強道具を広げてみたものの、どうも自分は一人で勉強するということが苦手で一向にはかどらなかった。挙句の果てには自分でも無意識のうちに居眠りまでして。この状態がバレたら彼氏に笑われるなあ、なんて思いながら、けれど体を起こす気にはなれずに意識だけ覚醒したままそのまま突っ伏していた。

それからまた、どれくらい経っただろう。
廊下に誰かの足音が響いていることに気づいた。彼氏が迎えに来たのだろうか。もし彼氏だったら笑われるだろうから起きなきゃ。しかしやはり起き上がる気にならずに、もう笑われてもいいや、と思ってしまう。足音が確実にこの教室の扉の前で止まり、ガラガラと引き戸が開かれる音を耳が拾った。

「…名字…?」

私の名前を呼んだのは、彼氏の声ではなかった。しかし、聞き覚えのある声。私はすぐにそれが誰の声なのかわかってしまった。

…花宮真くん。

彼との接点は、ただのクラスメイトという繋がりしかなかった。席替えで近くの席になったこともなければ、部活も委員会も何もかも違う。彼は私の彼氏と同じ、バスケ部だったと思う。
忘れ物でも、取りに来たのだろうか。花宮くんがこの教室に訪れたということは、バスケ部の今日の活動は終わったのだろうか。思考だけ働かせて、私はそのまま寝たふり状態で動かないでいた。

少しすると、花宮くんの足音は私の前方を横切って、一箇所で止まる。机の中を漁る音がして、やはり忘れ物だったのだろうと私は結論づけた。足音がまた近づいてくる。そのまま遠ざかっていくだろうと思った足音は、なぜか私の一番近いところで止まった。…え?止まった?しかし、今更顔をあげるわけにはいかなかった。別に疚しいことがあるわけではないけれど、なんとなく、気まずくなるのは目に見えている。

「…あいつのこと、待ってんのか」

ぽつりと頭上に降ってきた言葉は、私に話しかけているというより、独り言のようだった。あいつ、というのは私の彼氏のことだろう。だとしたらその通りだよと、心の中で彼の言葉に返事をするが、もちろん、寝ていることになっている私は実際にはうんともすんとも言わない。しかし、花宮くんはまだその場を動く気配を見せない。ドクドクと、心臓が早鐘を打ち始める。

その時だった。突っ伏した顔をささえるために投げ出していた私の指先に、何かが触れたのは。

危うく、肩を揺らすところだった。すんでのところでそれは回避したけれど、触れているものの正体を認識して、動悸が大きく波打ったのを感じた。私の指先に、花宮くんの手のひらが覆いかぶさっている。

そっと触れただけの手のひらは、次の瞬間きゅっと控えめに私の指先を握った。温かい、人の体温が指先をじんわりとあたためる。心臓は相変わらずうるさく脈打っていて、今触れている指先から花宮くんにそれが伝わってしまうのではないかと思った。羞恥で振りほどきたいのと、心地よい温かさに、私の思考はぐるぐると回っている。

それから、どれくらい経ったのか。
おもむろに花宮くんの手が離れていく。

「バァカ」

そう、一言残して、足音が遠ざかっていく。パタン。扉が閉まり、足音はあっという間に聞こえなくなった。私はようやく顔を上げる。まだ心臓はうるさく、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

「名前、お待たせ」
「…おつかれさま」

彼氏がやってきても、あの動悸は収まることはなく、

「帰ろうぜ」
「うん」

彼氏からいつものように左手を差し出される前に、自分の左手で彼の右手を掴んだのは、花宮くんが触れた右手の温度を少しでも残したかったからかもしれない。


…花宮くんはいわゆる優等生、品行方正、そんなイメージがぴったりの人だった。間違っても「バカ」なんて、彼の口から聞いたことなかったし、彼の普段の印象とは不似合いだった。けれど、あの時私の指先を離して発した彼の声は、いつも見ていた「花宮くん」の声よりも、「花宮真」らしいような気がした。もしかしたら、あの時の彼こそが、本当の花宮くんだったんじゃないか。

――そうだ、本当はずっと、知っていた。

だから、あの日から1ヶ月ほど経って、彼氏から別れを告げられても、「うん。わかった。今までありがとう」とあっさりと頷いたのだ。

「もう少し、泣いてくれるかと思ったんだけどな」

進学先の別離を理由に別れを告げた彼は、そう言って苦笑いをした。けれど、私はやっぱり彼氏との別れには泣けなかった。あの日の温度がまだ微かに右手の指先に残っている。彼氏の背中を見送りながら、私は強く拳を握った。


結局、その後も花宮くんとはクラスでも言葉を交わすこともなく、ましてや触れることもなく、日に日に指先の温度は冷えていく一方で、気づけば私の手には「卒業証書」なんて書かれた紙が丸められている。
花宮くんは、霧崎第一高校へ進学するらしい。この学年からは花宮くんしか進学していない、とても偏差値の高い高校だった。彼氏…いや、もう元彼氏か…よりも距離もレベルも遠い遠い学校。もう二度と、その溝が埋まることはないのだと思った瞬間、私の両目から涙がこぼれ出てきた。

本当は、ずっと知っていた。

――言葉は交わしたことはなかったけれど、時折、交錯していた視線の存在を。
――あの時の花宮くんは、私が狸寝入りをしていたなんてとうに見抜いていたことを。
――視線の中に含まれていた感情の名前も。
――指先を包んだ彼の手が温かった理由も。

――私が、花宮くんへ向けていた想いを。


もし、あの時寝たふりなんてしなければ、何か変わっていたのだろうか。それはわからない。ただ確かなことは、もう二度と、花宮くんと私の間の距離は近づくことはないのだということだけだった。私の右手を包んだあの温度に触れた時、あの時だけ唯一、私は花宮くんの一番近い「距離」にいた。もし、私があの時、離れていく温度にすがっていたら、

私の指先はとうに冷え切ってしまった。涙は、まだ止まらない。桜のつぼみはまだ眠りの中の、そんな3月のこと。

「バァカ」

そうして私は、もう二度と来ない春を思い出の中に埋葬した。


(2014/02/06)


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